自動ドアが開き、安っぽい電子音と一緒に僕はコンビニの外へ出る。
十月。
吹き抜ける風には、もう冬の気配が混ざっていた。
茜色の空の下、車止めに腰掛けた絵川由夢が、膝の上で青色の大学ノートを開いていた。
彼女が鉛筆を握っているのは、右手ではなく左手。
かつて別の世界で見た滑らかな動きとはことなり、その動きはぎこちない。
僕は買ってきた紙パックのミルクティーを、背後から彼女の頬にピトッと当てた。
「冷たっ!」
「はい、これ」
「ありがと……じゃなくて、勝手に見るな!」
絵川は、左手で慌ててノートを胸に抱え込んだ。
右手には、サポーターが手首から指の付け根まで厳重に巻かれている。
僕は一度だけそこへ目をやり、ノートに視線を戻す。
「……ケチだな。見せてくれたっていいじゃない」
「うるさい。まだ、下手くそだから、嫌なの」
「ふうん」
彼女はノートを抱えて立ち上がった。
少しふらついた彼女に僕は、そっと肩を差し出した。
僕と絵川は、通い慣れた通学路を並んで歩く。
家よりも田んぼと畑が多い、どこにでもある田舎の道だ。
彼女はまだ速く歩けないので、僕は歩幅を半分にして歩いた。
「そういえば柊木君、また模試の結果送ってきたよ」
僕はスマホを取り出し、画像を見せる。
第一志望の地元にある国立大医学部の欄には、太い黒文字で『A判定』と印字されている。
「うわ、なにこれ。気持ち悪い」
「メッセージには『ケアレスミスで三問落とした。凡ミスが悔やまれる』って書いてあった」
「うざ。ブロックしたら?」
「まあ、もう少し様子を見るよ。『友達(仮)』だし」
「君、まだそんな子供じみたこと言ってるの?」
絵川が笑いながら、自分のスマホを取り出す。
「この前、メルちゃんが送って来た写真見る?」
「いい。五十嵐さんが映ってるわけじゃないんでしょ。知らない人の写真なんか見ても意味ないし」
「半分、正解」
「どういうこと?」
「今回は推しとのツーショット写真だって」
絵川が見せてくれた写真には、彼女の推しと満面の笑みを浮かべてポーズを決める、五十嵐が映っていた。
「あの子、受験生なのに頭お花畑だよね」
「今の発言、結構ひどいな」
「そお?」
「ちなみに、五十嵐さんは大学は推薦らしいよ」
「はあ? その話、聞いてないんですけど」
「だろうね」
「くそっ、楽できる時はとことん楽にするヤツめ」
「そういう反応するから、教えてもらえなかったんじゃない?」
僕たちは前を向いたまま、笑い合う。
「――で、君は進路、決まった?」
「うん。本田君と同じ大学」
「高田ちゃんは?」
「気持ち悪いくらい嬉しそうだった。『俺のアドバイスが効いたみたいだな』って」
「うざ。ブロックしたら?」
「そうだね。物理的に」
絵川が小さく吹き出す。
立派な将来の夢なんて、相変わらずない。
ただ、本田と同じ大学で、もっと一緒に過ごしてみたいと思った。
もっと効率よく時間を潰せそうな――都市デザインを学べる学科もあったし。
交差点の角で、絵川が西側を指差す。
「私、これからリハビリだから」
「あ、うん」
僕は交差点を東側へ折れた。
さっきまで並んで歩いていた僕たちの間に、冷たい風が吹き抜けていく。
赤く染まる空を見上げた瞬間、何の脈絡もなく、それは胸の底から湧き上がってきた。
――死にたいな。
理由なんてない。
特別、嫌なことがあったわけでもない。
ただ一人になると、ふっと冷たい影が顔を出す。
またか、と思う。
幻死から帰ってきたって、暗い自分が消えるわけじゃない。
僕の心には、相変わらず冷たいものが巣くっていた。
「内海君!」
不意に鋭い声で呼ばれ、僕は我に返った。
振り返ると、少し息を切らした絵川が立っていた。
持っていたノートを開き、その端をペリペリと乱暴に破る。
「はい」
「何これ」
「見れば、分かる」
手のひらサイズの紙切れを、押しつけられる。
そこには、左手で描かれたマッシロの姿があった。
線はところどころゆがんでいるが、憎めない表情は変わらない。
マッシロは、ロウソクを刺したかき氷を、空に向かって掲げていた。
「今日、誕生日でしょ。忘れてたからこれで我慢して」
「覚えて……たの?」
