「影森寅次郎」という男は、界隈では「掴みどころのない次男坊」として知られていた。
普段はいつも眠たげに目を細め、人当たりの良い笑みを浮かべている。長屋の子供たちに小銭を握らせて懐かせたり、近所の老人たちの重い荷物を肩代わりしたりと、誰からも「温厚で優しい若旦那だ」と評されていた。
だが、その笑顔の裏に、底の知れない『何か』があることを、鋭い人間は察していた。彼は、ただニコニコしているだけではない。あらゆる物事に対して冷徹に一線を引いており、その境界線の内側に入るものを慎重に見極めているのだ。
その寅次郎が、唯一、本当の意味で心の底から相好を崩す相手がいた。
近所の仕立屋の娘、サヨである。
「寅さん、またそんなところで油を売って。お兄様にまたお小言を言われますよ 」
夕暮れ時、茜色に染まる路地の片隅。
洗い立ての木綿の着物を着たサヨが、布の入った籠を抱えながら、呆れたように微笑んでいた。
「いいんだよ。兄貴は生真面目すぎるからな。俺みたいな出来損ないの次男坊は、こうして街の風に吹かれてるくらいが丁度いいのさ 」
寅次郎はふにゃりと締まりのない笑みを浮かべ、サヨの持つ重そうな籠を当然のようにひょいと取り上げた。
「あ、ありがとうございます…… 」
サヨの頬が、夕日とは違う赤さに染まる。
二人は幼馴染だった。
影森家は、來城家のような大華族には及ばないものの、それなりの財を成した格式ある家柄だ。本来なら仕立屋の娘など分不相応。だが、寅次郎は「家を継ぐ必要のない次男」という気楽な身分だった。長男である兄がすべてを背負ってくれている。だからこそ、寅次郎は自分の未来をあまり難しく考えていなかった。
(このまま、のらくらと生きて、いつか親父たちを説得して……サヨを嫁に貰えたら、それでいい)
言葉にこそしないが、二人の間には確かな愛があった。
サヨといる時の寅次郎は、ただの「優しい近所のお兄ちゃん」だった。サヨもまた、彼のその穏やかさに救われていた。
寅次郎は、本質的に身内、サヨ以外への関心が極端に薄い男だった。だからこそ、自分の大切な世界を脅かそうとする者や、面倒な関わり合いに対しては、どこまでも冷徹になれる。
あの日、銀座の路地裏で変な男たちに絡まれている良家のお嬢様――京華を見かけた時もそうだった。
普段なら無視するところだったが、男たちの下卑た笑い声が、どうにも耳障りだった。
「――おい。見っともねえ真似はよせ 」
声をかけた時、寅次郎の顔には何の感情もなかった。
男たちが凄んできた瞬間、寅次郎はただ、すっと目を細め、静かに立ち塞がった。
それは、怒号を飛ばすよりも恐ろしい、絶対的な「拒絶」の気配だった。声音はどこまでも静かだが、相手に「これ以上踏み込めば、こちらの全てを賭けてでも排除する」と思わせる冷たい圧力。
「耳、聞こえねえのか。失せろっつってんだよ 」
その一言で、男たちは恐怖に引き攣り、一目散に逃げ出した。
助けられた京華は、彼を「ぶっきらぼうだけど優しい人」と思ったようだが、それは大きな誤解だった。寅次郎にとって彼女を助けたのは、気まぐれ以下の、ただの「耳障りな雑音を排除する行為」に過ぎなかったのだから。
「來城京華と申します 」と名乗った少女の、すがるような綺麗な瞳を見ても、寅次郎の心は一ミリも動かなかった。
「影森寅次郎だ。……名乗るほどのもんじゃない。じゃあな 」
冷たく言い放ち、彼はすぐに少女のことを忘れた。
彼の頭にあるのは、今日の夕餉の時に、サヨにどんな土産を持っていこうか、ということだけだった。
――しかし、そんな温く、身勝手な平穏は、ある日突然、音を立てて崩壊する。
「寅次郎……! 大変だ、お兄様が、お兄様が……! 」
青ざめた顔で部屋に飛び込んできた母親の絶叫。
生真面目で、影森家のすべてを背負うはずだった長男が、突如として激しい喀血と共に倒れたのだ。医師の見立ては、当時の不治の病。長くないことは、誰の目にも明らかだった。
病床で痩せ細っていく兄の姿を見つめながら、寅次郎は、己の足元がガラガラと崩れ落ちていくのを感じていた。
次男坊としての気楽な日々が終わる。
これからは、自分が『影森家』という看板を背負わなければならない。
それは同時に、サヨとの身分違いの恋が、絶対に許されないものへと変わることを意味していた。
寅次郎は、暗い部屋の片隅で、自分の大きな手をじっと見つめていた。その目は、あの路地裏で男たちを脅した時よりも、さらに昏く、深く沈んでいた。
