深夜の図書室の窓から、青白い月明かりが差し込む。
等間隔に並んだ背の高い書棚が、長い影を床に落としていた。
「図書室に、ラノベなんて置いてるんだね」
書棚の向こうから、彼の声が天井を伝って返って来る。
「おい、言い出したのは君だろ? 真面目に探してくれよ」
「悪い」
僕は一冊の植物図鑑を見つける。
それを開くと、植物の写真と詳しい生態が載っていたが、目的のものは書かれていない。
僕は小さく息を吐き、書棚にそれを戻した。
その時、書棚の陰から、彼がひょっこり顔を出す。
「あったよ」
手に持っていたのは、押し花のように花が並んだ表紙の本。
そこには、『花言葉図鑑』と書かれている。
僕たちは、柊木が勉強に使っていた窓際のテーブルに並んだ。
彼は静かにページをめくっていく。
五十音順に聞いたことのある花と聞いたことがない花が、僕の目の前を通り過ぎていく。
やがて、目的の花の所で、彼の指先が止まった。
――ラベンダー。
そこには、複数の意味が並んでいる。
『沈黙』
『疑い』
『期待』
『あなたを待っています』
静寂が、僕たちの間に落ちる。
窓の外の風の音すら聞こえないほど、図書室は静まり返っていた。
「……どれだと思う?」
彼がぽつりとつぶやいた。
「疑い」
僕は迷わずに即答した。
彼は僕の顔を見て、それから吹き出すように笑った。
「僕も、ちょっとそう思った」
「だろ? あいつ、僕たちのこと『頭、おかしい』なんて言ってたし」
「うん。絵川さんらしいよね」
僕たちは少しだけ笑い合った。
けど、その冗談の後に続く言葉を、僕は口にできなくなっていた。
活字の最後に並んだ、ひときわ長いその一文から、どうしても目をそらすことができなかった。
――あなたを待っています。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
僕は唾を飲み込み、努めて乾いた声を出した。
「……よかったね」
「なにが?」
「絵川由夢。君のこと、待ってるってさ」
僕は彼から奪うように本を閉じた。
「君はあいつの絵を褒めて、黒板に一緒にシロクマを描いて、帰るまで一緒にいたんだ。その資格があるよ」
僕は自分を、丁寧に枠の外へと追いやった。
けど、彼は花言葉の活字を見つめたまま、首をかしげた。
「君もじゃない?」
「……は?」
「君だって、待たれてるんじゃないのかな」
「そんなわけないだろ」
僕は思わず声を尖らせた。
「絵川さんが知ってるのは、前を向いた君だ。僕みたいな、暗くて、卑屈で、死にたがってばかりいる奴のことなんて、知りもしないじゃないか」
「知ってるよ」
彼はあっさりと答えた。
「僕と絵川さんは、ここに来るまで、会話らしい会話なんてしたことがなかった。だから、彼女が知ってるのは――」
そう言って、彼は僕に微笑んだ。
「死にたい、消えたいと言って、ここに堕ちてきて、彼女を何度も怒らせて、最後にちょっとだけ仲良くなれた――君と僕だ」
「そんなことは……」
僕は自信を持ってそれを否定することができない。
「君だけを外す方が、不自然だと僕は思うよ」
「そんなの、都合よく解釈してるだけだよ。『疑い』かもしれないし、ただ紫色が好きだっただけかもしれない。そもそも……絵川由夢が、本当に待ってる保証なんてどこにもないじゃないか」
声が、裏返りそうになる。
「向こうに行って……本当に、誰も待ってなかったらどうするの?」
その時、僕は一体どうやって息をすればいいのか。
彼はしばらく黙り込んでから、笑った。
「……それは、嫌だな」
「え?」
「すごく嫌だし、悲しいし、立ち直れないくらい傷つくと思う」
けど、彼の瞳には迷いがなかった。
「それでも、行くよ」
「なんでだよ……!」
「待ってるかどうか、確かめたいと思ったから」
彼は本のページから視線を上げ、窓の外の夜空を見上げた。
「僕と君で言ったじゃないか。絵川さんに。『確かめなよ。自分の目で』って」
「……言った」
「他人のことには偉そうに言っておいてさ。自分だけ確かめに行かないなんて、ダサいだろ」
「意見をコロコロ返ることより?」
「ああ、二・五倍ぐらい」
少しだけ恥ずかしそうに笑う彼。
僕は言葉を失い、ただ彼の横顔を見つめるしかなかった。
「絵川さんが、会いたくないって言ったら?」
