彼氏には言わなくてもいいこと

「あんた、噂されてるよ」
 ある日、カフェで唯から唐突にそう言われた。
「噂?」
「そう。同期の間で」
 なんのことだかわからず、私は眉間にしわを寄せた。
「何の話なの」
「あんたと酒井くん」
 その途端、私の心臓がぎゅんと跳ね上がった。
 唯は目を細くして言った。
「……硬い顔になったね。私、こないだ男子に言われたんだよ。麦子と酒井くんが怪しいって。私も内心そう思ってた」
 私は目を泳がせた。確かに、最近の私は酒井くんと距離が近かった。でも、前から仲は良かったはずだ。
「いや、私たちは折り紙仲間だから、仲がいいだけだよ」
「でもさ、その割には、しょっちゅう目を合わせるようになったよね」
 目。視線。それは盲点だった。
 私は酒井くんに向けて、よく目で合図をした。一緒にいられて嬉しい、と。
 すると、彼からも熱い視線がまっすぐに返ってくる。俺もだよ、と。
 まさか、それが周りに伝わるほどだったとは。
 黙り込んだ私を見て、唯は目を見開いた。
「……本当にそうなの?」
 私は黙秘を貫いた。でも、それは肯定の意思表示となんら変わりはなかった。
「竜太はどうなってるの?」
「……付き合ってる」
「ええ、マジか……」
 唯はショックを受けたようで、口が開いたままだ。
「本当に信じられない。竜太って超いいやつだったじゃん」
「……うん」
「あのさ麦子。そういうの、二股とか、浮気っていうんだよ」
 その言葉は、私に強烈なパンチを食らわせた。
 二股。浮気。なんて不快で、嫌悪したくなるような言葉。私の行為を言語化すると、そうなってしまうのか?
「でも、でもね、酒井くんとは……やってないし」
「ならどこまでしたのよ」
「手。手がちょっと触れるくらい」
 唯は大きなため息をついた。
「見つめ合って、手が触れ合って。それはもうアウトだね。考えてみて。竜太が他の女と親しそうに手をつないでいたらどうよ?」
 もし竜太が、他の女の人と。
 それを想像した瞬間、頭の中でざわざわっと音を立てて猛烈な嫉妬心が湧いた。
「……竜太はそんなことしない」
「そうだね。でもあんたはしてる」
 唯は私のことを軽蔑しきった目で見ている。
 自分が最低なのは自覚していたけど、人に指摘されると余計に浮き彫りになった。
「ていうか、酒井くんも同罪でしょ。麦子が竜太と付き合ってることを知ってるよね」
 思わぬ方向に矛先が向いてしまい、私は焦った。
「酒井くんは悪くないの。私のせいなの」
「そんなわけないでしょ」
 唯はぴしゃりと言い放った。
「もし麦子から誘ったんだとしても、酒井くんがそれを受け入れてる時点で同じだから」
 私はまた黙った。確かに、私たちは共犯者なんだ。
 何も言わない私を見て、唯はスマホを手にした。
「酒井くんにひとこと言ってやろうか」
「やめて!」
 思わず大きな声が出た。唯は驚いた顔をしている。
「お願い、本当にやめて……」
「……私もそこまで鬼じゃない」
 唯はスマホを置いた。
「でもさ、ちょっと考えなおした方がいいよ。本当に」
「……うん」
「で、こんな話をしちゃった後だけど……今日の鍋会は行くわけ?」
「行くよ。急に行かなくなったら変でしょ」
 そう。今日は同期で集まって鍋をつつく予定なのだ。また酒井くんの家で。
「それもそうか……。でも、早くどうにかしなよ」
 唯は私のことをギロリと睨んだ。
 私はどんよりとした気持ちになった。
 唯が言ったことは、正論だ。何も言い返せない。
 もう考えるまでもない。
 私は、本当に最低だ……。

 *

 ――あんた、噂されてるよ。
 みんなで酒井くんの家に着いたとき、唯の言葉が脳裏をよぎった。
 浮気者というレッテルを恐れて、私は酒井くんの隣の席を避けた。
 そして鍋をつつきながら、私は酒井くんを視界に入れないように心がけた。ノンアルコールサワーを飲みながら、ひたすら鍋と取り皿だけを見て、心を無にする。
「ムギちゃん肉食べてる?」
 いつもの優しい声が頭上から降ってきたので顔を上げると、酒井くんと目が合った。
 胸がドキドキと鳴り始め、つい鍋に負けないほどの熱い気持ちを視線で返そうとした。
 でも、周囲からの刺すような視線を感じて、また目を伏せてから答えた。
「大丈夫」
 本当はちっとも大丈夫じゃない。
 私の心をつかんで離さない人が目の前にいるのに、見ることも許されないなんて。胸がぎゅうぎゅうと締め付けられるようだった。
 鍋を食べ終えた私は、酒井くんを避けて唯にぴったりとくっついていた。
 いつもだったら折り紙の本などで盛り上がるところだけど、酒井くんは何かを察したのか話しかけてこなかった。
 これなら周囲に怪しまれずに済むと思って、私は安心した。
 一方で、酒井くんとの関係まで変わってしまうかもしれないという恐怖も感じた。
 私は部屋の壁を見つめた。相変わらず、可愛らしい花などの折り紙が貼られている。
 折り紙の花からは子どものような純真さを感じた。でも、私と酒井くんの関係は純真とはほど遠いものだった。

 *

「じゃ、またね」
 酒井くんに見送られて、私たちは彼の部屋を後にした。
「うー寒い」
 唯が肩をすくめて震えた。
「鍋はあんなに温かかったのに、外に出るとすぐに体が冷える」
「本当にそうだね」
 私は心も体も冷え切っていた。鍋なんて、今の私には何の役にも立たない。
 駅に着くと、方向の異なる唯たちと別れ、私は一人でホームに立った。
 二股。浮気。
 私と酒井くんの関係には、最初からそういう名前があった。
 体の関係性に線引きをすることは、私の心を楽にしてくれた。ここまでなら大丈夫だと思えた。
 でも、それは何の意味もなかった。結局、私は浮気をしている女だった。
 ふと、今日の鍋を思い出す。
 湯気の向こう側に、酒井くんの笑顔があった。その笑顔は太陽のように明るく、私を照らそうとしていた。
 そこには、確かな温もりがあった。私をいつでも迎え入れてくれる温もり。
 駅のスピーカーから案内が流れた。冷たい空気を連れて、ホームに電車が滑り込んでくる。
 電車のドアが開くと、私は車内を見つめた。
 これに乗れば、すぐに家に帰れる。
 ところが、私の足は凍りついたみたいに少しも動かなかった。
 柔らかな発車ベルが流れ、耳の中を通り抜けていった。ドアが閉まります、ご注意ください。
 そして宣言通りにドアが閉まり、ついに電車は走り去っていった。
 私は駅のホームに一人で取り残された。
 その後も電車は来たけど、私は動けずに見送った。
 三つ目の電車を見送った時、スマホが鳴った。
『もう家に着いた?』『なんか今日は疲れてそうだったし、よく寝て休みなよ』
 それは酒井くんからのメッセージだった。
 私は体の内側が少しだけ温かくなるのを感じた。
『まだ電車に乗ってない』『今からそっちに行かせて』
 かじかむ手を震わせながら返信を送り、私は踵を返した。