彼氏には言わなくてもいいこと

「とりあえず、寒いから入りな」
 突然戻ってきた私を、酒井くんは優しく玄関に入れてくれた。
 でも、すぐに家に上げてくれることはなく、玄関の中で私を探るように見ていた。
「どうしたの」
 酒井くんは私の目を見ながら聞いた。
 それはいつものような甘い視線ではなく、迷子に話しかけるときのような柔らかい目つきだった。
「その……」
 自らの意志でここに戻ってきたはずなのに、いざ聞かれると恥ずかしくなってしまう。
 でも、私は気持ちを奮い立たせた。
「一緒にいたくて」
 すると、酒井くんの目が揺れた。
「もう遅い時間だけど、今から?」
「そうだよ」
 私は酒井くんのお腹のあたりをそっと触った。
「一緒に……いたい」
 私は、動揺を隠せずにいる酒井くんの目に向かって視線を送った。普段よりも潤んで、熱を帯びた視線。
「そういうの、ダメなんだと思ってた。本当にいいの?」
「いいの。私がそうしたいの」
 これまでの私は、線引きを守ろうとする側だった。それが、今は私から壊そうとしている。
 酒井くんは戸惑っていたけど、徐々に顔が赤らみ、目には期待の光が灯ってきた。
「そんなこと言われたら……俺、もう止められないよ」
 彼の喉仏が上下に動き、唾を飲み込む様子が見えた。
「あの、ムギちゃん、後悔しない?」
 私も唾を飲み込んだ。
「後悔は、するかも。多分」
「え、じゃあ」
「でも」
 私は酒井くんの言葉を遮った。鼻から息を吸い込むと、頭の中が冴え渡るような気がした。
「でも、今日はどうしても帰りたくない」
 私はもう一度、酒井くんの目を見た。
 それに応えてくれる酒井くんの視線は、見慣れたものだった。
 俺も一緒にいたいよ、と。
 酒井くんが目を伏せた。
「……わかった。上がって」
 私はようやくスニーカーを脱ぎ、酒井くんの部屋へ上がった。
「寒かったでしょ。お風呂溜めるから、入りな」
「ありがとう」
 お風呂が溜まるまでの間、私は部屋の中をきょろきょろと見回した。
 男の人の部屋に泊まるのは、初めてだ。
 何度も来たことがある部屋のはずなのに、ちっとも落ち着かない。
「俺の寝間着でいいかな」
 酒井くんは暖かそうなルームウェアを差し出してくれた。
「……うん。あの、ごめん、ちょっとコンビニ行ってくる」
 勢いで来ちゃったから、着替えなどが何もない。急いでショーツや歯ブラシを買い込んで部屋に戻ると、酒井くんはベッドに腰掛けてスマホを触っていた。
「お風呂、沸いてるよ。冷めないうちに入っちゃって」
「うん」
 洗面所にはシェービングジェルや男物の洗顔料が置いてあった。
 酒井くんの生活の様子を感じて、思わず笑みがこぼれた。
 お風呂で体を清めて温まった私は、酒井くんのルームウェアに袖を通した。酒井くんの匂いがした気がして、私の脳は小さく揺れた。
 酒井くんがお風呂に入っている間に、私はドライヤーで髪を乾かした。
 彼はあっという間にお風呂から上がってきた。早いな……。
 見ると、私に貸したものと同じルームウェアを着ている。
 私は恥ずかしすぎて顔を手で隠した。
「お揃いじゃん……」
「悪いな。同じのを何着も買うんだよ」
 酒井くんも照れた顔で言った。
 このワンルームの部屋には、ソファがない。私はテーブルの横の床に座っていた。
「ごめん、そこ寒いでしょ。俺、いつもベッドの上で生活してるから。ベッドに座ってていいよ」
 私は言われるがままにベッドに腰掛けた。酒井くんがキッチンに行ったとき、私はベッドのシーツを手でさすった。
 酒井くんはマグカップを手にして戻ってきた。差し出されたそれは香ばしいお茶だった。
 飲み慣れていなかったけど、口に入れると体の内側からじんわりと温かくなっていった。
「これ何?」
「ほうじ茶」
 ああ、ほうじ茶か。言われるまでわからなかった。
「おいしい」
 私はマグカップに顔を近づけて、その香りを楽しんだ。
 すると、酒井くんが私の隣に腰掛けた。ベッドが沈み込んでお尻が傾き、私は体を硬くした。
 酒井くんもマグカップを手にして、ほうじ茶をふうふうと冷ましながら飲んだ。
 彼がお茶をすする音を聞きながら、私は部屋に飾られた折り紙を見た。
「あの花」
 私は、壁に貼られた真っ赤な折り紙の花を指した。私も子どものころに折ったことがある気がする。
「赤くてきれいだね」
「椿だよ。冬だからね」
「もしかして、季節に合わせて変えてるの」
「そうだよ。気が付かなかった?」
「へへ」
 私は頭をぽりぽりと掻いた。花に詳しくないことが、少しだけ気恥ずかしい。
「酒井くんは花が好きなの?」
「それもあるけど……」
 酒井くんは遠くを見つめながら話した。
「実家の近くに、図書館があったんだ。子ども向けに本を紹介するボードがあって、そこにはいつも季節ごとの折り紙が飾られてた。春なら桜。夏ならカタツムリ。それがすごく好きだったんだよね」
「可愛いね」
 酒井くんは照れ笑いをした。
「どうも。で、一人暮らしを始めたときに、ふと思い出して、家の中でやってみることにしたんだ」
 そのエピソードは私の胸を打った。きっと、私はこの人のこういうところに惹かれているんだ。
「いい話だね。酒井くんはずうっと折り紙が好きなんだね」
 すると、酒井くんはマグカップをテーブルに置き、私の方を向いた。
「あの、ムギちゃん」
 緊張感が伝わってくる。私はなるべく優しくその言葉を受け止めた。
「はい」
「そういえば、ちゃんと言ってなかったと思って」
 私の心臓が激しく暴れだした。
 早く、次にくる言葉を言ってほしい。きっと、今の私は物欲しそうな顔をしている。
「ムギちゃん、好きだよ」
 部屋の中に、ぶわっと風が吹いた気がした。
 まっすぐに愛の言葉をぶつけられた私は、今にも天に昇ってしまいそうだった。
 そして、視界が滲んだ。きっと、私は後悔する。でも、これは私が選んだことだ。
 私はマグカップをテーブルに置いて目をぬぐった。
「……私も、好き」
 そして、私たちはどちらからともなく抱き合い、次第に二人の境界線はなくなっていった。