17歳、僕たちの第一死望

 深夜の図書室の窓から、青白い月明かりが差し込む。
 等間隔に並んだ背の高い書棚が、長い影を床に落としていた。

「図書室に、ラノベなんて置いてるんだね」

 書棚の向こうから、彼の声が天井を伝って返って来る。

「おい、言い出したのは君だろ? 真面目に探してくれよ」
「悪い」

 僕は一冊の植物図鑑を見つける。
 それを開くと、植物の写真と詳しい生態が載っていたが、目的のものは書かれていない。
 僕は小さく息を吐き、書棚にそれを戻した。
 その時、書棚の陰から、彼がひょっこり顔を出す。

「あったよ」

 手に持っていたのは、押し花のように花が並んだ表紙の本。
 そこには、『花言葉図鑑』と書かれている。

 僕たちは、柊木が勉強に使っていた窓際のテーブルに並んだ。
 彼は静かにページをめくっていく。
 五十音順に聞いたことのある花と聞いたことがない花が、僕の目の前を通り過ぎていく。
 やがて、目的の花の所で、彼の指先が止まった。

 ――ラベンダー。

 そこには、複数の意味が並んでいる。

『沈黙』
『疑い』
『期待』
『あなたを待っています』

 静寂が、僕たちの間に落ちる。
 窓の外の風の音すら聞こえないほど、図書室は静まり返っていた。

「……どれだと思う?」

 彼がぽつりとつぶやいた。

「疑い」

 僕は迷わずに即答した。
 彼は僕の顔を見て、それから吹き出すように笑った。

「僕も、ちょっとそう思った」
「だろ? あいつ、僕たちのこと『頭、おかしい』なんて言ってたし」
「うん。絵川さんらしいよね」

 僕たちは少しだけ笑い合った。
 けど、その冗談の後に続く言葉を、僕は口にできなくなっていた。
 活字の最後に並んだ、ひときわ長いその一文から、どうしても目をそらすことができなかった。

 ――あなたを待っています。

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
 僕は唾を飲み込み、努めて乾いた声を出した。

「……よかったね」
「なにが?」
「絵川由夢。君のこと、待ってるってさ」

 僕は彼から奪うように本を閉じた。

「君はあいつの絵を褒めて、黒板に一緒にシロクマを描いて、帰るまで一緒にいたんだ。その資格があるよ」

 僕は自分を、丁寧に枠の外へと追いやった。
 けど、彼は花言葉の活字を見つめたまま、首をかしげた。

「君もじゃない?」
「……は?」
「君だって、待たれてるんじゃないのかな」
「そんなわけないだろ」

 僕は思わず声を尖らせた。

「絵川さんが知ってるのは、前を向いた君だ。僕みたいな、暗くて、卑屈で、死にたがってばかりいる奴のことなんて、知りもしないじゃないか」
「知ってるよ」

 彼はあっさりと答えた。

「僕と絵川さんは、ここに来るまで、会話らしい会話なんてしたことがなかった。だから、彼女が知ってるのは――」

 そう言って、彼は僕に微笑んだ。

「死にたい、消えたいと言って、ここに堕ちてきて、彼女を何度も怒らせて、最後にちょっとだけ仲良くなれた――君と僕だ」
「そんなことは……」

 僕は自信を持ってそれを否定することができない。

「君だけを外す方が、不自然だと僕は思うよ」
「そんなの、都合よく解釈してるだけだよ。『疑い』かもしれないし、ただ紫色が好きだっただけかもしれない。そもそも……絵川由夢が、本当に待ってる保証なんてどこにもないじゃないか」

 声が、裏返りそうになる。

「向こうに行って……本当に、誰も待ってなかったらどうするの?」

 その時、僕は一体どうやって息をすればいいのか。
 彼はしばらく黙り込んでから、笑った。

「……それは、嫌だな」
「え?」
「すごく嫌だし、悲しいし、立ち直れないくらい傷つくと思う」

 けど、彼の瞳には迷いがなかった。

「それでも、行くよ」
「なんでだよ……!」
「待ってるかどうか、確かめたいと思ったから」

 彼は本のページから視線を上げ、窓の外の夜空を見上げた。

「僕と君で言ったじゃないか。絵川さんに。『確かめなよ。自分の目で』って」
「……言った」
「他人のことには偉そうに言っておいてさ。自分だけ確かめに行かないなんて、ダサいだろ」
「意見をコロコロ返ることより?」
「ああ、二・五倍ぐらい」

 少しだけ恥ずかしそうに笑う彼。
 僕は言葉を失い、ただ彼の横顔を見つめるしかなかった。

「絵川さんが、会いたくないって言ったら?」
「その時は、その時考える」
「本田君に嫌われたら?」
「とりあえず、一人で街でも造ってるよ」

 僕は少しためらいながら、聞く。

「……それすら、どうでもよくなったら?」

 彼は沈黙する。
 僕は答えを待たずに続ける。

「明日やりたいことすら一つもなくなって……『死にたい』しか残らなくなったら?」

 長い沈黙の後、彼は小さく息を吐いた。

「……分からない」
「そうだよ。また、ここに堕ちてくるかもしれない。なら――」

 彼は机に両手をつき、僕の言葉の続きを止めた。

「いいじゃないか、また一緒にもがこうぜ」
「……っ」

 僕は彼から一歩、離れる。

「誰かが待ってるから、帰るんじゃないんだよ」

 離れた分、彼が僕に一歩近づく。

「待ってるかもしれないって知って、確かめに行きたいって……僕が、思ったんだ」

 背中に見えない壁があるみたいに、これ以上下がることができない。
 彼が言葉を真正面からぶつけてくる。
 
「だから――僕は、行きたい」

 その時、ふと視界の端に自分の手が入った。

「なんだよ、これ……」

 僕は自分の両手を広げ、顔の前にかざす。
 それは半透明に透き通っており、手の向こう側にある彼の顔が見えた。

「やっと、気づいた?」
「えっ」
「君、ずいぶん前から、透けてたよ」
「……は?」

 僕は思わず、情けない声を出してしまい、慌てて手で口を押さえた。
 けど、透き通った手でうまく隠すことはできない。

「くそっ……まったく、僕ってほんと、ダサい」
「そうだね」

 僕は一度大きく深呼吸をする。

「意地を張ってたわけじゃないんだよ」
「うん」
「ただ、僕はずっとこうだったから」
「そんなの、僕が一番よく知ってる」
「だから、僕も――」

 僕は情けないほど震えた声で言う。

「連れてって、くれないか?」

 彼は笑う。

「まだ分かってない」
「えっ」

 彼は右手を銃のように構え、僕の心臓を指差す。

「君が行くんだ。自分のその足で」

 僕は弱々しくうなずき、小さな一歩を踏み出す。
 まるで、自分の足じゃないみたいに、重い。

 けど、彼との距離は少しずつ、着実に近づいていく。
 そして、最後の一歩を踏み出した瞬間、気づく。
 
 ――僕の体は。

 それほど、冷たくない。