Ω軍人とα幼妻

『帝國大捷(たいしょう) 露國(ろこく)遂ニ降伏ス!』

 明治三十九年四月。
 日露戦争は、帝国の勝利で幕を閉じた。
 号外を知らせる鈴の音が帝都の空に響き渡り、世間は連日のように戦勝の提灯行列で沸き立っている。
 新聞紙面を華やかに賑わせているのは、特務部隊『廻天隊(かいてんたい)』の目覚ましい功績だった。
 伊津名少将率いるその部隊は、全員がαで構成された類まれなるエリート集団だという。中でも特筆して新聞が書き立てていたのは、かつて私を危機から救ってくれたあの人――鷹島シヅヲ大尉の活躍だった。
 
 記事によれば、彼は激戦地である二〇三高地において顔面に重傷を負いながらも、決して歩みを止めなかったという。血まみれになりながらも最前線を駆け上がり、見事に日章旗を打ち立てた『軍神』であると。
 
「鷹島さん……あの時、助けてくれた方……」
 
 活字でその名を目にするだけで、胸の奥がキュンと甘くうずいた。
 あの夏の日、北海道のサロンで庇ってくれた大きく冷たい手。乱暴な獅子王大尉とは違う、静かでひんやりとした湖畔のような空気。
 遠い戦地にいる彼の報を聞いて、無事だったことに安堵するたび、どういうわけか身体がカッと熱を帯びるのだ。
 あの時、彼の血を見た瞬間に感じた『腹の底に別の生き物がいるような感覚』が、甘い疼きとなって私を焦じらせる。
 
「……いつまで手を止めているの。本当にのろまな子狸ね」
 
 ピシャリ、と鋭い声が響き、私の手から古い新聞紙が叩き落とされた。
 心地よい熱は一瞬で冷や水に変わり、私は慌てて畳に手をつく。
 
「も、申し訳ございません。お嬢様……」
 
 私を冷たい目で見下ろしているのは、豪奢な着物を纏った姉の冨佐子(ふさこ)だった。血縁上は母親違いの姉だが、私は姉と呼ぶことを許されていない。

「まだ終わっていないじゃない。なにをさぼっているの、この愚図が」
 
 冨佐子様の冷たい言葉に身がすくむ。私は表向きは公爵令嬢として扱われているものの、実態は下女以下の扱いだった。
 本邸の敷居をまたぐことは許されず、物置のような離れでひっそりと暮らしている。
 父・竹千代からは普段はいないものとして扱われているし、奥様は私たちを見ると気を悪くするため、里から下りてきた狸のようにこそこそと身を隠して暮らしている。
 本邸から与えられるわずかばかりの食事と金銭を母と分け合って生きている、惨めな生活。けれど本邸の目がないことには安らぎもあった。それなのに、どういうわけか冨佐子様はわざわざ離れにやってきて私たちをなじるのだった。
  
「今日も教育しに来てあげたわ。ありがたいと思いなさい。汚らわしい『Ωの子』め」
 
 Ωの子——
 それが、冨佐子様が私をなじり、痛めつけるときの常套句だった。
 私は愛人の子である。いや、それだけならまだましだった。
 私の母、田貫(たぬき)ちゑはΩであり、父・月守竹千代の【運命の番】だったのだ。
 母は元々、田舎の農家で働いていた普通の娘だった。それなのにたった一度、たまたま出会った父に印をつけられ、この公爵家という鳥籠に囚われてしまった。
 しかもその頃、父にはすでに正妻も子もいたというのに、母は愛人として囲われることになったのだ。突如として現れた【運命の番】という存在に、正妻である月守夫人も、その子供である冨佐子様たちもあたりが強く、母には針のむしろのような生活が続くことになった。
 運命——そんな美しくも残酷な言葉のために、母のささやかな人生はすべて奪われてしまったのだ。
 
「本当に忌まわしい。お前の母親のせいで、お母様がどれほど涙を流されたか」
 
 冨佐子様は、扇子の先で私の額を小突いた。
 
「【運命の番】だのとふざけた口実で、発情した体で父様を誘惑した浅ましい女。お前にもその汚らしい血が流れていると思うと、虫唾が走るわ」
「……ごめんなさい……」
 
 反論は無意味だ。震える声で謝罪をしたけれど、ビシャッ、と嫌な音を立てて、飲み残しの冷たいお茶が私の頭上からかけられた。
 
「あっ……」
「泥棒狸が。お前もどうせ、いつかその汚い本性を現して男を誑かすに決まっているのよ」
 
 茶の葉が髪に絡みつき、冷たい水滴が頬を伝って着物を汚していく。
 侍女たちがそれを見て、くすくすと笑っている。
 滴るお茶を拭うこともできず、私はただ唇を噛みしめる。
 私は、母が公爵家の富や名声を求めて父の愛人をしているとは思えない。
 けれど胸の内でどれだけ反発しようと、αである冨佐子様に逆らうことなど、私には到底できなかった。
 彼女が苛立ちとともに放つ鋭く重い覇気は、まだ第二の性に目覚めていない私の身体を物理的にすくませ、息をすることすら困難にさせる。
 
「さぁ、さっさとその汚い床を拭きなさい。愚図なお前の罰として、今日の夕飯は抜きよ」
 
 冷笑を残して、冨佐子様と侍女たちが部屋を去っていく。
 笑われ、いじめられ、人間としての尊厳を踏みにじられる日々。雑巾を手に取り、這いつくばって冷たい床を拭きながら、私はそっと自分の懐へ触れた。
 そこにあるのは、先ほど叩き落とされた、古くしわくちゃな新聞の切り抜きだ。

 『軍神・鷹島大尉、二〇三高地ニ日章旗ヲ掲グ』
 
 活字の向こう側にいる、あの夏の日に私を守ってくれた大きく冷たい手を思い浮かべる。
 泥のように惨めな毎日の中で、遠い戦地にいる彼の活躍を報じるこの小さな紙片だけが、今の私を繋ぎ止める、たった一つのお守りだった。