彼氏には言わなくてもいいこと

 酒井くんと名前のない関係になってから、私たちは仲睦まじく過ごした。
 これまでよりも親密に連絡し合い、大学内ではしょっちゅう一緒にいた。
 でも、オタクコンビという括りのおかげか、唯に関係を怪しまれることはなかった。
 週末には食事や散歩に出かけて、時には手をつないだ。最初はぎこちなかったけど、それも少しずつ自然になっていった。
 ある日、二人で部室(とは名ばかりの倉庫)に荷物を取りに行った。
「ねえ、ムギちゃん」
 私たちの他に誰もいない部屋で、酒井くんは私の顎に手を当てて顔を近づけようとした。
 私は、それを手でそっと制してから謝った。
「ごめん」
「……いいよ」
 竜太との関係を続けている私には、たとえ酒井くんであっても越えられない一線があった。
 だから大丈夫、なんてことは全く思わなかったけど、酒井くんを拒絶することで罪の意識は少しだけ軽くなる。
 ここまではいい、これはダメ。
 まるで綱引きのように、二人でバランスを取りながら境界線を探った。

 そうこうするうちに、冬の足音が近づいてきた。
 街には徐々に電飾が飾られ、浮かれたムードが漂い出す。
「ねえムギちゃん、クリスマスの予定は?」
 酒井くんは最初から諦めた表情で聞いた。
「本当にごめん」
 クリスマスは竜太とデートの約束をしている。
 まだ細かい話はしていないけど、きっと夜はうちで過ごすだろう。
 私は酒井くんの顔色を窺った。
 今年も竜太とクリスマスを過ごせることは、本当に楽しみだ。
 それなのに、酒井くんには嫉妬してほしかった。止めてほしかった。
 我ながら矛盾している。最低な女だ。
「そっか。いいクリスマスになるといいね」
 酒井くんは少しだけ寂しそうな笑顔で言った。
 笑顔で送り出された私は絶望し、深くて暗い穴に落ちていってしまうような気分だった。
 でも、本当はとっくに落ちている。ベン図の共通部分は底なしの穴だ。
 
 クリスマスイブの日。私と竜太は中華街に来た。私が食べ歩きをしたいと言ったのだ。
「後でケーキもあるんでしょ? ほどほどにしなよ」
「んふふ、甘い物は別腹なんだよ」
 そう言って、私たちはいろんなお店を回り、美味しそうな食べ物を少しずつ食べた。
 肉まん、ごま団子、イチゴ飴。小籠包は、家で食べる冷凍の小籠包とは比べものにならないほど熱く、これが本場か! と二人で大騒ぎした。
 占い屋もたくさんあった。ちょっと興味はあったけど、心を見通されたりしたら大変マズいのでやめておいた。
 服屋さんでは、本物のチャイナドレスを初めて見た。
 きっと、チャイナドレスの折り紙も、探せばあるんだろうな。
 私は、いつか酒井くんが折ってくれた折り紙のワンピースを思い出した。酒井くんだったら、こういうのを喜んで折りそう。
 そう思って微笑んでいたら、竜太に聞かれた。
「着てみたいの?」
 私は慌ててごまかした。
「いやいや、見てただけ」
「麦子にも似合うと思うよ」
「ええ、恥ずかしい」
 私たちはそう言ってじゃれ合った。
 それにしても、さっきのはよくなかった。竜太と過ごしているときに、酒井くんのことを考えちゃうなんて。
 私って、本当に最低だ。
 そんな私の気持ちとは関係なく、竜太は完璧な彼氏だった。
 ちょっと手が冷たいな、なんて思っていたら、竜太は私の手を自然に握り、そのままコートのポケットに入れた。
「暖かいっしょ」
 そう言ってにっこりと笑った。
 付き合い始めてから二年は経つけど、彼は未だに私をときめかせてくれる。
 こんな竜太のことが、私はずっと好きだ。
 
 中華街をたっぷりと満喫した私たちは、私の部屋に来た。
「あれ? 折り紙飾るのやめたんだ」
 竜太はタンスを見て言った。
「ああ、うん。ちょっと邪魔だったから、片付けたんだ」
 前回竜太が来たときは、そこに折り紙があった。私が折った作品に紛れて、酒井くんからもらったワンピースも置いてあった。
 でも、全部しまった。竜太との大切な時間を、酒井くんに邪魔されるわけにはいかない。
 買っておいたケーキを二人で食べてから、お互いにクリスマスのプレゼントを渡した。
「じゃあ私から。メリークリスマス」
 渡した包みを竜太が開けると、中から服が出てきた。
「おお、シャツ? ああ、リカバリーウェアだ!」
「そう。いつも水泳で体を使ってると思ったから、ケアできるやつがいいかなって思ったの。高いやつじゃないけど」
「ありがとう! こういうの欲しかったんだよね」
 嬉しそうにする竜太を見て、少しだけ胸が痛んだ。
 リカバリーウェア。以前、酒井くんにもらったアイデアの一つだ。それを採用することにためらいはあったけど、これをあげたいと思う私の気持ちは本物だから。
「これは俺から」
 竜太は私に小さな包みを渡した。
 開けると、それはネックレスだった。
「わあ……!」
 私は歓喜の声を上げた。
 アクセサリーのプレゼントって、どうしてこんなに嬉しいんだろう。
 そのネックレスには、正方形をずらして重ねたようなチャームが付いていた。
 まるで、机に広げた折り紙みたい。そう思ったら、すぐに酒井くんの姿が浮かんだ。
 この色の折り紙で、ムギちゃんなら何を折る? そんな酒井くんの声が聞こえてくるような気がした。
「それ、四角くて折り紙みたいじゃない?」
 竜太の声を聞いて、私はハッとした。
「たまたま見かけたとき、麦子にぴったりだなって思ったんだよね」
 自分のことが信じられなかった。
 竜太にあげるプレゼント、竜太からもらうプレゼント、その両方で酒井くんを思い浮かべてしまうなんて。
「ありがとう、本当に嬉しい!」
 心からそう思って感謝を述べた。
 ありがとう、竜太。でも、本当にごめんね。
 
 *
 
 ずいぶん早い時間に目が覚めてしまった。外から鳥の騒がしい鳴き声が聞こえる。
 私は竜太の寝顔を見つめた。私の横で、安心しきった子どものように眠っている。
 高校の頃から見慣れている、私の大好きな人の顔。思わず口づけたくなるけど、起こしてしまったら悪いのでやめた。
 私はスマホを開いた。最近、毎日のように酒井くんと連絡を取り合っていた。でも、彼からの連絡は一切なかった。きっと、気を遣ってくれているんだ。
 昨晩の行為の最中は、竜太のことで頭と体がいっぱいだった。水泳で鍛えられた体は、高校の頃よりも力強く私を包んだ。
 ふと、酒井くんはどんなだろう、と思った。
 筋骨隆々の竜太とは違って、ひょろりと細い体格。肉のない酒井くんの胸元に触れれば、きっとあばら骨の感触が伝わってくるだろう。
 私はため息をついて画面を閉じた。
 いくらなんでも、最低すぎる。
 現在進行系で目の前の彼氏を裏切り続けている自分に嫌気が差した。
 罪の意識が胸に焼き付いたまま、私は布団にもぐって眠り直すことにした。