「その時は、その時考える」
「本田君に嫌われたら?」
「とりあえず、一人で街でも造ってるよ」
僕は少しためらいながら、聞く。
「……それすら、どうでもよくなったら?」
彼は沈黙する。
僕は答えを待たずに続ける。
「明日やりたいことすら一つもなくなって……『死にたい』しか残らなくなったら?」
長い沈黙の後、彼は小さく息を吐いた。
「……分からない」
「そうだよ。また、ここに堕ちてくるかもしれない。なら――」
彼は机に両手をつき、僕の言葉の続きを止めた。
「いいじゃないか、また一緒にもがこうぜ」
「……っ」
僕は彼から一歩、離れる。
「誰かが待ってるから、帰るんじゃないんだよ」
離れた分、彼が僕に一歩近づく。
「待ってるかもしれないって知って、確かめに行きたいって……僕が、思ったんだ」
背中に見えない壁があるみたいに、これ以上下がることができない。
彼が言葉を真正面からぶつけてくる。
「だから――僕は、行きたい」
その時、ふと視界の端に自分の手が入った。
「なんだよ、これ……」
僕は自分の両手を広げ、顔の前にかざす。
それは半透明に透き通っており、手の向こう側にある彼の顔が見えた。
「やっと、気づいた?」
「えっ」
「君、ずいぶん前から、透けてたよ」
「……は?」
僕は思わず、情けない声を出してしまい、慌てて手で口を押さえた。
けど、透き通った手でうまく隠すことはできない。
「くそっ……まったく、僕ってほんと、ダサい」
「そうだね」
僕は一度大きく深呼吸をする。
「意地を張ってたわけじゃないんだよ」
「うん」
「ただ、僕はずっとこうだったから」
「そんなの、僕が一番よく知ってる」
「だから、僕も――」
僕は情けないほど震えた声で言う。
「連れてって、くれないか?」
彼は笑う。
「まだ分かってない」
「えっ」
彼は右手を銃のように構え、僕の心臓を指差す。
「君が行くんだ。自分のその足で」
僕は弱々しくうなずき、小さな一歩を踏み出す。
まるで、自分の足じゃないみたいに、重い。
けど、彼との距離は少しずつ、着実に近づいていく。
そして、最後の一歩を踏み出した瞬間、気づく。
――僕の体は。
それほど、冷たくない。
等間隔に並んだ背の高い書棚が、長い影を床に落としていた。
「図書室に、ラノベなんて置いてるんだね」
書棚の向こうから、彼の声が天井を伝って返って来る。
「おい、言い出したのは君だろ? 真面目に探してくれよ」
「悪い」
僕は一冊の植物図鑑を見つける。
それを開くと、植物の写真と詳しい生態が載っていたが、目的のものは書かれていない。
僕は小さく息を吐き、書棚にそれを戻した。
その時、書棚の陰から、彼がひょっこり顔を出す。
「あったよ」
手に持っていたのは、押し花のように花が並んだ表紙の本。
そこには、『花言葉図鑑』と書かれている。
僕たちは、柊木が勉強に使っていた窓際のテーブルに並んだ。
彼は静かにページをめくっていく。
五十音順に聞いたことのある花と聞いたことがない花が、僕の目の前を通り過ぎていく。
やがて、目的の花の所で、彼の指先が止まった。
――ラベンダー。
そこには、複数の意味が並んでいる。
『沈黙』
『疑い』
『期待』
『あなたを待っています』
静寂が、僕たちの間に落ちる。
窓の外の風の音すら聞こえないほど、図書室は静まり返っていた。
「……どれだと思う?」
彼がぽつりとつぶやいた。
「疑い」
僕は迷わずに即答した。
彼は僕の顔を見て、それから吹き出すように笑った。
「僕も、ちょっとそう思った」
「だろ? あいつ、僕たちのこと『頭、おかしい』なんて言ってたし」
「うん。絵川さんらしいよね」
僕たちは少しだけ笑い合った。
けど、その冗談の後に続く言葉を、僕は口にできなくなっていた。
活字の最後に並んだ、ひときわ長いその一文から、どうしても目をそらすことができなかった。
――あなたを待っています。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
僕は唾を飲み込み、努めて乾いた声を出した。
「……よかったね」
「なにが?」
「絵川由夢。君のこと、待ってるってさ」
僕は彼から奪うように本を閉じた。
「君はあいつの絵を褒めて、黒板に一緒にシロクマを描いて、帰るまで一緒にいたんだ。その資格があるよ」
