特別教室棟の三階にある図書室には、シャープペンシルが紙をこする音だけが響いていた。
柊木は窓際にある長机に座り、辞書のように分厚い問題集を開いていた。
周囲には、透き通った姿の図書委員が、置き物のようにカウンターに座っているぐらいで、現実世界の生徒の姿はない。
「柊木君、何してるの?」
「見れば分かるだろ。勉強」
柊木は顔も上げずに答える。
ついさっき、自分が死んだと聞かされた人間には見えなかった。
「こんな時に?」
「じゃあ聞くけど、こんな時に何をするのが正解なんだ?」
僕は両腕を組み、しばらく考え込む。
「分からない」
「なんだよ、それ」
柊木はため息をついて問題集を閉じ、窓の向こうに広がる空を見つめる。
彼が持っていたのは赤い本で、大学の過去問が掲載されているものだ。
「なあ、内海。この本、さっき書棚から持ってきたんだよ」
「うん」
「現実から見るとさ。この本がひとりでに浮かんで、この机の上に落ちたように見えてるのかな」
「……分からない」
「そう言うと思ったよ」
柊木は苦笑し、問題集をパラパラと片手でめくる。
「俺は違うと思ってる。きっと、俺たちがここでやったことは、現実には何の影響もないんだろう」
「勉強も?」
柊木がページをめくる手を止めた。
「……それは、考えてなかった」
その時、遅れて五十嵐と絵川が図書室に入ってくる。
「あー、こんなとこにいた!」
「……あのさ、五十嵐さん。小学生の時言われなかった? 図書室ではお静かにって」
「柊木さー、こんな時まで優等生ぶらなくていいじゃん」
五十嵐が頬を膨らませた。
絵川は何も言わず、少し離れた本棚にもたれかかる。
僕は柊木の手元を見た。
赤色の本の表紙には、地元の国立大学の名前。
たしか、医学部もある大学だ。
「柊木君は、医者になりたいの?」
柊木は一瞬、体を震わせた。
「……になる予定だよ。さっき、聞いてただろ?」
「え? 君の両親からは聞いたけど、君からは一度も聞いてない」
「何が違うんだよ」
「人」
柊木が吹き出す。
「なるほどな。俺より内海の方が、論理的だ」
「それに、もし本当に医者になるつもりなら、進路希望調査票は白紙じゃない」
柊木は僕の言葉には答えず、天井を見上げた。
「……なあ、うちの親、君たちにはどう見えた?」
五十嵐が真っ先に口を開く。
「柊木思いのいい両親じゃん。私の親なら、学校に乗り込んで来たりはしないし」
「学校に乗り込んでくることが、君にとってのいい両親の定義か?」
「違うよ。それほど悲しんでたってこと」
五十嵐が、さとすような口調で言った。
僕は首をゆっくりと傾ける。
「僕には、そう見えなかった」
「は?」
五十嵐と柊木が気の抜けたような声を上げた。
傍観していた絵川が僕に一歩近づき、低い声で聞く。
「内海君、それ、どういう意味?」
「その……うまく言えないんだけど……」
僕は応接室での違和感を、何とか言葉にする。
「柊木の両親が心配しているのは、二十四歳の柊木だった」
僕がそう言うと、三人はぽかんと口を開けて固まった。
――また、やってしまった。
こんな時、本田なら気の利いた返事をしてくれるが、彼らはそうじゃない。
僕は慌てて言葉を続ける。
「医学部って卒業まで六年だよね?」
「ああ、留年しなければな」
「だから、二十四歳。柊木君が医者になるのは」
絵川が小さくため息をつき、肩をすくめる。
「悪い。やっぱり、分からないわ」
僕は人さし指を眉間に当てた。
脳の中にあるバラバラの言葉を、あるべき形に何とか組み立てる。
「柊木君のお父さんとお母さんが話してるのは、いつも医者になるはずの柊木君だった」
柊木が目を大きく開いた後、息を一度吐く。
