電気が消えてからしばらくして、僕の目が暗闇に慣れてくる。
もしかすると、その逆で、暗闇が僕を侵食したのかもしれない。
彼は自分の――内海新汰の席を見下ろしている。
「ほんとに、空っぽだ」
「机がね」
僕は隣に並び、同じように彼の席を見下ろす。
「そんなに深刻に考える必要はない。君の人生の空っぽさと、机が空っぽなことは無関係だよ」
「そうかな……」
「そうだとも。立派な夢を持つ、彼らの中にも机が空っぽなヤツぐらいいるよ」
僕がそう言うと、彼は教室内を歩き出す。
まず柊木の机の中をのぞき込み、次に五十嵐の席をのぞき込んだ。
彼はため息をつき、その場にしゃがみ込む。
結果は聞くまでもなかった。
突然、彼の目が大きく開く。
「あれは……?」
彼はそうつぶやくと、吸い寄せられるように、教室の前方に向かって歩いていく。
主を失った――いや、主が戻ったかもしれない、絵川由夢の席の脇に立った。
彼はその机の中から、何かを取り出す。
それは、絵川がこの世界で使っていた、茶色の大学ノートだった。
この世界だけに存在する、彼女がここにいたことの証。
「見て……いいと思う?」
「さあね。持ち主はもういないんだ。少なくとも、見ても文句は言われない」
彼はためらうように指先を出したり引っ込めたりするが、結局表紙をめくった。
僕は彼の背中ごしにノートの中身をのぞく。
最初の数ページに描かれていたのは、色んな角度でポーズを取るマッシロ。
絵川は絵の練習をしていたのだろうか。
いや、現実では砕けてしまった右手の調子を、確かめようとしていたのかもしれない。
順番にページをめくっていくと、絵と絵の間につながりが現れるようになった。
クールぶって、いけ好かない顔をしたマッシロ。
大袈裟な身振りで、騒ぎ立てているマッシロ。
何の感情もなく、その場に突っ立っているマッシロ。
冷めた表情で腕を組み、それらを遠くから見ているマッシロ。
それは、四頭のマッシロに置き換えられた、新汰たち四人の姿。
強弱のある鉛筆の線で生き生きと描かれていた。
「彼女、君に内緒でこんなのを描いてたみたいだね」
「うん」
彼は気のない返事をした。
「ずいぶん、彼女の絵が気に入ったみたいじゃないか」
「うん」
僕は彼に聞こえるほど大きなため息をついたが、まったく効果はなかった。
まともに話すのをあきらめ、彼と一緒に絵を眺めることに集中した。
彼は独り言のようにつぶやく。
「僕……あの時、こんな顔してたのか」
「彼女のフィルターを通したら、だろ?」
「そうだね」
彼は指でこの世界に来てからの出来事をなぞっていく。
そして、目の前の黒板の絵につながる――そう思っていた。
「えっ」
僕と彼は同時に声を上げた。
――続きが、ある。
静かな教室に紙が擦れ合う音が響く。
彼はページをめくりながら、声を震わせる。
「何だよ。こんなの描いてたなんて……一言も言ってない」
そこに描かれていたのは――彼らが現実に帰った後の世界だった。
壁に貼った『絶対現役合格』の文字を背に、猛勉強するのは――柊木司。
やがて、白衣を着て聴診器をぶら下げる姿に変わる。
そして、目の前にやって来る動物たちを、疲労困憊の顔で診察している。
その背後には、小さなシロクマの姿が見える。
目を輝かせながら柊木を見ているのは、おそらく――。
「おい。このままじゃ、君の子供も医者になっちまうぞ」
彼はもうこの世界にはいない柊木に向かって、笑いかけた。
次に現れたのは、ライブでペンライトを全力で振る――五十嵐メル。
しばらくすると、彼女はスーツ姿に変わり、どこかの会社に勤め始めたことが分かる。
シーンは移り、五十嵐は友人と共にカラオケに来たようだ。
そこで彼女は、みんなに歌と踊りと一二〇%の笑顔を披露する。
「やっぱ、アイドル、やってんじゃん」
次に現れたのは、全身に包帯を巻いた痛々しい姿の――絵川由夢。
少しずつ、包帯は取れていくが、右手に巻いた包帯は取れない。
だが、彼女は左手でペンを握り、絵を描いていく。
最初は下手くそだった左手の絵は、右手の包帯が少なくなるごとにうまくなっていく。
けど、最後まで右手の包帯は取れなかった。
彼女は左手と震える右手を使い、真っ白なキャンバスに向き合っている。
「イラストレーター界の二刀流」
彼女が信じたそれぞれの未来。
ただの妄想か、予言書か。
この世界にいる僕たちには、それを判断することはできなかった。
マッシロになった柊木、五十嵐、絵川がページの真ん中を占領する中、ページの隅っこで彼らに控えめに拍手をするマッシロに目をやる。
それがきっと、彼なのだろう。
ページをめくっていくと、皆が消え、彼は一人になる。
彼は頭を抱え、腕を組み、氷の上でゴロゴロと転がるが、どこにも行けない。
けど、やがて何かを決意したように立ち上がる。
そして、ノートの右側に向かって全力で駆け出す。
その先には――。
「何も、ない」
進路希望調査票と同じ、白紙の空間だけ。
どこへ向かって走っているのかも、走った先に何があるのかも、何も描かれていなかった。
「……ほらね」
