彼氏には言わなくてもいいこと

 ある日、私は酒井くんと一緒に彼の家に向かった。
 共同制作の準備として、本を見せてほしいとお願いしたのだ。
「唯ちゃんには声かけなかったの?」
「あの、ほら、唯は折り紙に詳しくないから、いきなりたくさんの本があると混乱しちゃうでしょ。だから、私たちで、先に吟味しておいた方がいいと思ってさ」
 酒井くんからの質問に、私は早口で答えた。
 我ながら、こんなにすらすらと言い訳が出てくることに驚いた。
 しばらくして、酒井くんの家に着いた。
 たこ焼きパーティ以来、今回で二度目だ。
「おじゃましまーす……」
 今から、酒井くんの部屋で二人きり。
 最初からわかってたことなのに、ものすごく緊張する。
「さて、どれがいいかな」
 酒井くんは背表紙を一つずつ指しながら本を選んだ。
「ある程度、難しい方がいいと思うんだよな。唯ちゃんもプライドがありそうだから」
 その言葉を聞いたら、私はスイッチが入った。
「それもそうだけど、共同制作の方針を決めた方がいいと思うよ。みんなで一つの作品を作るとか、各自が折った作品を寄り集めるとか」
「例えば、三人それぞれ動物を折って並べるとか」
「ありだと思う。動物っていろいろあるし、個性が出そう」
 私たちは話し合いをしながら、いくつかの作品を実際に折ってみた。
 ああ、楽しいなあ。
 こんな時間がいつまでも続けばいいのに。
 でも、そんなわけにはいかない。
 今日の目的は、共同制作に向けた準備。この話し合いが一段落したら、わたしは帰らないといけない。
 二人きりの時間は、いつか終わる。
「帰りたくないなあ……」
「え?」
 酒井くんは目を丸くしてこちらを見た。
 ヤバい。
 欲望が口をついて出てしまった。
 私は全身から汗が吹き出した。
 手をバタバタさせて弁解する。
「違う、やだ、ごめん。私、変なこと言ったね」
 すると酒井くんは、顔を赤くしてぎこちなく言った。
「ああ、いや。まあ、別にまだ帰らなくてもいいよ」
 それは、いつも飄々としている彼らしくない反応だった。
 私は思わず、何かを期待するように酒井くんを見た。酒井くんはテーブルの一点を見つめていた。
 私たちの視線が交差することはないまま、沈黙が訪れた。
「……何か食べる?」
 酒井くんは沈黙を破り、逃げるようにキッチンへ行った。
「冷凍のパスタがあるよ」
「うん」
「たらこかミートソース」
「じゃあ、たらこ」
「オッケー」
 冷凍パスタを電子レンジに入れて、加熱を始める。
 低く唸るような機械の音が部屋に響いた。
 私はその間、酒井くんから目を離さなかった。
 電子レンジが終了の音を鳴らすと、いい香りのたらこパスタと箸が私の目の前に出された。
「先に食べてていいよ。もう一個やるのに時間がかかるから」
 彼は自然な笑顔でそう言い、またキッチンに戻って冷凍パスタを加熱し始めた。
「いただきます」
 私はふうふうと冷ましながらパスタをすすった。うまいな、たらこ。
 数分後に、酒井くんはミートソースパスタを手にしてテーブルに着いた。
 黙々と食べていたので、既に私はたらこパスタをほとんど食べ終わっていた。
 そのまま完食した私は、酒井くんがパスタを食べる様子を眺めた。
 箸でパスタを纏めてつかみ、口に入れる。もぐもぐと咀嚼してから、パスタが彼の喉を通過していくのを感じた。
「そんなに見られると食べにくいんだけど」
 酒井くんは困ったように笑った。
「ごめん」
 私は目を逸らした。
 酒井くんはお茶で口を潤すと、私に話しかけてきた。
「ねえムギちゃん」
 私はまた酒井くんを見た。
「彼氏とは順調?」
 そう聞いた酒井くんは、心を探るようにこちらを見ていた。
 私は迷った。
 竜太とは、今も交際を続けている。彼からの愛情も感じる。
 でも。
 どこかに物足りなさを感じ始めていることに、私は気が付いている。
「……まあまあ」
 私は酒井くんの視線を避けながら答えた。
「遠距離なんでしょ。今度はいつ会うの」
「知らない」
「……そっか」
 酒井くんは優しい顔をした。
「でもね、竜太は……彼氏は悪くないの」
「うん」
「すごく優しいの」
「ムギちゃん」
 名前を呼ばれて、私はちらりと目線を上げた。
「大丈夫。誰も責めないよ」
 その優しい言葉は私を救うとともに、私の気持ちを傾けさせた。
「……酒井くんのせいだよ」
「え? 俺?」
 今ここで私の心をつかんで離さないのは、竜太じゃなくて酒井くんなんだよ。
 でも、私はその気持ちを腹の底に押し込めた。
「ごめん、なんでもない」
「なんでもなくないだろ」
 酒井くんのその言葉には少しだけトゲがあった。これも彼らしくない。
「ねえ酒井くん、どうしたの。なんか変だよ」
「変なのはどっちだよ」
 私たちは互いの顔を見た。
 どちらも避けようとしない。視線と視線がぶつかり合う。
 まるで、お互いの考えていることが伝わるようだった。
 私が変だって言われる理由はわかる。それは、酒井くんのせいだ。
 じゃあ、酒井くんが変なのは。
 それは……私のせいなのか?
 そんなことを考えていたら、酒井くんは言った。
「あのさ」
 そこで言葉が途切れた。次の言葉を迷っているように見える。
「俺さ」
 私は酒井くんを見つめた。
 彼は何かを言おうとしたけど、口を閉じた。そして、深く呼吸をしてから口を開いた。
「……そっち、行ってもいい?」
 思いがけない言葉に、私は息を飲んだ。目の前がちかちかする。
 私の口から言葉が勝手に出てきた。
「いいよ」
 酒井くんは立ち上がり、私の横に座った。
 全身が熱い。それなのに、触れていないはずの彼の体温がさらに熱く伝わってくる。
 彼はあぐらをかいて、膝に手を置いている。私はその手を見つめた。
 その手の細長い指が、ぴくりと動いた。それはゆっくりと、少しずつ私に近づいてくる。
 そして、彼の小指が私の小指に触れた。
 私の心臓は爆発しそうなほどに高鳴っていた。
 彼の小指が私の小指をなぞった。
 それに応えるように、私は自分の小指を彼に絡めようとした。
 その時、テーブルの上のスマホが鳴った。
 竜太からのメッセージだった。『今から電話できる?』とある。
 私は酒井くんの手を振り払い、スマホをつかんだ。
「……そろそろ帰るね」
 私は彼の方を見ずに言い、すぐに荷物をまとめた。
 酒井くんは深く息を吐いた。
「駅まで送るよ」
 
 私たちは並んで歩いた。
 小指がじんじんとする。
 私に触れていた彼の小指はすぐそこにある。
 でも、今はもう触れられない。
 駅に着くまで、二人とも何も言わなかった。
「じゃあね」
「おう」
 改札まで来ると、名残り惜しくならないようにすぐに彼に背を向けた。
 電車に乗り込むと、私はスマホを開き、竜太に返信を送った。
『ごめん、友達とパスタ食べてた。帰ったら電話するね』
 画面を閉じて、私は手の小指を見た。
 それは震えているような気がして、私はギュッと手を握った。