「……そういうこと、か」
「いやいや、どういうことよ」
五十嵐が首を大きくひねりながら言った。
柊木は引きつったように笑う。
「あの人たちは、俺が死んだことより、俺が医者になれなかったことを悲しんでる気がするんだよ」
「そんなこと……ないんじゃない?」
五十嵐は否定しようとするが、言葉がうまく出てこない。
僕は柊木をまっすぐに見つめる。
「それで、柊木君は本当に医者になりたいの?」
「だから、なる予定だって言っただろ」
「『なりたい』と『なる予定』はまったく違う」
「しつこいヤツだな……!」
五十嵐が焦ったように僕と柊木の間に割って入る。
「やめようよ! ほ、ほら! 図書室はお静かに、でしょ?」
「別にいいんじゃない」
「ええっ! 絵川さん、何あおってんの!」
「ここは幻死の世界。現実のルールと違っててもよくない?」
絵川はなぜか楽しそうだ。
こんな表情は、生きている時には見たことなかった。
柊木が肩を震わせる。
「医者になりたいかなんて……考えたことないんだよ」
「考えたことがない?」
「物心ついた頃には、そういうことになってたから」
柊木は、赤い本の角に指で触れた。
五十嵐が恐る恐る聞く。
「じゃあ……親に決められたってこと?」
「一言でまとめたら」
柊木が赤い本を端に追いやり、机の上に座る。
「小学生になったら塾に通う。中学はここを受ける。高校では理系コース。大学は医学部」
柊木は右手の指を、親指から順番に折っていく。
「ずっと先まで決まってた」
「嫌じゃないの?」
僕の質問に、柊木は苦笑するように両手を広げた。
「さあね。嫌だと思う暇がなかったし」
柊木は淡々とした調子で続ける。
「テストでいい点を取れば褒められる。悪ければ勉強が足りないって言われる。次の試験が来る。その繰り返し。気づいたらここにいた」
「何それ……全然楽しくないじゃん」
五十嵐が柊木に跳ねるように近づき、彼の両手を握る。
「うん、柊木。止めちゃおうよ、医者になるのなんかさ!」
「い、五十嵐さん、近い……!」
柊木は上体をそらし、五十嵐から距離を取ろうとする。
絵川が笑いながら言う。
「医者になる予定なら、免疫つけないとね」
「……うるさい」
柊木が小さくつぶやき、顔を僕たちからそむけた。
僕は柊木の隣の机の上に腰掛ける。
「やりたいことあるなら、空欄、埋めたらいい」
柊木は古ぼけた天井を見上げ、大きく息を吐いた。
「……ないんだよ」
「えっ」
「笑えるだろ。あの人たちに反抗してやろうと思ったのに……何もないんだよ。やりたいことなんて」
「……僕と、同じ」
「一緒じゃない」
「同じだよ。僕もやりたいことなんか一つもなくて――」
「一緒じゃないって言ってんだろ!」
柊木の叫びが、図書室の壁と僕の体を震わせた。
「内海、お前にはあるじゃないか」
「いや……ないけど」
「友達」
「は?」
「本田と仲良いだろ。放課後だって、よく遊びに行ってる」
「えっと……それが?」
「俺には友達だっていない。放課後も休日も誰かと遊びに行ったこともない。そもそも、どう遊んだらいいかさえ……分からないんだよ」
話がずれている。
さっきまで夢について議論していたのに、日常が充実しているかの話に変わった。
けど、不思議だ。
柊木の言葉が耳に響くたび、言葉を交わすたび。
――もっと、話したい。
そう思った。
「はいっ! 喧嘩はそこまで!」
五十嵐が両手を叩き、図書室内に乾いた音がこだました。
「じゃあ、遊びに行こうよ」
「は?」
柊木が間の抜けた声を上げた。
僕は首を大きくかしげる。
「誰と誰が?」
「もちろん、この四人に決まってんじゃん」
五十嵐が片目を閉じる。
