彼氏には言わなくてもいいこと

 ある日、一限目の講義の教室に着くと、もう彼がいた。
 酒井くんだ。
 彼の姿を見つけた瞬間、肩の力がふっと抜けた。
「おはよう」
「おう、おはよう」
「今日は遅刻しなかったね」
 すると、酒井くんは嫌そうな顔をした。
「何それ、なんか毎回遅刻してるみたいじゃん」
「そんなイメージだったけど、違った?」
「違うよ。二回に一回くらい」
 多すぎだよ、と思ったけど、言わないでおいてあげた。
「いいけど、ちゃんと単位は取りなよ。留年できないんでしょ?」
「おう……」
 一浪した酒井くんは、親から絶対に留年するなと厳しく言われているらしい。そりゃそうだ。
「しっかり単位とってさ、楽しい夏休みにしようよ。夏の展示会もあるし」
 そう、夏休みにはサークルの展示会が予定されている。
 各々が自由に作品を展示する場だ。うちみたいな緩い折り紙サークルでも、このくらいのイベントはやる。
 ちなみに、子ども向けのコーナーも設けていて、そこは毎年一年生が担当するらしい。
「そうだな、とにかく前期試験を無事に終えないと」
 酒井くんはノートを見つめて言った。私も頑張らなくっちゃ。

 ある日、唯とお茶をしているときに、夏休みの計画の話題になった。
「せっかくの夏休みだしさ、どこか旅行とか行こうよ」
「いいね、あとみんなで展示会の準備もしたいね」
 私がそう言うと、唯は呆れた顔をした。
「そんなの、活動日のときにやればいいじゃん。夏休みに折り紙してる大学生なんていないよ?」
「ええ、そうかな」
 私は首を傾げた。夏休みにも折り紙をしたいと思うことが、そんなに変かな。
 もしこれが酒井くんなら、私の気持ちをわかってくれると思うけど。
「同期グループにメッセージを送って集まろうかと思ってたんだけど」
「やめなよ……それを喜ぶのは酒井くんくらいだよ」
 それを聞いて、私はむすっとした。
「じゃあ酒井くんと個人的に集まります」
「どうぞどうぞ」
 唯はすっかりバカにした表情をしていた。
 でも、悪くないかも。適当に言ったことだったけど、折り紙の話をするなら酒井くんが一番だ。
 タップ一つでもらうSNSの「いいね」なんかよりも、酒井くんからの熱量のあるレビューをもらう方が楽しい。
 折り紙を折る時も、私は誰かとワイワイしながらやる方が好きだ。
 それに、また本を借りるのもいいかもしれない。あの家の本棚には、気になる本がまだたくさんあった。
 まあ何にせよ、楽しみだな、夏休み。

 *

 試験期間を終え、無事に夏休みを迎えた。
 大学一年生ということでやる気に満ちていた私は、単位を一つも落とさなかった。
 唯や酒井くんなどの友人たちもおおむね同様だった。
 大学の夏休みは、長い。
 バイトや帰省で多少は予定が埋まるし、展示会に向けたサークルの集まりもあるけど、私は暇を持て余していた。
 ある日、私は同期グループにメッセージを送った。
『みんなで集まって折り紙しようよ~。展示会の相談とかしようよ~。ここの週の予定はどうですか?』
 唯のバカにした顔が脳裏に浮かんだものの、私は気にせず送った。
 まったく、折り紙の何がダメなんだ。旅行やバーベキューとかならいいのか。
 しばらくして、みんなから返信が来た。
『すまん、帰省なんだ』『ちょっとバイトで』『彼氏が』
 おいおいマジか。みんなダメなのか。唯はめんどくさがってるだけなんだろうけど。
 はあ、とため息をつくと、またスマホの通知が鳴った。
 酒井くんだった。
『いいね。俺、行けるよ』
 さすが酒井くん! 信じてた!
 さらにメッセージが来た。
『みんなダメみたいだけど、二人だけでもやる?』
 私は即レスした。
『やりましょう!』
 本当は大勢で集まりたかったけど、酒井くんだけでもいてくれれば十分だ。

