文明開化の足音が鳴り響く明治 。レンガ造りの建物と馬車が行き交う帝都 。その一角に構える來城家の広大な屋敷は、高い塀に囲まれ、まるで外界の喧騒を拒絶する巨大な鳥籠のようであった 。
「お嬢様、本日の帯はどちらになさいますか。旦那様が買ってくださった西陣の、あの鮮やかな緋色のものがよろしいかと 。」
老いた女中が、恭しく頭を下げながら絹の擦れる音を立てる 。
部屋の隅に控える付き人の谷垣は、いつものように影のごとく静かに佇み、主人の一挙手一投足を見守っていた 。
「……何でもよいわ 。お任せするわ、お菊 」
來城京華は、姿見に映る自身の姿を虚ろな目で見つめていた 。
十七歳になった京華の肌は、陽の光をあまり浴びないせいで抜けるように白く、絹のように滑らかだった 。
買い与えられた最高級の友禅の着物、鼈甲の髪飾り、高価な舶来の香水 。
この屋敷において、京華が望んで手に入らなかったものは何一つない 。「欲しい」と口にする前に、父親が、あるいは谷垣が、先回りをして世界中の美しいものを京華の足元に差し出すからだ 。
それが世間一般でいう『幸福』というものなのだろう 。京華も幼い頃は、それを当然の権利として受け入れていた 。
しかし、物心がつくにつれ、その万能感が首を絞める真綿のように思えてならなくなった 。どれほど美しい衣服を身にまとおうとも、それは來城家という「家柄」を飾るための人形の衣装に過ぎない 。自分自身の意志など、この広い屋敷のどこにも存在しなかった 。
胸の奥が、きりきりと痛む 。父の満足げな顔も、女中たちの傅く姿も、すべてが自分を縛り付ける鎖に見えた 。
だから、京華は『家出』をする 。
それは、彼女に残された唯一の、ささやかな反逆だった 。
その日の午後 。お菊が用事で部屋を離れ、谷垣が庭師との打ち合わせのために席を外した、わずか一刻の隙を突いた 。
京華は地味な木綿の着物に着替え、髪を簡単に一本に結び、勝手口から音もなく抜け出した 。上質な革靴ではなく、履き慣れない安物の草履がパタパタと小気味よい音を立てる 。
一歩、敷居を跨いで外に出るだけで、空気の匂いが変わった 。馬の落とす不衛生な臭気、煮炊きの煙、道行く人々の汗と、湧き上がるような活気 。
京華は胸いっぱいにその空気を吸い込んだ 。苦しくて、泥臭くて、けれど、確かに生きて動いている人間の匂いだった 。
銀座の煉瓦通りに出ると、京華の心は踊った 。ガス灯の柱、軒を連ねる洋食屋、珍しい異国の品々を並べたショーウインドウ 。
屋敷にいれば、カタログ一つで何でも部屋に届く 。けれど、自分の足で歩き、自分の目で泥のついた現実を見ることに、京華は何よりも至上の喜びを感じていた 。
だが、世間知らずのお嬢様の一人歩きが、この時代の雑踏でどれほど危険か、京華はまだ本当の意味で理解していなかった 。
「おい、そこの姉ちゃん 。見慣れない顔だな 」
不意に、背後から濁った声が掛けられた 。
振り返ると、着崩した着物に兵児帯を締めた、いかにも素行の悪そうな男が二人、にやにやと笑いながら道を塞いでいた 。酒の匂いがぷんと漂う 。
「……何か御用でしょうか 」
京華は精一杯、毅然とした声を装った 。だが、育ちの良さは隠せず、声の端々におののきが混じる 。
「用がなきゃ声をかけねえよ 。ちょっとそこの路地裏で、面白いもん見せてやろうか 。いい着物着てるじゃねえか、小遣いくらい持ってるんだろ? 」
男の一人が、京華の手首を乱暴に掴んだ 。
「離してください!」
叫ぼうとしたが、恐怖で喉がすくむ 。通り過ぎる人々は、関わり合いを恐れて目を逸らし、足早に去っていく 。誰も助けてくれない 。初めて直面する世界の冷たさに、京華の身体ががたがたと震え出した 。
その時だった 。
「――おい 。見っともねえ真似はよせ 」
低く、しかし驚くほどよく通る声が、路地に響いた 。
手首を掴んでいた男が、忌々しげに声の主を睨みつける 。
そこに立っていたのは、一人の青年だった 。
年齢は二十歳前後だろうか 。仕立ての良い濃紺の羽織を無造作に羽織り、懐に手を突っ込んでいる 。一見すると優男の放蕩息子のようだが、その佇まいには冷徹なまでの落ち着きが漂っていた 。
「あぁ? 何だお前、すっこんでろ! 」
男の一人が凄んで一歩踏み出した 。
青年は懐から手を出すことすらなく、ただ、すっと目を細めて男たちを見据えた 。
その瞳には、怒りも、怯えも、高ぶりも一切なかった。そこにあるのは、害虫か何かを冷淡に観察するような、絶対的な虚無。背筋が凍るほどの静けさと、一切物怖じしないドスの効いた威圧感が、青年の身体から静かに立ち上っていた。