「だから、忘れてたって言ったでしょ。ついさっき、思い出したの」
絵川は少しだけ顔をそらしながら言った。
「……これ、僕?」
「他に誰がいるのよ。相変わらずかわいくないでしょ?」
「まあ、似てるけどさ」
僕が言うと、絵川はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、また、明日」
絵川はサポーターを巻いた右手を小さく振り、僕に背を向けた。
少しぎこちない足取りで歩く絵川。
けれど、その背中はまっすぐ伸びていた。
一人残された僕は、手の中の紙を見つめた。
左手で描かれた、世界にたった一枚しかない、不器用なシロクマ。
――この絵、結構好きだな。
自然とそう思えた。
それだけで、さっきまでの冷たい胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
本田からのメッセージだった。
《駅前のファミレスな。ポテトおごるから数学教えろ》
「……こいつも僕の誕生日、忘れてやがる」
口で悪態をつきながらも、僕の足は駅の方へ向いていた。
僕を通り過ぎていくのは――。
量産型で区別がつかない住宅。
稲刈りが終わって切り株だらけの田んぼ。
何を作っているかよく分からない古びた工場。
急に、何か造りたくなった。
帰ったらアプリを開いて、この街に存在しない道を引こう。
そこに、まったく似合わない建物を、たくさん建ててやるんだ。
――見せる、約束だから。
僕は君と違って、忘れっぽくない。
十七年生きてきて、胸を張れる立派な夢なんて、結局何一つできなかった。
それは、十八歳になった今も変わっていない。
また『死にたい』と思う夜が、この先何度もやってくる。
けど――。
柊木の愚痴混じりの自慢話を聞いたり。
五十嵐のうるさい推し活報告にあきれたり。
絵川の左手で描かれた新作を楽しみにしたり。
本田と冷めたポテトをつまんだり。
妄想の街に建物を勝手に造ったり。
明日まで自分を連れていく――そんな小さな理由が増えていく。
――なあ、今日もまた。
僕の寿命、ちょっとだけ伸びたよ。
十月。
吹き抜ける風には、もう冬の気配が混ざっていた。
茜色の空の下、車止めに腰掛けた絵川由夢が、膝の上で青色の大学ノートを開いていた。
彼女が鉛筆を握っているのは、右手ではなく左手。
かつて別の世界で見た滑らかな動きとはことなり、その動きはぎこちない。
僕は買ってきた紙パックのミルクティーを、背後から彼女の頬にピトッと当てた。
「冷たっ!」
「はい、これ」
「ありがと……じゃなくて、勝手に見るな!」
絵川は、左手で慌ててノートを胸に抱え込んだ。
右手には、サポーターが手首から指の付け根まで厳重に巻かれている。
僕は一度だけそこへ目をやり、ノートに視線を戻す。
「……ケチだな。見せてくれたっていいじゃない」
「うるさい。まだ、下手くそだから、嫌なの」
「ふうん」
彼女はノートを抱えて立ち上がった。
少しふらついた彼女に僕は、そっと肩を差し出した。
僕と絵川は、通い慣れた通学路を並んで歩く。
家よりも田んぼと畑が多い、どこにでもある田舎の道だ。
彼女はまだ速く歩けないので、僕は歩幅を半分にして歩いた。
「そういえば柊木君、また模試の結果送ってきたよ」
僕はスマホを取り出し、画像を見せる。
第一志望の地元にある国立大医学部の欄には、太い黒文字で『A判定』と印字されている。
「うわ、なにこれ。気持ち悪い」
「メッセージには『ケアレスミスで三問落とした。凡ミスが悔やまれる』って書いてあった」
「うざ。ブロックしたら?」
「まあ、もう少し様子を見るよ。『友達(仮)』だし」
「君、まだそんな子供じみたこと言ってるの?」
絵川が笑いながら、自分のスマホを取り出す。
「この前、メルちゃんが送って来た写真見る?」
「いい。五十嵐さんが映ってるわけじゃないんでしょ。知らない人の写真なんか見ても意味ないし」
「半分、正解」
「どういうこと?」
「今回は推しとのツーショット写真だって」
絵川が見せてくれた写真には、彼女の推しと満面の笑みを浮かべてポーズを決める、五十嵐が映っていた。
「あの子、受験生なのに頭お花畑だよね」
