彼氏には言わなくてもいいこと

 あれから、酒井くんは会ってくれなくなった。
 彼の家に私物は置きっぱなしだし、メッセージを無視されることはないから、完全に拒否されているわけではないと思う。
 でも、彼からの返信はそっけない。
 ああ。
 私が、決断しなかったせいで。
 世の中には、時間が解決してくれることもある。でも、きっと今回はそうじゃない。
 こないだまで一緒にいてくれた人に見放されてしまったことに、私は絶望で押しつぶされた。

 スマホが鳴った。竜太からのメッセージだった。
『明日久しぶりに会えるの、楽しみだなあ』
 気が付けば、明日は竜太との約束の日だった。
 ということは、今日は酒井くんが私の家に来ていたかもしれなかったんだ。
 酒井くんとのやり取りを思い出し、私は改めて傷ついた。
 でも、竜太からのメッセージは、そんな私の心の隙間を埋めてくれた。
 苦しいけど、今は酒井くんのことを忘れよう。
 竜太に会うのはクリスマス以来だ。竜太に会えば、この気持ちも落ち着くはず。
『私も楽しみ!』
 そう返信して、さらにハートマークのスタンプも送った。私にしては珍しいけど、今はそういう気分だ。
 私は、竜太へのハートで胸をいっぱいに満たしてベッドに倒れこんだ。
 
 今日のデート先は動物園だった。ただ、春休みのせいか人が多く、疲れてしまったので早々に私の家で休むことにした。
「いやー大変だった」
 家に着いた私はソファに腰かけて、ぐっと足を伸ばした。
「動物を見に行ったはずなのに、人ばっかりだったね」
「そうだな」
 そうして、私たちはしばらく雑談をしていた。
 会話が途切れた時に、私は竜太の手をさすった。その次の私たちの展開を想像して、なすべきことを頭の中で整理する。
 ところが、彼はその手を引っ込めてしまった。
 竜太の思いがけない行動に、私はハッとして彼を見た。
 ソファに座ったまま、竜太は正面を見据えて口を開いた。
「なあ麦子。ちょっと話したいことがあるんだ」
「うん……」
 竜太の態度に不安を覚えて、私は姿勢を正した。
 竜太は鋭い目でこちらを見た。
「あのさ……何か、俺に言ってないことある?」
「え……?」
 突然の質問に、私は戸惑いを隠せなかった。
 言ってないこと。
 竜太の言うそれは、どう考えても酒井くんのことだった。
 どうしてバレたんだ。あんなに気を付けていたのに。
「ああ……どうかな? 何のこと?」
「こそこそするのは性に合わないんだけどさ」
 そう前置きした竜太は、深い呼吸をした。
「実はこないだ、唯に聞いたんだ。麦子が何か隠してるんじゃないかって」
 唯。その名前を聞いて、私は血の気が引いた。
 ――そういうの、二股とか、浮気っていうんだよ。
 唯は私の浮気を知っていて、それを軽蔑している。
 私は不安な顔で聞いた。
「それで、唯はなんて?」
「あいつは何も言わなかったよ」
 それを聞いて少しだけ安心して、私は顔の緊張がゆるんだ。唯は秘密をべらべら話すような子じゃない。
「でも、違うとも言ってなかった。本人に聞けってさ」
 安心したのもつかの間、私の気持ちはどん底に突き落とされた。
 唯は秘密を暴露しなかった。でも、私をかばうこともしなかった。
「麦子、どうなんだ……?」
 竜太の低い声が、静かな部屋に響いた。
 私は黙ってしまった。正直に言えばいいだけのはずなのに、口が動かない。
 そもそも、今の私の正直な気持ちは何だ?
 私は竜太以外の男性と関係を持ちました。今は会っていません。
 ……でも、本当はすごく会いたいです。彼に拒絶されて、死ぬほど傷ついています。
 そんな最悪な本音、口が裂けても言えるわけない。
 部屋の中は重苦しい沈黙に包まれた。
 しばらくして、竜太は大きなため息をついた。
「……俺さ、期待してた。麦子なら違うって言ってくれるって。俺が考えすぎてただけだって」
 竜太の失望が声の端々から伝わってきて、私の胸を容赦なく刺した。
「でも、何にも言ってくれないなんてね……」
「ちがう、ちがうの」
 私はようやく声を発した。でも、それは何の説明にもならない言葉だった。
「はっきり言って、もう無理かなって思ってる」
 私は息を飲んだ。こらえきれなくなった涙がとめどなくあふれた。
「俺の見えないところで、麦子がどう過ごしているのか。もう信じられないよ」
 竜太の声は、これまで聞いたことがないほどに冷え切っていた。
「そんな、やだよ」
 私は竜太にすがった。彼は冷めきった目をしていた。
「俺、本当はこんなこと言いたくない。でも、もう続けられる自信がないんだ」
「竜太、ダメ、お願い……!」
「……だから」
 凍り付いたような表情をした竜太は、大きく深呼吸をした。
「別れよう」
 その言葉は、雷のように私を撃った。
 その場に崩れ落ちた私の口から、あ、あ、と嗚咽が漏れた。
 そんな私を尻目に、竜太は立ち上がって荷物をまとめだした。
 信じられない。高校生のときから、私たちはずっと一緒だったのに。
 あなたのことが、大好きなのに。
「……じゃあな」
 竜太は私をちらりと見ながらそう言うと、ゆっくりとした足取りでこの部屋から出ていった。
 部屋には、泣きじゃくる私だけが一人で残された。
 その私の泣き声は、もう竜太に届くことはなかった。