彼氏には言わなくてもいいこと

 私は酒井くんが好きだった。
 折り紙に対する情熱。作品に対する理解。細くて長い指。私に注がれる熱い視線。

 私は竜太も好きだった。
 鍛え上げられた体。私への気遣い。低くて優しい声。高校時代から二人で積み上げてきた、甘酸っぱい思い出の数々。

 二人の全てが私を虜にした。
 そして今、私はどちらも失ってしまった。

 誰かを好きだと思う気持ちは、とても素敵で美しいことだと思っていた。
 でも、相手の気持ちを考えない一方的な「好き」は、ただ相手を傷つけるだけのものだった。
 私は隠し事をしたことで、竜太からの信頼を裏切った。
 私は竜太との関係を引きずったことで、酒井くんに我慢を強いていた。
 ……最低だ。
 そんなこと、わかっていたはずなのに。
 そうやって二人を傷つけた結果、それは私にもブーメランのように返ってきた。
 胸が、ぎゅうっと締め付けられるように痛い。
 これは自業自得としか言いようがなかった。

 ところが、徐々に冷静になってくると、まだ望みがあることに気が付いた。
 竜太からは、明確に別れを告げられた。
 一方の酒井くんは、あのとき帰ってくれと言われただけで、関係が完全に終わったわけじゃない。
 竜太と別れたって説明すれば、まだやり直せるかもしれない。
 わずかな期待を胸に抱き、私は酒井くんへメッセージを送った。
『大切な話がしたいです。今から電話をしてもいいですか』
 酒井くんが私のメッセージを無視したことはない。だから、何時間だって待ってやる。
 私はスマホを机に置いて顔を伏せ、いつか来るであろう通知音に耳を澄ませた。
 ピロン、とスマホが鳴ったのは、三十分ほど経ったころだった。
『今ならいいよ』
 私は震える指で通話のボタンを押した。
「もしもし」
『何?』
 スマホの向こう側から冷たい声がした。
 私は、これ以上嫌われたくないという気持ちで、慎重に言葉を選びながらしゃべった。
「あのね、大事な話があるから、聞いてほしいの」
『はい』
「あの……私ね、竜太と別れたの」
 一瞬の沈黙のあと、酒井くんは言った。
『……マジ? なんで?』
「実は、その……私が酒井くんと、えっと、関係を持ってること、バレちゃったの」
『ああ……』
 それは納得感の表れなんだろうか。表情が見えないので、酒井くんの感情がよくわからない。
『それで振られたんだ』
「う、うん。そう」
『で、仕方なくキープしてた俺の方に来たんだ』
 私はショックで今にも倒れそうになった。こんな展開になるはずじゃなかったのに!
「違う!」
 スマホを強く握りしめて、私は叫んだ。
「お願い、私の話を聞いて」
『……わかった』
 私は深呼吸をした。目を閉じて、自分が何を話さなくてはいけないのかを整理する。
「まずは、ごめんなさい。私の身勝手な振る舞いで、酒井くんのことを傷つけた。でも、私は酒井くんのことが好きなの。折り紙に情熱を燃やしている酒井くんは、私にとって特別なの」
 私は一気にしゃべり終えてから、もう一度深呼吸をした。
「だから、お願いです。またやり直してくれませんか?」
 酒井くんからの返事はなかった。きっと、無言で考えているんだと思う。
 電話は難しいな。相手の様子を声でしか推し量ることができないなんて。無音の状態が続き、私はやきもきした。
『んー』
 ようやく声が聞こえたけど、あまりいい感じではなさそう。私は冷や汗をかいた。
『あの、だから何?』
 きつい言葉が飛んできて、私は言葉を失った。崖から突き落とされたような気分だ。
『ムギちゃんが俺のことを好きなのは知ってるよ。前から言ってくれてたし。でもさ、だったら自分から彼氏に別れを告げるべきだったでしょ。今は、振られたから仕方なく俺のところに転がり込んできたとしか思えないよ』
「いや、私は、そんなことは……」
 私は呆然とした。なんて甘かったんだ。もう、手遅れだったなんて。
『きついこと言ってごめんね。俺、ムギちゃんの折り紙は好きだよ。だからまた前みたいに、ただのサークルの同期になろう』
「……はい」
『じゃあ、またサークルでね』
 そう言って電話は切れた。
 私は目の前が真っ暗になった。
 悲しみに打ちひしがれていたけど、もう涙が出てくることはなかった。
 
 *
 
 春休み中のサークル活動に顔を出すと、酒井くんがいた。
「お疲れ、ムギちゃん」
「うん、お疲れ……」
 あれだけのことがあったのに、酒井くんは以前までのように気さくに挨拶をしてきた。
 本当に、ただのサークル仲間としてやり直すつもりなんだろう。
 私たちはこれまでと変わらないみたいに、折り紙やおしゃべりをして過ごした。
 でも、私の心は変わった。
 折り紙を折る酒井くんの指は細長くて、爪が短く切り揃えられている。
 私はそれを見て、心の中だけでため息をついた。
 もし完全に拒絶してくれれば諦めもついた。でも、友人として接してくれる酒井くんの優しさは、私にとって生殺しだった。
 
 帰り際、私は酒井くんに声をかけた。
「あの……私の荷物、取りに行ってもいいかな」
 すると、酒井くんの優しいサークル仲間としての笑顔は消え、無表情になった。
「……いいよ」
 私たちは、とぼとぼと黙って歩き、酒井くんの家に向かった。
 部屋に上がると、壁に貼られた折り紙がまた新しくなっていた。
 私は、その中で目立っていた青い花を指した。
「これ、青くてきれいだね」
「ネモフィラ。赤とか黄色ばかりになると面白くないから、入れてみた」
 酒井くんは優しく説明してくれた。
 その様子を見て、私は意を決した。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど、いいかな」
「お、うん」
 私は胸に手を当てて、気持ちを落ち着けた。
「あれから私、いろいろ考えた。私は自分に甘かった。自分の気持ちばかり優先させてた。でも、すごく反省したし、もうこんなことはしない」
 心から申し訳ないという気持ちで体が縮こまった。
「だから、またチャンスをくれませんか。次は、もう酒井くんのことしか見ない」
 私は真剣な目で酒井くんを見た。
 酒井くんも真剣そうな顔で、口に手を当てて考えている様子だ。
「じゃあ……」
 酒井くんは鋭い目で私を見た。
 私は唾をごくりと飲み込んだ。
「それができるって証明してよ。数学専攻だから得意でしょ」
「ええ……?」
 私は戸惑ってしまった。証明って、どうすれば……?
「……ごめん、今のは意地悪だったね」
 酒井くんは弱々しく笑った。
「本当に信じていいわけ?」
「……うん。もう大丈夫。信じてほしい」
 すると、酒井くんは深いため息をついた。
「惚れた弱み……」
「え?」
「なんでもない。あの、もし浮気したら許さないからね」
 そう言った酒井くんは、いたずらそうな笑顔をしていた。
「はい……あれ、それって……⁉」
「隠し事はしないって約束できる?」
「で、できます!」
 私は、授業で先生に当てられた子どもみたいに背筋をピンと伸ばして答えた。
「じゃあ……今度こそ、正式に恋人ってことでいいのかな」
「うん……! ありがとう……!」

 後になって知ったことだけど、ネモフィラの花言葉には「あなたを許す」というものがあるらしい。それを酒井くんに聞いたら、ただの偶然だよって笑ってた。

「じゃあ、次は何を折ろうか?」