「耳、聞こえねえのか 。失せろっつってんだよ 」
青年が小さく息を吐き、静かに視線を合わせる。その声はどこまでも低く平坦だったが、それゆえに「次の一歩を踏み出せば、容赦なく社会的に、あるいは物理的に潰される」という確信を相手に抱かせるに十分な説得力を持っていた。
男たちの顔から、すうっと血の気が引いた 。この男はヤバい、何か別の世界で生きている人間だ。まともにやり合えば、言葉通り「消される」かもしれない 。本能的な恐怖に支配された男たちは、「ひ、っ」と短い悲鳴を上げると、京華の手を離して脱兎のごとく雑踏へ逃げ去っていった 。
静けさが戻った路地裏で、京華は荒い息をついていた 。
青年は、男たちが完全に去ったのを確認すると、すっと元の眠たげな目に表情を戻した 。先ほどの張り詰めた気配が嘘のように、人当たりの良さそうな雰囲気に様変わりしている 。
「……怪我は? 」
不器用そうに、青年が問いかけてくる 。
「え、あ……はい 。ございません 。助けていただき、ありがとうございました 」
京華は深々と頭を下げた 。心臓がまだ早鐘を打っている 。あの恐ろしい男たちを、ただの「一瞥」と「一言」で完璧に捩じ伏せてしまったこの青年は、一体何者なのだろう 。
青年は京華の姿を上から下まで眺め、ふっと呆れたように息を漏らした 。
「木綿を着てても、手を見りゃ分かる 。ろくに苦労も知らねえ、どこぞの良いとこのお嬢様だろ 。こんなところを一人でうろつくもんじゃない 。さっさと家に帰りな 」
冷たい言葉だった 。けれど、そのぶっきらぼうさの中に、確かな優しさがあることを、京華の鋭い感性は察知していた 。
「私は……來城京華と申します 。あなたのお名前を、伺っても? 」
尋ねると、青年は少し面倒くさそうに頭を掻いた 。
「影森寅次郎だ 。……名乗るほどのもんじゃない 。じゃあな 」
寅次郎はそれだけ言うと、振り返りもせず、人混みの中へと歩き去っていった 。
その広い背中を見送りながら、京華は自分の胸をそっと押さえた 。
これまで、すべてのものを与えられてきた 。
けれど、今日、命の危機から自分を引っ張り出してくれたあの圧倒的な強さと、ぶっきらぼうな言葉は、誰からも「買い与えられた」ものではなかった 。生まれて初めて、自分の力で出会った、本物の世界 。
京華の心の中に、影森寅次郎という男の存在が、鮮烈な光を放って居座り始めた瞬間だった 。
「お嬢様、本日の帯はどちらになさいますか。旦那様が買ってくださった西陣の、あの鮮やかな緋色のものがよろしいかと 。」
老いた女中が、恭しく頭を下げながら絹の擦れる音を立てる 。
部屋の隅に控える付き人の谷垣は、いつものように影のごとく静かに佇み、主人の一挙手一投足を見守っていた 。
「……何でもよいわ 。お任せするわ、お菊 」
來城京華は、姿見に映る自身の姿を虚ろな目で見つめていた 。
十七歳になった京華の肌は、陽の光をあまり浴びないせいで抜けるように白く、絹のように滑らかだった 。
買い与えられた最高級の友禅の着物、鼈甲の髪飾り、高価な舶来の香水 。
この屋敷において、京華が望んで手に入らなかったものは何一つない 。「欲しい」と口にする前に、父親が、あるいは谷垣が、先回りをして世界中の美しいものを京華の足元に差し出すからだ 。
それが世間一般でいう『幸福』というものなのだろう 。京華も幼い頃は、それを当然の権利として受け入れていた 。
しかし、物心がつくにつれ、その万能感が首を絞める真綿のように思えてならなくなった 。どれほど美しい衣服を身にまとおうとも、それは來城家という「家柄」を飾るための人形の衣装に過ぎない 。自分自身の意志など、この広い屋敷のどこにも存在しなかった 。
胸の奥が、きりきりと痛む 。父の満足げな顔も、女中たちの傅く姿も、すべてが自分を縛り付ける鎖に見えた 。
だから、京華は『家出』をする 。
それは、彼女に残された唯一の、ささやかな反逆だった 。
その日の午後 。お菊が用事で部屋を離れ、谷垣が庭師との打ち合わせのために席を外した、わずか一刻の隙を突いた 。
京華は地味な木綿の着物に着替え、髪を簡単に一本に結び、勝手口から音もなく抜け出した 。上質な革靴ではなく、履き慣れない安物の草履がパタパタと小気味よい音を立てる 。
一歩、敷居を跨いで外に出るだけで、空気の匂いが変わった 。馬の落とす不衛生な臭気、煮炊きの煙、道行く人々の汗と、湧き上がるような活気 。
京華は胸いっぱいにその空気を吸い込んだ 。苦しくて、泥臭くて、けれど、確かに生きて動いている人間の匂いだった 。