 *
 
 約束の日、私と酒井くんはカラオケボックスに集合した。
 喫茶店のテーブルは狭すぎるということで話し合った結果、カラオケになった。気が向いたら歌も歌える。
 受付に二時間と伝える。部屋に入り、私は照明の明るさを最大にした。
「カラオケなんて久しぶりだよ」
 酒井くんは慣れないのか、そわそわしている。
「私はよく行ってたよ。歌わないでパーティとかもした」
「ははっ、さすがは元・女子高生」
 酒井くんはそう言うと、鞄から本を数冊出した。
「いろいろ持ってきた。ムギちゃんの好きそうなやつ」
「さすが〜」
 パラパラとめくりながら、私たちは展示会の話を始めた。
「子ども向けのコーナー、去年とちょっと変えたいと思ってるんだよね」
「うん、私も。せっかくだし、私たちのカラーを出したい」
 展示の他に、子ども向けに自由に折り紙を作れるコーナーを設ける。
 好きな色の折り紙を選べるほか、メンバーが厳選した作品の折り図を見ながら、その場で折ることができる。必要に応じて、メンバーが折り方を教えてあげることもある。
「と言っても、ベースは今のままでいいよな」
「折るだけじゃなくてさ、面白い作品の完成品を持ち帰れるようにするのは? 折るのはハードルが高いけど、この作品は気になる、みたいなのがあるかも」
「悪くないな。作り置きじゃなくて、リクエストを受けて、その場で折ってあげるような感じかな」
「折り紙屋さんだ。もし人気が出たら手が回らなくなるかな……」
「大丈夫でしょ。夏の展示会はお客さんが多くないらしいから」
 そうなのだ。学園祭のように自然と人が集まるイベントならともかく、個別に開催する展示会は来場者数が限られる。
「俺はいいアイデアだと思ったよ」
 酒井くんに認められて、私はにっこりと笑った。
「よし、じゃあどの作品にするか決めようか」
 それから、私たちは気になった作品を折り、お互いに見せ合った。
 酒井くんは、数回折っただけのとても簡単な作品を見せてきた。
「超簡単な犬の顔。小学生のころ、友達のレベルに合わせてあげようと思ってこれを折ったら、ショボすぎるってめっちゃバカにされた」
「小学生って意外とみんな折れるよね。それはさすがに簡単すぎるかも」
 次に、私は赤い作品を自分の口に当てた。
「くちびる」
 本ではキスマークという作品名だった。
「それいい! 子どもにウケると思う」
「しかも開くの。ほら」
 私は折り紙の赤い唇をパクパクと動かした。中からちらりと白い裏面が見えて、歯のようだ。
「はいそれ採用」
「やったー。ちょっと難しいから、これは私たちが折ってあげる用ね」
「いやあ、やっぱりムギちゃんはチョイスがいいし、折るのもうまいよな。ここの角も綺麗に折れてる」
 酒井くんは折り紙の唇をしげしげと眺めた。
 褒められた私は気分が上がってきた。今日はいくらでも折れそうだ。
 そうやって作品を折り続けていると、プルルル! と部屋の電話が鳴った。
 びっくりしてスマホを見ると、もうすぐ二時間が経とうとしていた。え、もう?
 私は受話器を取った。
「はい、あと五分。延長は……」
 酒井くんの方を見ると、彼は「しなくていいよ」と言った。
「延長しません。はーい」
 そう言って受話器を戻すと、信じられないという気持ちになった。あっという間の二時間だった。
 私たちは折り紙を片付けて部屋を出た。
「今日はいろいろ決まったな」
 酒井くんは満足そうだ。
 でも、私はまだまだ折り続けたかったな。
 
 駅まで並んで歩いたとき、不意に、酒井くんはにっこりと笑ってこちらを見た。
「今日、楽しかったな」
 それに釣られて、私も笑顔になる。
「うん!」
 もう、すごく楽しかった。こんなに時間が短く感じたのは、いつ以来だろう。
 私はそんなことを思いながら駅へ向かった。
 
 *
 
 その日の夜、竜太と通話をした。
『展示会かあ、なんか本格的だね』
「そう、今日は準備してたの」
『順調なの?』
「うん!」
 そして、私は次の言葉を探した。
 子ども向けのコーナーで折り紙屋さんをやること。
 好評だった唇。
 ショボい犬の顔。
 どれも、折り紙がわからない竜太にうまく伝えられる気がしなくて、私は口を閉じた。
『唯もやってるんだっけ?』
 唯は高校からの共通の友人だ。私と同じサークルにいることも知っている。
「いや、唯は来なかったね。あの……今日は他の同期と集まってた」
 他の同期。酒井くんだ。
 今になって、男の人と二人きりでカラオケに行ったことに気が付き、冷や汗が出た。
 これは、竜太には言えない。
『仲がよさそうでいいな。頑張ってね』
「うん……竜太も頑張ってね」
 通話を終えた私は、ふう、と細い息を吐いた。
 嘘はついてないけど、言えなかったな……。
 私はごろんとベッドに横たわると、タンスの上のワンピースの折り紙が視界に入った。
 今日、楽しかったな。また、いっぱい折り紙したいな。