僕は自分を、丁寧に枠の外へと追いやった。
けど、彼は花言葉の活字を見つめたまま、首をかしげた。
「君もじゃない?」
「……は?」
「君だって、待たれてるんじゃないのかな」
「そんなわけないだろ」
僕は思わず声を尖らせた。
「絵川さんが知ってるのは、前を向いた君だ。僕みたいな、暗くて、卑屈で、死にたがってばかりいる奴のことなんて、知りもしないじゃないか」
「知ってるよ」
彼はあっさりと答えた。
「僕と絵川さんは、ここに来るまで、会話らしい会話なんてしたことがなかった。だから、彼女が知ってるのは――」
そう言って、彼は僕に微笑んだ。
「死にたい、消えたいと言って、ここに堕ちてきて、彼女を何度も怒らせて、最後にちょっとだけ仲良くなれた――君と僕だ」
「そんなことは……」
僕は自信を持ってそれを否定することができない。
「君だけを外す方が、不自然だと僕は思うよ」
「そんなの、都合よく解釈してるだけだよ。『疑い』かもしれないし、ただ紫色が好きだっただけかもしれない。そもそも……絵川由夢が、本当に待ってる保証なんてどこにもないじゃないか」
声が、裏返りそうになる。
「向こうに行って……本当に、誰も待ってなかったらどうするの?」
その時、僕は一体どうやって息をすればいいのか。
彼はしばらく黙り込んでから、笑った。
「……それは、嫌だな」
「え?」
「すごく嫌だし、悲しいし、立ち直れないくらい傷つくと思う」
けど、彼の瞳には迷いがなかった。
「それでも、行くよ」
「なんでだよ……!」
「待ってるかどうか、確かめたいと思ったから」
彼は本のページから視線を上げ、窓の外の夜空を見上げた。
「僕と君で言ったじゃないか。絵川さんに。『確かめなよ。自分の目で』って」
「……言った」
「他人のことには偉そうに言っておいてさ。自分だけ確かめに行かないなんて、ダサいだろ」
「意見をコロコロ返ることより?」
「ああ、二・五倍ぐらい」
少しだけ恥ずかしそうに笑う彼。
僕は言葉を失い、ただ彼の横顔を見つめるしかなかった。
「絵川さんが、会いたくないって言ったら?」
「その時は、その時考える」
「本田君に嫌われたら?」
「とりあえず、一人で街でも造ってるよ」
僕は少しためらいながら、聞く。
「……それすら、どうでもよくなったら?」
彼は沈黙する。
僕は答えを待たずに続ける。
「明日やりたいことすら一つもなくなって……『死にたい』しか残らなくなったら?」
長い沈黙の後、彼は小さく息を吐いた。
「……分からない」
「そうだよ。また、ここに堕ちてくるかもしれない。なら――」
彼は机に両手をつき、僕の言葉の続きを止めた。
「いいじゃないか、また一緒にもがこうぜ」
「……っ」
僕は彼から一歩、離れる。
「誰かが待ってるから、帰るんじゃないんだよ」
離れた分、彼が僕に一歩近づく。
「待ってるかもしれないって知って、確かめに行きたいって……僕が、思ったんだ」
背中に見えない壁があるみたいに、これ以上下がることができない。
彼が言葉を真正面からぶつけてくる。
「だから――僕は、行きたい」
その時、ふと視界の端に自分の手が入った。
「なんだよ、これ……」
僕は自分の両手を広げ、顔の前にかざす。
それは半透明に透き通っており、手の向こう側にある彼の顔が見えた。
「やっと、気づいた?」
「えっ」
「君、ずいぶん前から、透けてたよ」
「……は?」
僕は思わず、情けない声を出してしまい、慌てて手で口を押さえた。
けど、透き通った手でうまく隠すことはできない。
「くそっ……まったく、僕ってほんと、ダサい」
「そうだね」
僕は一度大きく深呼吸をする。
「意地を張ってたわけじゃないんだよ」
「うん」
「ただ、僕はずっとこうだったから」
「そんなの、僕が一番よく知ってる」
「だから、僕も――」
僕は情けないほど震えた声で言う。
「連れてって、くれないか?」
彼は笑う。
「まだ分かってない」
「えっ」
彼は右手を銃のように構え、僕の心臓を指差す。
「君が行くんだ。自分のその足で」
僕は弱々しくうなずき、小さな一歩を踏み出す。
まるで、自分の足じゃないみたいに、重い。
けど、彼との距離は少しずつ、着実に近づいていく。
そして、最後の一歩を踏み出した瞬間、気づく。
――僕の体は。
それほど、冷たくない。