銀座の煉瓦通りに出ると、京華の心は踊った 。ガス灯の柱、軒を連ねる洋食屋、珍しい異国の品々を並べたショーウインドウ 。
屋敷にいれば、カタログ一つで何でも部屋に届く 。けれど、自分の足で歩き、自分の目で泥のついた現実を見ることに、京華は何よりも至上の喜びを感じていた 。
だが、世間知らずのお嬢様の一人歩きが、この時代の雑踏でどれほど危険か、京華はまだ本当の意味で理解していなかった 。
「おい、そこの姉ちゃん 。見慣れない顔だな 」
不意に、背後から濁った声が掛けられた 。
振り返ると、着崩した着物に兵児帯を締めた、いかにも素行の悪そうな男が二人、にやにやと笑いながら道を塞いでいた 。酒の匂いがぷんと漂う 。
「……何か御用でしょうか 」
京華は精一杯、毅然とした声を装った 。だが、育ちの良さは隠せず、声の端々におののきが混じる 。
「用がなきゃ声をかけねえよ 。ちょっとそこの路地裏で、面白いもん見せてやろうか 。いい着物着てるじゃねえか、小遣いくらい持ってるんだろ? 」
男の一人が、京華の手首を乱暴に掴んだ 。
「離してください!」
叫ぼうとしたが、恐怖で喉がすくむ 。通り過ぎる人々は、関わり合いを恐れて目を逸らし、足早に去っていく 。誰も助けてくれない 。初めて直面する世界の冷たさに、京華の身体ががたがたと震え出した 。
その時だった 。
「――おい 。見っともねえ真似はよせ 」
低く、しかし驚くほどよく通る声が、路地に響いた 。
手首を掴んでいた男が、忌々しげに声の主を睨みつける 。
そこに立っていたのは、一人の青年だった 。
年齢は二十歳前後だろうか 。仕立ての良い濃紺の羽織を無造作に羽織り、懐に手を突っ込んでいる 。一見すると優男の放蕩息子のようだが、その佇まいには冷徹なまでの落ち着きが漂っていた 。
「あぁ? 何だお前、すっこんでろ! 」
男の一人が凄んで一歩踏み出した 。
青年は懐から手を出すことすらなく、ただ、すっと目を細めて男たちを見据えた 。
その瞳には、怒りも、怯えも、高ぶりも一切なかった。そこにあるのは、害虫か何かを冷淡に観察するような、絶対的な虚無。背筋が凍るほどの静けさと、一切物怖じしないドスの効いた威圧感が、青年の身体から静かに立ち上っていた。
「耳、聞こえねえのか 。失せろっつってんだよ 」
青年が小さく息を吐き、静かに視線を合わせる。その声はどこまでも低く平坦だったが、それゆえに「次の一歩を踏み出せば、容赦なく社会的に、あるいは物理的に潰される」という確信を相手に抱かせるに十分な説得力を持っていた。
男たちの顔から、すうっと血の気が引いた 。この男はヤバい、何か別の世界で生きている人間だ。まともにやり合えば、言葉通り「消される」かもしれない 。本能的な恐怖に支配された男たちは、「ひ、っ」と短い悲鳴を上げると、京華の手を離して脱兎のごとく雑踏へ逃げ去っていった 。
静けさが戻った路地裏で、京華は荒い息をついていた 。
青年は、男たちが完全に去ったのを確認すると、すっと元の眠たげな目に表情を戻した 。先ほどの張り詰めた気配が嘘のように、人当たりの良さそうな雰囲気に様変わりしている 。
「……怪我は? 」
不器用そうに、青年が問いかけてくる 。
「え、あ……はい 。ございません 。助けていただき、ありがとうございました 」
京華は深々と頭を下げた 。心臓がまだ早鐘を打っている 。あの恐ろしい男たちを、ただの「一瞥」と「一言」で完璧に捩じ伏せてしまったこの青年は、一体何者なのだろう 。
青年は京華の姿を上から下まで眺め、ふっと呆れたように息を漏らした 。
「木綿を着てても、手を見りゃ分かる 。ろくに苦労も知らねえ、どこぞの良いとこのお嬢様だろ 。こんなところを一人でうろつくもんじゃない 。さっさと家に帰りな 」
冷たい言葉だった 。けれど、そのぶっきらぼうさの中に、確かな優しさがあることを、京華の鋭い感性は察知していた 。
「私は……來城京華と申します 。あなたのお名前を、伺っても? 」
尋ねると、青年は少し面倒くさそうに頭を掻いた 。
「影森寅次郎だ 。……名乗るほどのもんじゃない 。じゃあな 」
寅次郎はそれだけ言うと、振り返りもせず、人混みの中へと歩き去っていった 。
その広い背中を見送りながら、京華は自分の胸をそっと押さえた 。
これまで、すべてのものを与えられてきた 。
けれど、今日、命の危機から自分を引っ張り出してくれたあの圧倒的な強さと、ぶっきらぼうな言葉は、誰からも「買い与えられた」ものではなかった 。生まれて初めて、自分の力で出会った、本物の世界 。
京華の心の中に、影森寅次郎という男の存在が、鮮烈な光を放って居座り始めた瞬間だった 。


