階段を下り、渡り廊下を抜けて体育館へ向かう。
隣を歩いていたはずの『彼』の気配は、どこにもない。
僕が踏み出す右足と、僕が踏み出す左足。
廊下に響く上履きの音は、最初から一つだけ。
大きな窓から降り注ぐ月明かりが、広大な板張りの床を青く照らしている。
ボールは転がっていない。
バスケットボールのリングが、高い壁の向こうで静かに口を開けている。
床には、僕の足音だけが乾いたリズムで響く。
立ち止まることもなく、僕はそこを後にする。
体育館前の渡り廊下を、途中で折れる。
校舎の陰から出た瞬間、夜の冷たい空気が頬をなでる。
コンクリートでできた、低く小さなステージ。
いつかの夕暮れ、仰向けになって空を見上げていた場所。
ステージの縁を横切っていると、ふと空の端が目に入る。
濃い群青色だった夜の底が、薄い水色のベールを一枚重ねたように、淡く滲んでいる。
校舎へ戻り、階段を三階まで上がる。
三年一組のドアを、静かに開ける。
黒板には、チョークで描かれた四頭のシロクマが残されている。
月明かりの中で、彼らは笑い、怒り、踊り、ペンを握っている。
僕はそれを一度だけ見つめ、それから前方の席へと歩み寄る。
絵川由夢の机。
そこには、開かれたままの茶色の大学ノートが置かれている。
最後のページ。
背景のない空間を、どこかへ向かって全力で駆け出している、一頭のマッシロの後ろ姿。
その先には、何も描かれていない。
見開きの右側のページは、ただの真っ白な余白として広がっている。
僕は彼女の机の中に残されていた、鉛筆を手に取る。
その先端を、真っ白なノートの余白へと近づける。
頭に浮かぶのは――。
進学する大学の名前。
適当な将来の職業。
あの馬鹿げた、『思春期専門カスタマーサポート』。
けど、芯の先が紙に触れる直前で僕の手は止まる。
――いや。
僕は息を吐く。
――これは、僕のノートじゃない。
僕は鉛筆を、机の中に戻す。
ノートは閉じない。
開いたままの、真っ白なページ。
以前の僕なら、その空白を見るだけで胸がしめつけられ、顔をそむけていただろう。
空欄を埋められない自分は欠陥品だと、怯えていたのだろう。
けど今は、ただその白さを見つめられる。
白紙は、何もないわけじゃない。
まだ、決まっていないだけだ。
ふいに、開かれたノートの右ページが、淡く輝き始める。
白い紙の上に、斜めに長い光が差し込んでくる。
僕は顔を上げる。
窓の外。
街を囲む低い山並みの向こう側から、夜の闇がゆっくりと溶け、柔らかな光が溢れ出している。
僕はそれに手をかざす。
僕の手は、その光をほとんどさえぎることができない。
身体が光に溶けるように薄く、淡く、ほどけていく。
とても、怖い。
泣きたくて叫び出したいくらいに。
――それでも、僕はそこにいる。
夜が、明けた。
隣を歩いていたはずの『彼』の気配は、どこにもない。
僕が踏み出す右足と、僕が踏み出す左足。
廊下に響く上履きの音は、最初から一つだけ。
大きな窓から降り注ぐ月明かりが、広大な板張りの床を青く照らしている。
ボールは転がっていない。
バスケットボールのリングが、高い壁の向こうで静かに口を開けている。
床には、僕の足音だけが乾いたリズムで響く。
立ち止まることもなく、僕はそこを後にする。
体育館前の渡り廊下を、途中で折れる。
校舎の陰から出た瞬間、夜の冷たい空気が頬をなでる。
コンクリートでできた、低く小さなステージ。
いつかの夕暮れ、仰向けになって空を見上げていた場所。
ステージの縁を横切っていると、ふと空の端が目に入る。
濃い群青色だった夜の底が、薄い水色のベールを一枚重ねたように、淡く滲んでいる。
校舎へ戻り、階段を三階まで上がる。
三年一組のドアを、静かに開ける。
黒板には、チョークで描かれた四頭のシロクマが残されている。
月明かりの中で、彼らは笑い、怒り、踊り、ペンを握っている。
僕はそれを一度だけ見つめ、それから前方の席へと歩み寄る。
絵川由夢の机。
そこには、開かれたままの茶色の大学ノートが置かれている。
最後のページ。
背景のない空間を、どこかへ向かって全力で駆け出している、一頭のマッシロの後ろ姿。
その先には、何も描かれていない。
見開きの右側のページは、ただの真っ白な余白として広がっている。
僕は彼女の机の中に残されていた、鉛筆を手に取る。
その先端を、真っ白なノートの余白へと近づける。
頭に浮かぶのは――。
進学する大学の名前。
適当な将来の職業。
あの馬鹿げた、『思春期専門カスタマーサポート』。
けど、芯の先が紙に触れる直前で僕の手は止まる。
――いや。
僕は息を吐く。
――これは、僕のノートじゃない。
僕は鉛筆を、机の中に戻す。
ノートは閉じない。
開いたままの、真っ白なページ。
以前の僕なら、その空白を見るだけで胸がしめつけられ、顔をそむけていただろう。
空欄を埋められない自分は欠陥品だと、怯えていたのだろう。
けど今は、ただその白さを見つめられる。
白紙は、何もないわけじゃない。
まだ、決まっていないだけだ。
ふいに、開かれたノートの右ページが、淡く輝き始める。
白い紙の上に、斜めに長い光が差し込んでくる。
僕は顔を上げる。
窓の外。
街を囲む低い山並みの向こう側から、夜の闇がゆっくりと溶け、柔らかな光が溢れ出している。
僕はそれに手をかざす。
僕の手は、その光をほとんどさえぎることができない。
身体が光に溶けるように薄く、淡く、ほどけていく。
とても、怖い。
泣きたくて叫び出したいくらいに。
――それでも、僕はそこにいる。
夜が、明けた。

