彼氏には言わなくてもいいこと

 それから、私と酒井くんは大学では節度のある距離感で接した。それで悪い噂が減ったかはわからないけど、熱い視線を交わすようなことはなく、普通の学友として過ごした。
 その代わりに、私はしょっちゅう酒井くんの家に行った。彼の家では誰の目も気にならない。私たちは折り紙に囲まれた聖域で愛しあった。
 歯ブラシ、化粧水、着替え。気が付けば、彼の部屋には私の荷物がどんどん増えていった。
 一緒にコンビニに行ったり、ベッドで動画を見たり、ときどき夕飯を作ったり。もちろん折り紙も。酒井くんと過ごす日常は幸せそのものだった。
 
 ある日、酒井くんがシャワーを浴びているとき、私はスマホでメッセージの返信を書いていた。
『お疲れ〜』『こっちはそろそろ試験だよ』『竜太も単位落とさないように気を付けてね!』
 送信ボタンをタップして、画面を見つめる。もう既読が付いた。
 困ったことに、私の竜太への愛が消えることはなかった。酒井くんによって満たされるほどに、ふとした心の隙間に竜太が現れた。
 しゅぽ、という音が鳴り、竜太からの返信が表示された。
『電話できる?』
 それを見たら、心臓がぎゅっと握られたように苦しくなった。
 画面を開きっぱなしだったから、もう既読が付いたはず。電話ができない論理的な理由がどうしても思いつかなかった私は『いいよ』と返した。
 すぐに着信が来た。
「はい」
『よっ、お疲れ』
「うん、竜太もお疲れ様」
『麦子の声が聞けると安心するよ』
「……うん、私も」
 がちゃり、と音がして、酒井くんがお風呂場から出たことがわかった。
 私は全身から汗が吹き出した。声が聞かれないように布団に潜った。
『春休みにはまたそっちに行くよ』
「うん、楽しみにしてる。ごめん、ちょっとそろそろ切るね」
『え? わかった。体調に気を付けてね』
「うん、ありがとう。おやすみ」
『おやすみ。またね』
 通話が切れると、私はそうっと布団から出た。すると、ちょうど酒井くんが洗面所から出てきたところだった。
 私は気が気ではなかったけど、酒井くんはこちらをちらりと見ただけで、何も言わずにドライヤーで髪を乾かし始めた。
 それを見てホッとした私は、ドライヤーの音に紛れて大きく息を吐いた。
 竜太との電話がバレていたかどうかはわからない。
 でも、酒井くんはいつも竜太について何も言わなかった。だからこそ、私は彼の前で竜太の気配を消そうとしていた。
 私は酒井くんが大好き。
 私は竜太も大好き。
 どちらも本当の気持ちだけど、二人と同時に行動することはできない。
 だから、場所や時間を問わないスマホでの連絡は慎重にしなければいけなかった。
 
 そんな綱渡りのような日々を過ごすうちに、季節は流れ、春休みがやって来た。
 学校が休みということは、酒井くんとも自然には会えないということだ。会うためには、自分から会いに行かなければならない。
「俺、ムギちゃんちに行ってみたい」
 ある日、酒井くんの家のベッドでいちゃついているときに、彼はそう言った。いつも私が彼の家に行くばかりで、彼を家に招いたことは一度もなかった。
 そうか、私から会いに行かなくても、向こうから来てくれることもあるのか!
「うん、いいよ」
 私はにっこりと答えた。
「じゃあ、バイトのない、この日はどう?」
 私はスケジュールを確認した。ちょうど空いてる。
「空いてる。オッケー」
「ちなみに……泊まったりとかは?」
 そう聞かれてスケジュールの翌日に目を通すと、私は手が震えた。
 竜太が来る日だった。
 私は頭の中に時計を思い浮かべた。
 酒井くんが朝まで家にいる。昼には帰ってもらう。午後に竜太と会う。そして、きっと私の家に来る。
 ギリギリ、セーフか?
 ……いや、アウトでしょ。酒井くんの痕跡を隠しきれる自信がない。
「ごめん、その日はちょっと」
「え、そう。朝には帰るつもりだったけど、ダメかな?」
「あの……ごめん」
 すると、酒井くんの顔が曇った。
「そっか。ムギちゃん、人気者で忙しいもんな」
 その言葉にはトゲがあった。多分、酒井くんは薄々気が付いてる。
「ごめんね。本当にごめん」
 私はただ謝ることしかできなかった。
「謝りすぎでしょ」
 酒井くんは静かに怒っていた。
 いつもだったら、私が謝れば酒井くんは許してくれた。
 でも、今日の彼は私の逃げ道を潰した。謝ることを否定されるのは初めてで、私は戸惑った。
「あのさ、ムギちゃん」
 彼は鋭い眼差しで私を貫いた。
「今まで黙ってたけど、俺、ずうっと我慢してんの。竜太くんのこと」
「え……?」
 酒井くんの口から竜太の名前が出たのを聞き、私は生きた心地がしなかった。
「ムギちゃんにとって、俺って何? 都合のいい間男?」
「そんなことないよ!」
 咄嗟に否定したけど、酒井くんは取り合わなかった。
「いつか俺だけを見てくれるって思ってたけど、ダメだったみたいだね。俺の家で彼氏と電話しちゃうくらいだし」
 私は絶句した。バレてたんだ……!
 鯉のように口をぱくぱくさせたまま、何も言うことができなかった。
「……頼むよ、ムギちゃん。俺、このままじゃ耐えらんない」
 酒井くんは、私に答えを出してほしいと言っている。
 至極、真っ当な意見だと思う。
 私はうつむいた。酒井くんには本当に悪いことをしている。もちろん、竜太にも。
 だけど、竜太と別れるなんて考えられない。
 目の前の酒井くんのことも手放したくない。
 床を見つめたまま視線を泳がせていると、酒井くんは立ち上がった。
「今日はもう帰って」
 あからさまな拒絶に私はショックを受け、ぶわっと涙があふれた。
「やだ、酒井くん、私、ちゃんとするから」
 涙声ですがる私を、彼は困った顔で見た。
「泣くなよ……」
「ご、ごめん。ごめんね」
 でも、酒井くんは謝る私の手を振り払った。
「でも、今日は帰って。……泣くのが収まってからでいいから」
 彼はそう言って洗面所に消えていった。洗面所のドアがぱたんと閉まると、私は一人だった。
 おいおいと泣く声だけが静かな部屋に満ちていた。