Ω軍人とα幼妻

「また冨佐子さんにやられたのね」

 床に這いつくばって雑巾がけをしていると、冷たい声がかけられた。
 αの威圧とはまた違う緊張感に身がすくむ。恐る恐る振り返ると、やせた女性が立っている。真っ黒な洋装に身を包んだ彼女こそ、私の母のちゑである。
 母からはうっすらと薬品の匂いがした。抑制剤を打った直後なのだろうか。背筋はぴんと伸ばしているものの、強い薬の副作用で足元がふらついている。
  
「いえ……これは、私が……こぼしてしまって」
「あなたはお茶を頭からかぶるの?」

 母の冷たい言葉はいつも私を怯えさせた。Ωでありながら気の強い母は、冨佐子様や奥様の嫌がらせにも毅然とした対応をしてきた。その凛然とした態度に何度も救われてきたが、自分がそんな風になれるかというと別の話だ。
 私は弱い。気も弱いし、声も小さい、顔だって母の様に美しい訳じゃない。なんのとりえもない私が、αの冨佐子様に逆らえるわけがない。

「やったのは冨佐子さんなのでしょう? はっきりとしゃべりなさい!」
「……ご、ごめんなさい、お母様」
「どもらない! どうしてそんな簡単なことができないの!」

 ヒステリックな母の叫びが、狭い部屋に響く。
 『はっきりとしゃべりなさい』——それが母の口癖だった。愛人の子として肩身の狭い思いをしている私に、せめて公爵家の娘としての矜持を持てと言いたいのだろう。
 
「あなたには、私のようになってほしくないの」 
 
 けれど、その言葉は私にとっては重圧でしかなかった。
 母の望むような、強く気高い子になんてなれない。義姉が放つαの覇気を浴びるだけで、息ができなくなるほど萎縮してしまうのだから。自分は人をひざまずかせるαでもなければ、運命を狂わせるΩでもない。ただの、中途半端な出来損ないなのに。
 母に叱られ、声がどんどん小さくなる。消えてしまいたい、そんな思いが頭を占める。そんな時だった。

「小夜子さん。旦那様が至急お呼びです。すぐさま本邸の表座敷へ参られるように」
 
 玄関から、父の使いである家令の声が響く。
 母と私の二人だけが住んでいる離れに、男性の家令が来ることは今までなかった。急を要する事態なのだろう。

「あ、ああの、あの……」
「行きなさい。竹千代様に失礼のないように」
「あの、でも……」
 
 父からの報せとあっては母もそちらを優先するしかない。母は私の手から雑巾を取ると、床拭きを代わりにしてくれている。
 けれど私は動けなかった。

「わ、私、服が汚れていて。お父様に会うのなら着替えたほうがいいですよね……でも、急ぎだって」
「そんなことを悩んでいるの……」

 父の呼び出し。早さを優先して汚れた服のままで行くべきか、時間をかけてでも身なりを整えてから行くべきか。悩んだ挙句に動けないでいると、母は大きくため息をついた。
 
「あなたの悩んでいることは、どちらも正解です。やってはいけないのは、選択を恐れて『何もしない』こと」

 母はそう言うと髪についた茶の葉を取ってくれる。
 頭から茶をかぶったせいで、古いお仕着せの着物に染みがにじんで、みじめな姿だった。こんな姿で父の前に現れれば叱られてしまう。けれど今から着替えをすれば『至急』という父の命令に背くことになる。

「決めましたか?」
「……このまま、行きます……汚れてるけど……」
「されたことを正直に伝えなさい。あなたのせいではないのですから」
「……はい」

 嘘をついた。仮に叱られても、私には冨佐子様のせいだと伝える度胸はない。
 母も私の嘘に気づいてはいるのだろうけれど、急ぎの要件があるので何も追求してこなかった。

 ◇ ◇ ◇

「小夜子さん、こちらへ」

 家令の背中を追って、私は戸惑いながら離れを出た。
 足を踏み入れた本邸は、私たちが押し込められている日陰の離れとは、まるで別世界だった。
 塵一つなく磨き上げられた欅の廊下は鏡のように美しく、手入れされた中庭の松を映し出している。高く広々とした格天井に、豪奢な狩野派の金箔張りの襖絵。どこからか漂ってくる最高級の伽羅の香りが、私の着物に染み付いた安い古茶の匂いと惨めさを一層際立たせた。

 すれ違う本邸の使用人たちは、皆一様に上質な着物や洋制服を着こなしている。彼女たちは私の姿を視界の端に捉えるなり、あからさまに眉をひそめ、足早に壁際へ寄って道をあけた。敬意からではない。汚いものに触れたくないのだ。

「……みすぼらしい」
 
 侍女の冷たい声が、しんと静まり返る廊下に響く。この家では、誰も私のことを父の子としては扱わない。私はあくまで愛人・ちゑの娘でしかない。向けられる視線は冷たく、哀れみに満ちていた。
 惨めさで足がすくみそうになる。頭からかぶったお茶のせいで濡れた着物が冷たく肌に張り付き、一歩歩くたびに、自分がこの美しい空間においてひどく場違いな異物であることを見せつけられているようだった。
 家令は立ち止まることなく、ただ冷淡な足音を響かせて奥へ奥へと進んでいく。
 やがて、絢爛豪著な襖の前に辿り着いた。表座敷――公爵である父が、特別な客人を迎えるための最も格式高い部屋だ。
 家令が静かに正座をし、襖に手をかける。
 隙間から漏れ出てきたのは、肌を刺すような、重く冷徹な父の『覇気』だった。

「失礼いたします、お父様」
「小夜子か」
 
 声が震える。
 父は高齢だが、高位のαの血が心身を若く漲らせている。一声発するたびにびりびりと見えない圧がかけられて身がすくむ。

「座れ」

 恐ろしくて頭があげられないが、父の命令で下座に座らされる。私の着ている古いお仕着せよりも高価であろう座布団が、お茶の染みで濡れてしまう。そのことに家令が目を顰めるが、何もできない私はただ静かにぴかぴかに磨かれた畳を見つめるしかなかった。

「その格好はどうした」
「あ、あ、あの……お茶を……こぼしてしまって」
「まあ良い。今日の客にはそれが相応しい」
「相応しい……?」
 
 父の言葉の意味を問おうとした時、ばたばたと廊下を駆ける足音が聞こえた。遠くから「お嬢様!」と呼ぶ侍女の声がして、嫌な予感に体が固まる。
 
「ねえ、お父様! お客様が来てるわ!」

 案の定、声の主は冨佐子様だった。彼女は父の圧など気づいていないようで、興奮した様子で襖を開けると、外を指さす。

「どうして教えてくれなかったの!? 着替えが間に合わないじゃない!」

 侍女が床にめり込むほどひれ伏しているが、冨佐子様は気にならないようだ。それどころか私の存在にすら気づいておらず、しきりに外を気にして髪をいじっている。
 上気した頬が赤く染まっている。その姿は恋する乙女の様だった。
 艶めいた鳶色の髪、白い肌を引き立てる赤い絹の着物、期待に満ちて光り輝く黒曜石のような瞳。その美しさは、半分血を分け合った私が見ても息を呑むほどだった。
 彼女はその美しい唇で言った。

「軍神・鷹島様が来てくれたわ!」