それはあまりにぎこちなく、ウインクだと気づくのに二秒ほど時間がかかった。
柊木は窓際にある長机に座り、辞書のように分厚い問題集を開いていた。
周囲には、透き通った姿の図書委員が、置き物のようにカウンターに座っているぐらいで、現実世界の生徒の姿はない。
「柊木君、何してるの?」
「見れば分かるだろ。勉強」
柊木は顔も上げずに答える。
ついさっき、自分が死んだと聞かされた人間には見えなかった。
「こんな時に?」
「じゃあ聞くけど、こんな時に何をするのが正解なんだ?」
僕は両腕を組み、しばらく考え込む。
「分からない」
「なんだよ、それ」
柊木はため息をついて問題集を閉じ、窓の向こうに広がる空を見つめる。
彼が持っていたのは赤い本で、大学の過去問が掲載されているものだ。
「なあ、内海。この本、さっき書棚から持ってきたんだよ」
「うん」
「現実から見るとさ。この本がひとりでに浮かんで、この机の上に落ちたように見えてるのかな」
「……分からない」
「そう言うと思ったよ」
柊木は苦笑し、問題集をパラパラと片手でめくる。
「俺は違うと思ってる。きっと、俺たちがここでやったことは、現実には何の影響もないんだろう」
「勉強も?」
柊木がページをめくる手を止めた。
「……それは、考えてなかった」
その時、遅れて五十嵐と絵川が図書室に入ってくる。
「あー、こんなとこにいた!」
「……あのさ、五十嵐さん。小学生の時言われなかった? 図書室ではお静かにって」
「柊木さー、こんな時まで優等生ぶらなくていいじゃん」
五十嵐が頬を膨らませた。
絵川は何も言わず、少し離れた本棚にもたれかかる。
僕は柊木の手元を見た。
赤色の本の表紙には、地元の国立大学の名前。
たしか、医学部もある大学だ。
「柊木君は、医者になりたいの?」
柊木は一瞬、体を震わせた。
「……になる予定だよ。さっき、聞いてただろ?」
「え? 君の両親からは聞いたけど、君からは一度も聞いてない」
「何が違うんだよ」
「人」
柊木が吹き出す。
「なるほどな。俺より内海の方が、論理的だ」
「それに、もし本当に医者になるつもりなら、進路希望調査票は白紙じゃない」
柊木は僕の言葉には答えず、天井を見上げた。
「……なあ、うちの親、君たちにはどう見えた?」
五十嵐が真っ先に口を開く。
「柊木思いのいい両親じゃん。私の親なら、学校に乗り込んで来たりはしないし」
「学校に乗り込んでくることが、君にとってのいい両親の定義か?」
「違うよ。それほど悲しんでたってこと」
五十嵐が、さとすような口調で言った。
僕は首をゆっくりと傾ける。
「僕には、そう見えなかった」
「は?」
五十嵐と柊木が気の抜けたような声を上げた。
傍観していた絵川が僕に一歩近づき、低い声で聞く。
「内海君、それ、どういう意味?」
「その……うまく言えないんだけど……」
僕は応接室での違和感を、何とか言葉にする。
「柊木の両親が心配しているのは、二十四歳の柊木だった」
僕がそう言うと、三人はぽかんと口を開けて固まった。
――また、やってしまった。
こんな時、本田なら気の利いた返事をしてくれるが、彼らはそうじゃない。
僕は慌てて言葉を続ける。
「医学部って卒業まで六年だよね?」
「ああ、留年しなければな」
「だから、二十四歳。柊木君が医者になるのは」
絵川が小さくため息をつき、肩をすくめる。
「悪い。やっぱり、分からないわ」
僕は人さし指を眉間に当てた。
脳の中にあるバラバラの言葉を、あるべき形に何とか組み立てる。
「柊木君のお父さんとお母さんが話してるのは、いつも医者になるはずの柊木君だった」
柊木が目を大きく開いた後、息を一度吐く。
「……そういうこと、か」
「いやいや、どういうことよ」