「今の発言、結構ひどいな」
「そお?」
「ちなみに、五十嵐さんは大学は推薦らしいよ」
「はあ? その話、聞いてないんですけど」
「だろうね」
「くそっ、楽できる時はとことん楽にするヤツめ」
「そういう反応するから、教えてもらえなかったんじゃない?」
僕たちは前を向いたまま、笑い合う。
「――で、君は進路、決まった?」
「うん。本田君と同じ大学」
「高田ちゃんは?」
「気持ち悪いくらい嬉しそうだった。『俺のアドバイスが効いたみたいだな』って」
「うざ。ブロックしたら?」
「そうだね。物理的に」
絵川が小さく吹き出す。
立派な将来の夢なんて、相変わらずない。
ただ、本田と同じ大学で、もっと一緒に過ごしてみたいと思った。
もっと効率よく時間を潰せそうな――都市デザインを学べる学科もあったし。
交差点の角で、絵川が西側を指差す。
「私、これからリハビリだから」
「あ、うん」
僕は交差点を東側へ折れた。
さっきまで並んで歩いていた僕たちの間に、冷たい風が吹き抜けていく。
赤く染まる空を見上げた瞬間、何の脈絡もなく、それは胸の底から湧き上がってきた。
――死にたいな。
理由なんてない。
特別、嫌なことがあったわけでもない。
ただ一人になると、ふっと冷たい影が顔を出す。
またか、と思う。
幻死から帰ってきたって、暗い自分が消えるわけじゃない。
僕の心には、相変わらず冷たいものが巣くっていた。
「内海君!」
不意に鋭い声で呼ばれ、僕は我に返った。
振り返ると、少し息を切らした絵川が立っていた。
持っていたノートを開き、その端をペリペリと乱暴に破る。
「はい」
「何これ」
「見れば、分かる」
手のひらサイズの紙切れを、押しつけられる。
そこには、左手で描かれたマッシロの姿があった。
線はところどころゆがんでいるが、憎めない表情は変わらない。
マッシロは、ロウソクを刺したかき氷を、空に向かって掲げていた。
「今日、誕生日でしょ。忘れてたからこれで我慢して」
「覚えて……たの?」
「だから、忘れてたって言ったでしょ。ついさっき、思い出したの」
絵川は少しだけ顔をそらしながら言った。
「……これ、僕?」
「他に誰がいるのよ。相変わらずかわいくないでしょ?」
「まあ、似てるけどさ」
僕が言うと、絵川はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、また、明日」
絵川はサポーターを巻いた右手を小さく振り、僕に背を向けた。
少しぎこちない足取りで歩く絵川。
けれど、その背中はまっすぐ伸びていた。
一人残された僕は、手の中の紙を見つめた。
左手で描かれた、世界にたった一枚しかない、不器用なシロクマ。
――この絵、結構好きだな。
自然とそう思えた。
それだけで、さっきまでの冷たい胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
本田からのメッセージだった。
《駅前のファミレスな。ポテトおごるから数学教えろ》
「……こいつも僕の誕生日、忘れてやがる」
口で悪態をつきながらも、僕の足は駅の方へ向いていた。
僕を通り過ぎていくのは――。
量産型で区別がつかない住宅。
稲刈りが終わって切り株だらけの田んぼ。
何を作っているかよく分からない古びた工場。
急に、何か造りたくなった。
帰ったらアプリを開いて、この街に存在しない道を引こう。
そこに、まったく似合わない建物を、たくさん建ててやるんだ。
――見せる、約束だから。
僕は君と違って、忘れっぽくない。
十七年生きてきて、胸を張れる立派な夢なんて、結局何一つできなかった。
それは、十八歳になった今も変わっていない。
また『死にたい』と思う夜が、この先何度もやってくる。
けど――。
柊木の愚痴混じりの自慢話を聞いたり。
五十嵐のうるさい推し活報告にあきれたり。
絵川の左手で描かれた新作を楽しみにしたり。
本田と冷めたポテトをつまんだり。
妄想の街に建物を勝手に造ったり。
明日まで自分を連れていく――そんな小さな理由が増えていく。
――なあ、今日もまた。
僕の寿命、ちょっとだけ伸びたよ。

