彼氏には言わなくてもいいこと

 言うまでもなく大学生は学生で、その本分は勉強だ。
 でも、必修の講義が一限目にあるのはちょっとムカつく。
 教室で教授の板書を眺めていたら、急に教授の動きが止まり、目を細めて教室の後ろを睨んだ。
 ああ、きっとまた彼だな。見かけなかったから、今日も遅刻だろうと思った。
 ちらりと振り返ると、申し訳なさそうな顔の酒井くんが静かに席に着くところだった。
 ほら、やっぱり。私は呆れつつ、想像が当たったことが嬉しくて、心の中でこっそり笑った。
 酒井くんは朝に弱いらしく、遅刻の常習犯だ。こんな姿をもう何度も見ている。
 講義が終わると、酒井くんは一直線に私のところに来た。これもいつものパターン。
「ムギちゃん、あの……」
「ノートでしょ。はい」
 私がノートを差し出すと、酒井くんは両手を顔の前で合わせた。
「ありがとう。いやほんと助かる。なるべく今日中にコピーして返すから」
「ねえ、高校のときからこんな感じなの?」
 私が聞くと、酒井くんは頭をぽりぽりと掻き、バツの悪そうな顔で言った。
「いや、高校はそうでもなかったけど……浪人生という時間が俺を自堕落にさせたね」
「なるほどねえ」
 私は腕を組みながら言った。私から見た酒井くんの印象は「変な人」「すごい人」と来て、今は「朝起きられない人」に変わっていた。
「でもさ、直した方がいいよ。テストさえよければ単位は平気かもしれないけど、印象が悪いじゃん」
「返す言葉もございません……」
 酒井くんは弱った笑みを見せた。
「実家から、目覚まし時計だけじゃなくて、起こしてくれる親も持ってくるべきだったな」
 そして、そんなふざけたことを真剣な顔で言った。
 それがおかしくて、私は思わず吹き出してしまった。

 ノートはその日のうちに返してもらった。
 家に帰ってからノートを開くと、中から何かが落ちた。
 それは、紫色の折り紙でできた、可愛らしいワンピースだった。
 あれ、何これ? こんなの折ったっけ。
 拾い上げて裏を見ると、「いつもサンキュー」と書かれていた。
 ははあ、これは酒井くんのしわざだな。そう思ったら、私は笑いがこみ上げてきた。
「ふふっ。何でワンピースなの」
 やっぱり変な人だ。女子小学生のチョイスかよ。
 でも、こういうのをもらうのは初めてで、ちょっと嬉しいかも。メッセージカードって、いいね。
 温かい気持ちになった私は、折り紙のワンピースをタンスの上に立てかけて飾った。それはまるでお手本のように丁寧に折られた作品だった。
 ふーむ。さすが酒井くん。いつも上手に折るな。
 私はそれを眺めている間、にんまりと笑っていた。
 
 *
 
「もしもし」
『おっす』
 ある日の夜、竜太と通話をした。
『今日はどうだった?』
「サークルの日だったよ」
 そして、私は生き生きとしゃべり始めた。折り紙サークルに入ってからというもの、子どものころ以来の折り紙への情熱は完全に復活していた。
「ガチ勢っぽい細かい作品に挑戦したのよ。ペガサス」
 四本の脚、首と尻尾、そして二枚の美しい羽。一枚の紙からこれを折るという大作だ。
「だけど、安い……っていうか普通の折り紙で折ったから、重なりが多いところで厚みが出ちゃって、うまく折れなくて断念したのよ」
 私は一息に話してから、たはは、と笑ったが、竜太の反応は芳しくなかった。
『おお……なんか、すごいな』
 いやいや、すごくないよ。ダメだったっていう話をしたつもりだったんだけど。竜太は折り紙の話は全然ピンとこない。
「そういえば、竜太のSNS見たよ。そっちこそすごいね」
 竜太は大学でも水泳を続けていて、高校のときよりも本格的な練習に勤しんでいる。
 今日は大会があって入賞したらしく、他のメンバーとともに誇らしげな顔をした写真が公開されていた。
『いやあ、まだまだだ。SNSじゃ書かないけどさ、本当は結構悔しいんだよ』
 その声からは悔しさがにじんでいた。
 竜太は自分の弱いところを、私にだけ打ち明けてくれる。それはとても誇らしくて、力になってあげたいと心から思う。
「きっと、次はもっと伸ばせるよ。いつも練習してるんでしょ?」
『ああ、それなんだけど……』
 竜太の声が弱々しくなる。その様子に、私は少しだけ不安を覚えた。
『その、練習量を、増やそうと思ってて。これからは、あんまり週末にそっちに行けなくなるかも』
 思いがけない話に、私はギュッと目を閉じた。そんな、竜太に、会えないなんて。
 でも、竜太が水泳に本気なのは理解しているから、それを邪魔することはとてもできない。
「……そうかあ」
 私はやっとのことで声を絞り出した。
「練習、頑張ってね」
 会えなくなるのは嫌だったけど、竜太を心配させないように、私は努めて明るい声で言った。
『なるべく電話するから』
「うん……ありがとう」
 通話を終えた私は、スマホをテーブルに置いた。
 大学に入学してからも、月に二回は竜太と会っていた。
 それでも足りないと思っていたのに、もっと会えなくなるって?
 寂しいという気持ちと、応援してあげたいという気持ちがせめぎ合い、私は頭がくらくらした。
 私は大きなため息をついた。部屋の中はとても静かで、いつもより広く感じた。
 
 翌日、唯と学食でランチをしているときに、竜太の話を打ち明けた。
「そっかあ、それは寂しいよなあ」
 唯は私のことを温かく慰めてくれた。
「唯はいいよな。彼氏にしょっちゅう会えて」
 これは妬みだけど、唯にだったら許される。だって、
「うん、今日も泊まりに来ると思う」
 平気でこんなことを言うから。くそー。
「ときどき、貸してあげよっか?」
「こっわ」
 そう言って、私たちは笑い合った。
 唯、ありがとうね。
 こうして打ち明けられる相手がいるおかげで、私のささくれだった心は少し落ち着きを取り戻した。