五十嵐が首を大きくひねりながら言った。
柊木は引きつったように笑う。
「あの人たちは、俺が死んだことより、俺が医者になれなかったことを悲しんでる気がするんだよ」
「そんなこと……ないんじゃない?」
五十嵐は否定しようとするが、言葉がうまく出てこない。
僕は柊木をまっすぐに見つめる。
「それで、柊木君は本当に医者になりたいの?」
「だから、なる予定だって言っただろ」
「『なりたい』と『なる予定』はまったく違う」
「しつこいヤツだな……!」
五十嵐が焦ったように僕と柊木の間に割って入る。
「やめようよ! ほ、ほら! 図書室はお静かに、でしょ?」
「別にいいんじゃない」
「ええっ! 絵川さん、何あおってんの!」
「ここは幻死の世界。現実のルールと違っててもよくない?」
絵川はなぜか楽しそうだ。
こんな表情は、生きている時には見たことなかった。
柊木が肩を震わせる。
「医者になりたいかなんて……考えたことないんだよ」
「考えたことがない?」
「物心ついた頃には、そういうことになってたから」
柊木は、赤い本の角に指で触れた。
五十嵐が恐る恐る聞く。
「じゃあ……親に決められたってこと?」
「一言でまとめたら」
柊木が赤い本を端に追いやり、机の上に座る。
「小学生になったら塾に通う。中学はここを受ける。高校では理系コース。大学は医学部」
柊木は右手の指を、親指から順番に折っていく。
「ずっと先まで決まってた」
「嫌じゃないの?」
僕の質問に、柊木は苦笑するように両手を広げた。
「さあね。嫌だと思う暇がなかったし」
柊木は淡々とした調子で続ける。
「テストでいい点を取れば褒められる。悪ければ勉強が足りないって言われる。次の試験が来る。その繰り返し。気づいたらここにいた」
「何それ……全然楽しくないじゃん」
五十嵐が柊木に跳ねるように近づき、彼の両手を握る。
「うん、柊木。止めちゃおうよ、医者になるのなんかさ!」
「い、五十嵐さん、近い……!」
柊木は上体をそらし、五十嵐から距離を取ろうとする。
絵川が笑いながら言う。
「医者になる予定なら、免疫つけないとね」
「……うるさい」
柊木が小さくつぶやき、顔を僕たちからそむけた。
僕は柊木の隣の机の上に腰掛ける。
「やりたいことあるなら、空欄、埋めたらいい」
柊木は古ぼけた天井を見上げ、大きく息を吐いた。
「……ないんだよ」
「えっ」
「笑えるだろ。あの人たちに反抗してやろうと思ったのに……何もないんだよ。やりたいことなんて」
「……僕と、同じ」
「一緒じゃない」
「同じだよ。僕もやりたいことなんか一つもなくて――」
「一緒じゃないって言ってんだろ!」
柊木の叫びが、図書室の壁と僕の体を震わせた。
「内海、お前にはあるじゃないか」
「いや……ないけど」
「友達」
「は?」
「本田と仲良いだろ。放課後だって、よく遊びに行ってる」
「えっと……それが?」
「俺には友達だっていない。放課後も休日も誰かと遊びに行ったこともない。そもそも、どう遊んだらいいかさえ……分からないんだよ」
話がずれている。
さっきまで夢について議論していたのに、日常が充実しているかの話に変わった。
けど、不思議だ。
柊木の言葉が耳に響くたび、言葉を交わすたび。
――もっと、話したい。
そう思った。
「はいっ! 喧嘩はそこまで!」
五十嵐が両手を叩き、図書室内に乾いた音がこだました。
「じゃあ、遊びに行こうよ」
「は?」
柊木が間の抜けた声を上げた。
僕は首を大きくかしげる。
「誰と誰が?」
「もちろん、この四人に決まってんじゃん」
五十嵐が片目を閉じる。
それはあまりにぎこちなく、ウインクだと気づくのに二秒ほど時間がかかった。