普段はいつも眠たげに目を細め、人当たりの良い笑みを浮かべている。長屋の子供たちに小銭を握らせて懐かせたり、近所の老人たちの重い荷物を肩代わりしたりと、誰からも「温厚で優しい若旦那だ」と評されていた。
だが、その笑顔の裏に、底の知れない『何か』があることを、鋭い人間は察していた。彼は、ただニコニコしているだけではない。あらゆる物事に対して冷徹に一線を引いており、その境界線の内側に入るものを慎重に見極めているのだ。
その寅次郎が、唯一、本当の意味で心の底から相好を崩す相手がいた。
近所の仕立屋の娘、サヨである。
「寅さん、またそんなところで油を売って。お兄様にまたお小言を言われますよ 」
夕暮れ時、茜色に染まる路地の片隅。
洗い立ての木綿の着物を着たサヨが、布の入った籠を抱えながら、呆れたように微笑んでいた。
「いいんだよ。兄貴は生真面目すぎるからな。俺みたいな出来損ないの次男坊は、こうして街の風に吹かれてるくらいが丁度いいのさ 」
寅次郎はふにゃりと締まりのない笑みを浮かべ、サヨの持つ重そうな籠を当然のようにひょいと取り上げた。
「あ、ありがとうございます…… 」
サヨの頬が、夕日とは違う赤さに染まる。
二人は幼馴染だった。
影森家は、來城家のような大華族には及ばないものの、それなりの財を成した格式ある家柄だ。本来なら仕立屋の娘など分不相応。だが、寅次郎は「家を継ぐ必要のない次男」という気楽な身分だった。長男である兄がすべてを背負ってくれている。だからこそ、寅次郎は自分の未来をあまり難しく考えていなかった。
(このまま、のらくらと生きて、いつか親父たちを説得して……サヨを嫁に貰えたら、それでいい)
言葉にこそしないが、二人の間には確かな愛があった。
サヨといる時の寅次郎は、ただの「優しい近所のお兄ちゃん」だった。サヨもまた、彼のその穏やかさに救われていた。
寅次郎は、本質的に身内、サヨ以外への関心が極端に薄い男だった。だからこそ、自分の大切な世界を脅かそうとする者や、面倒な関わり合いに対しては、どこまでも冷徹になれる。
あの日、銀座の路地裏で変な男たちに絡まれている良家のお嬢様――京華を見かけた時もそうだった。
普段なら無視するところだったが、男たちの下卑た笑い声が、どうにも耳障りだった。
「――おい。見っともねえ真似はよせ 」
声をかけた時、寅次郎の顔には何の感情もなかった。
男たちが凄んできた瞬間、寅次郎はただ、すっと目を細め、静かに立ち塞がった。
それは、怒号を飛ばすよりも恐ろしい、絶対的な「拒絶」の気配だった。声音はどこまでも静かだが、相手に「これ以上踏み込めば、こちらの全てを賭けてでも排除する」と思わせる冷たい圧力。
「耳、聞こえねえのか。失せろっつってんだよ 」
その一言で、男たちは恐怖に引き攣り、一目散に逃げ出した。
助けられた京華は、彼を「ぶっきらぼうだけど優しい人」と思ったようだが、それは大きな誤解だった。寅次郎にとって彼女を助けたのは、気まぐれ以下の、ただの「耳障りな雑音を排除する行為」に過ぎなかったのだから。
「來城京華と申します 」と名乗った少女の、すがるような綺麗な瞳を見ても、寅次郎の心は一ミリも動かなかった。
「影森寅次郎だ。……名乗るほどのもんじゃない。じゃあな 」
冷たく言い放ち、彼はすぐに少女のことを忘れた。
彼の頭にあるのは、今日の夕餉の時に、サヨにどんな土産を持っていこうか、ということだけだった。
――しかし、そんな温く、身勝手な平穏は、ある日突然、音を立てて崩壊する。
「寅次郎……! 大変だ、お兄様が、お兄様が……! 」
青ざめた顔で部屋に飛び込んできた母親の絶叫。
生真面目で、影森家のすべてを背負うはずだった長男が、突如として激しい喀血と共に倒れたのだ。医師の見立ては、当時の不治の病。長くないことは、誰の目にも明らかだった。
病床で痩せ細っていく兄の姿を見つめながら、寅次郎は、己の足元がガラガラと崩れ落ちていくのを感じていた。
次男坊としての気楽な日々が終わる。
これからは、自分が『影森家』という看板を背負わなければならない。
それは同時に、サヨとの身分違いの恋が、絶対に許されないものへと変わることを意味していた。
寅次郎は、暗い部屋の片隅で、自分の大きな手をじっと見つめていた。その目は、あの路地裏で男たちを脅した時よりも、さらに昏く、深く沈んでいた。


