雨錆の歯車は静かに回る

 あの日、路地裏で助けられて以来、來城京華の心は帝都の雑踏に囚われたままだった。



 屋敷に帰れば、相変わらず何もかもが整った退屈な日常が待っている。しかし、京華の頭の片隅には、いつもあの不器用で、どこか底の知れない青年――影森寅次郎の姿があった。



 男たちが「影森」という名を聞く前、彼の放ったあの一言だけで顔を引き攣らせて逃げ出したあの光景。

 今思えば、彼らは家柄の権力に怯えていたのではない。目の前に立つ「影森寅次郎」という男個人の、その奥底にある『本物の危うさ』に本能的な恐怖を感じていたのだ。普段は眠たげなその瞳が、一瞬だけ見せた、一切の妥協を許さない絶対的な冷徹さ。京華は世間知らずだったが、それゆえに、彼の持つその底知れない凄みに強く惹きつけられてしまっていた。




(また、会えるかしら……)





 京華は、それから街に出るたび、こっそりと雑踏の中に彼の姿を探すようになった。



 付き人の谷垣は、お嬢様が以前よりも頻繁に外へ出たがる様子を、何も言わずに静かに見守っていた。その一歩後ろを歩く谷垣の目が、京華の視線の先にあるものをじっと観察していることなど、恋に盲目になりかけている京華は気づく由もなかった。






 季節は移り変わり、街には少しずつ冷たい風が吹き始める頃。
その日は、いつもより早く家を出た。銀座の賑やかな通りを抜け、少し外れた古風な街並みが残る一角を歩いていたとき、京華の足がピタリと止まった。



 見つけてしまったのだ。ずっと探していた、あの藍色の羽織。



「寅さん、見てください。この色の糸、次の仕立てにぴったりだと思いませんか?」

「ん? ああ、サヨの選ぶもんなら間違いないよ。俺にはどれも同じに見えるけどな」




 寅次郎は、いつもの眠たげな目をさらに細め、ふにゃりと締まりのない、ひどく穏やかな笑みを浮かべていた。その隣には、慎ましやかな木綿の着物を着た、可憐な娘――サヨが寄り添っている。



 
 京華の心臓が、どくりと大きく跳ねた。




 路地裏で自分を助けたときの、あの氷のような冷徹さとも違う。
 自分が「來城京華です」と名乗ったときの、あの他人に興味のない冷淡さとも、全く違う。




 心からその娘を慈しみ、守り、世界で一番大切なものを愛おしむような、そんな温かい笑顔。寅次郎の手は、自然な動作でサヨの持つ重そうな荷物を持ち替え、彼女が段差で躓かないよう、そっとその背に手を添えていた。







――あまりに楽しそうだった。




――あまりに、幸せそうだった。








 二人の間には、他者が一歩も立ち入ることのできない、積み重ねられた時間が流れていた。

 京華は、自分がひどく場違いな場所に立っているような気がして、思わず物陰に身を隠した。胸の奥が、雑巾を絞られるように痛い。買い与えられることが当たり前だった京華にとって、これが初めて知る「どれほど望んでも手に入らないもの」だった。



(ああ、そうか……)



 京華は、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ。

 悲しいはずなのに、なぜか不思議と、嫌な気持ちはしなかった。あの底知れない怖さを持つ影森寅次郎が、あんな風に優しく、心から笑える場所がある。そのことが、どこか美しく、尊いものに思えたのだ。




 身分は違えど、二人は深く愛し合っている。この時代、恋愛結婚がどれほど難しいかは京華とて知っていたが、それでも願わずにはいられなかった。






(あの二人が、このまま、ずっと幸せになってほしいな……)






 京華は静かに息を吐き、二人から目を逸らした。




 自分の淡い恋心に、そっと蓋をした瞬間だった。







 しかし。その様子を、京華の背後でじっと見つめていた男がいた。
 付き人の谷垣である。




 谷垣は、京華が物陰から切なげに見つめていた視線の先――影森寅次郎の姿を、その鋭い眼光で確実に捉えていた。



「……あのお方が、お嬢様の」




 谷垣の胸中に、ひとつの決意が宿った。


 お嬢様がこれほどまでに想いを寄せる男。ならば、何としてでもその願いを叶えるのが、幼い頃から彼女のすべてを守ってきた自分の役目であると、谷垣は歪んだほどに純粋な忠義を燃やし始めていた。







 運命の歯車が、最悪の形で噛み合い、狂い出そうとしていた。