彼氏には言わなくてもいいこと

 ある日、酒井くんは美術館のチラシを持ってきて、私と唯に見せた。
「こういうの、興味ある? この左下のやつ」
 見ると、「企画展 ポップアートと折り紙」と書かれていた。花柄の折り鶴のオブジェが写っている。
 すると唯が言った。
「折り紙の展示会?」
「多分ちょっと違う」
 他の折り紙サークルの展示会には、これまでに何度か見に行った。サークル内でメンバーを募り、数名で集まって行くのだ。
「これは折り紙そのものじゃなくて、折り紙をモチーフにした芸術作品の展示だと思う」
 私はチラシを眺めた。企画展のところに書かれたアーティストは、聞いたことのない人だった。
 気になった私は、いろいろと質問をした。
「これって有名な人なのかな」
「どうだろう。俺は芸術方面は門外漢で。でも折り紙モチーフだから、気になってる」
「誰か行くの?」
「いや、今のところ誰も。あいつらにも聞いたんだけど」
 あいつらとは、同期の男子二人のことだ。最近の二人はえらく親密で、私たちが入り込めないマイワールドを展開している。
「私はちょっと行ってみたいかも。行こうよ唯」
「んー」
 唯は手をひらひらさせて言った。
「ごめんだけど、美術館とかあんまり興味ないかも。オタクコンビで行っておいで」
「オタクって……」
 私は苦笑いをした。
 まあ、否定の余地はないんだけど。その言い方はあんまり好きじゃないなあ……。
 
 *
 
 週末、美術館に行くために駅で待ち合わせた。
 結局、今日は私と酒井くんしか集まらなかった。
 私を見つけた酒井くんは、私の姿をじっと見ていた。
「え、どうしたの?」
「いや、いつもと格好が違うね。可愛い系だ」
 今日は私なりに考えて、ガーリーなワンピースを着てきた。
「変かな」
「まさか、似合ってるよ」
 酒井くんがにっこりと笑って言うので、私は思わず目を逸らした。
 というか、酒井くんは気が付いているだろうか。
 美術館に、二人だけで行く。それって……。
 そう思ったら、変に意識してしまう。このワンピースも、その意識の表れだと思う。
 
 その美術館は、大きな公園の中にあった。
 美術館の中はしんとしていた。
 しゃべることがはばかられて、私たちは黙って作品を見た。
 ちらりと横目で酒井くんを見る。
 真顔で作品を見つめる酒井くん。シャツから細い首すじが覗く。
 目の前には、どぎついカラーリングで描かれた、折り紙の手裏剣の絵が飾られている。つまらなくはないけど、私には良さがわからない。
 今、酒井くんは何を考えながらこれを見ているんだろう。こういうのもありだな、とか思うのかな。
 彼の横顔は、いつもよりも大人びて見えた。
 そういえば、この人は私よりも一つ年上なんだ。普段は感じないけど、今は確かにそうだと思う。
 館内は空調が効いていて、ちょうどいい室温。そのせいなのか、すぐ横にいる酒井くんの熱が伝わってくるような錯覚を覚えた。
 その熱も、不思議と心地よい。
 私は、ゆっくりと作品を見る酒井くんと一定の距離を保ちながら館内を進んだ。
 企画展を一通り見て、静寂に包まれた館内から出ると、酒井くんは言った。
「ああ、世界って音にあふれているんだな」
 その子どもみたいな笑顔に、私もつられて笑った。

 その後、私たちはカフェに入った。
「しかし、アートはよくわからんな」
 酒井くんが真っ先にそう言ったので、私はほっとした。
「だよねー。でも、その割にはじっくり見てたよね」
「せっかく料金払ってるからね。何かを感じて帰ろうと思って」
「じゃあ、何かを得られた作品はあった?」
 すると、酒井くんは少しだけ考えてから言った。
「あのでっかい折り鶴のオブジェは悪くなかったな」
「あれね、わかりやすくていいよね」
 チラシにも載っていた、花柄の折り鶴のオブジェ。
 今回の目玉の作品だったようで、私の身長よりも大きく、見ごたえがあった。
「私だったらオブジェじゃなくて紙で折るけどね」
「わかる。でも強度に限界があるでしょ」
「のりでガチガチに固める」
「やば。次の展示会でやれば?」
 私たちは、そんな話でいつまでも盛り上がった。
 ああ、楽しい。
 どうしてこんなに楽しいんだろう。

 そろそろ出ようか、となった時に、酒井くんが言った。
「ムギちゃんって、まだ時間ある? よかったら、公園の中を見ていかない?」
 時間はたっぷりあったので、私はすぐに頷いた。
 二人で並んで歩き、花や植栽を眺める。
 花壇には、ピンク色の花が咲き乱れていた。でも、名前がわからない。
「可愛い花だね」
「コスモスだ」
 酒井くんがすぐに答えた。
「これがコスモスか。聞いたことある」
「秋の花の定番だな」
 こんな風に、花の名前について誰かと話すのは初めてだった。
 今日の酒井くんは、何だか一味違う。
 いつもよりも知的で、頼りがいがあるように見える。
 少し歩いてから、私たちはベンチに腰掛けた。
 二人で静かに座り、自転車に乗る子どもたちを眺めたりした。
 何かを話すこともせず、ただ並んで座っているだけなのに、とても居心地がいい。
 何もしていないせいか、子どものはしゃぐ声とともに、自分の心臓の音が聞こえてきた。
 とくん、とくん、という熱っぽい音が耳の奥で響く。
 この音、酒井くんには聞こえていないといいな。 

 帰り道。また私たちは同じ電車に乗った。
 車内はやや混雑していて、私の肩が酒井くんに触れてしまわないように気を付けた。
 もうすぐ、酒井くんの家の最寄り駅だ。
 彼が電車を降りるためには、私が少しだけ退いてあげないといけない。
 もし、このまま退かなかったら。
 酒井くんは電車を降りられない。彼の困った顔が目に浮かぶ。
 でも、どうしてそんなことをするんだろう?
 ……ううん、そんなのわかってる。
 だって、電車を降りてほしくないから。
 酒井くんと別れるのが、名残惜しいから。
 どうしよう、私、この人ともっと一緒にいたい。
 もっと、この人のことを感じていたい。
 でも、気が付くと駅だった。
「じゃあね」
 彼がそう言うと、私はすぐに体をずらした。
「うん、またね」
 彼が私の後ろをすり抜けようとしたとき、鞄が少しだけ私の背中に触れた。
 降りていく彼を見送ってから、私は背中をさすった。
 そこには、まだ彼の鞄があるような気がした。

 私はスマホを開いて、今日の写真を見た。
 企画展は全体的に撮影禁止だったけど、メインの巨大な折り鶴は撮影OKだった。
 SNSを開き、その写真を選択する。
 そのまま送信ボタンを押そうとしたけど、指が止まった。
 ……竜太に見られたくないな。
 私は投稿の下書きを削除して、スマホの画面を消した。
 黒い画面には、無表情の私が映っていた。