僕は彼の耳元でささやいた。
その声、自分でもびっくりするくらい、冷たくて優しかった。
「彼女だって、君の行き先は描けなかったんだ」
彼は質問に答えない。
「みんな、最初から何か持ってたんだよ」
「……違う」
彼が何とか絞り出した言葉は、ひどく弱々しかった。
「彼女は分かっていたんだ。君が……君だけが、本当に空っぽだったんだって」
彼は再び黙り込む。
僕は彼をなぐさめようと、彼の背中にそっと手を置く。
その時だった。
――温かい。
凍えるような冷たさを想像していた彼の背中。
なのに、それは真逆の性質を持っていた。
僕は思わず、手を引っ込める。
「僕は、違うと思う」
今度の彼の声は――弱々しくなかった。
もしかすると、その逆で、暗闇が僕を侵食したのかもしれない。
彼は自分の――内海新汰の席を見下ろしている。
「ほんとに、空っぽだ」
「机がね」
僕は隣に並び、同じように彼の席を見下ろす。
「そんなに深刻に考える必要はない。君の人生の空っぽさと、机が空っぽなことは無関係だよ」
「そうかな……」
「そうだとも。立派な夢を持つ、彼らの中にも机が空っぽなヤツぐらいいるよ」
僕がそう言うと、彼は教室内を歩き出す。
まず柊木の机の中をのぞき込み、次に五十嵐の席をのぞき込んだ。
彼はため息をつき、その場にしゃがみ込む。
結果は聞くまでもなかった。
突然、彼の目が大きく開く。
「あれは……?」
彼はそうつぶやくと、吸い寄せられるように、教室の前方に向かって歩いていく。
主を失った――いや、主が戻ったかもしれない、絵川由夢の席の脇に立った。
彼はその机の中から、何かを取り出す。
それは、絵川がこの世界で使っていた、茶色の大学ノートだった。
この世界だけに存在する、彼女がここにいたことの証。
「見て……いいと思う?」
「さあね。持ち主はもういないんだ。少なくとも、見ても文句は言われない」
彼はためらうように指先を出したり引っ込めたりするが、結局表紙をめくった。
僕は彼の背中ごしにノートの中身をのぞく。
最初の数ページに描かれていたのは、色んな角度でポーズを取るマッシロ。
絵川は絵の練習をしていたのだろうか。
いや、現実では砕けてしまった右手の調子を、確かめようとしていたのかもしれない。
順番にページをめくっていくと、絵と絵の間につながりが現れるようになった。
クールぶって、いけ好かない顔をしたマッシロ。
大袈裟な身振りで、騒ぎ立てているマッシロ。
何の感情もなく、その場に突っ立っているマッシロ。
冷めた表情で腕を組み、それらを遠くから見ているマッシロ。
それは、四頭のマッシロに置き換えられた、新汰たち四人の姿。
強弱のある鉛筆の線で生き生きと描かれていた。
「彼女、君に内緒でこんなのを描いてたみたいだね」
「うん」
彼は気のない返事をした。
「ずいぶん、彼女の絵が気に入ったみたいじゃないか」
「うん」
僕は彼に聞こえるほど大きなため息をついたが、まったく効果はなかった。
まともに話すのをあきらめ、彼と一緒に絵を眺めることに集中した。
彼は独り言のようにつぶやく。
「僕……あの時、こんな顔してたのか」
「彼女のフィルターを通したら、だろ?」
「そうだね」
彼は指でこの世界に来てからの出来事をなぞっていく。
そして、目の前の黒板の絵につながる――そう思っていた。
「えっ」
僕と彼は同時に声を上げた。
――続きが、ある。
静かな教室に紙が擦れ合う音が響く。
彼はページをめくりながら、声を震わせる。
「何だよ。こんなの描いてたなんて……一言も言ってない」
そこに描かれていたのは――彼らが現実に帰った後の世界だった。
壁に貼った『絶対現役合格』の文字を背に、猛勉強するのは――柊木司。
やがて、白衣を着て聴診器をぶら下げる姿に変わる。
そして、目の前にやって来る動物たちを、疲労困憊の顔で診察している。
その背後には、小さなシロクマの姿が見える。
目を輝かせながら柊木を見ているのは、おそらく――。
「おい。このままじゃ、君の子供も医者になっちまうぞ」
彼はもうこの世界にはいない柊木に向かって、笑いかけた。
次に現れたのは、ライブでペンライトを全力で振る――五十嵐メル。
しばらくすると、彼女はスーツ姿に変わり、どこかの会社に勤め始めたことが分かる。
シーンは移り、五十嵐は友人と共にカラオケに来たようだ。
そこで彼女は、みんなに歌と踊りと一二〇%の笑顔を披露する。
「やっぱ、アイドル、やってんじゃん」
次に現れたのは、全身に包帯を巻いた痛々しい姿の――絵川由夢。
少しずつ、包帯は取れていくが、右手に巻いた包帯は取れない。
だが、彼女は左手でペンを握り、絵を描いていく。
最初は下手くそだった左手の絵は、右手の包帯が少なくなるごとにうまくなっていく。
けど、最後まで右手の包帯は取れなかった。
彼女は左手と震える右手を使い、真っ白なキャンバスに向き合っている。
「イラストレーター界の二刀流」
彼女が信じたそれぞれの未来。
ただの妄想か、予言書か。
この世界にいる僕たちには、それを判断することはできなかった。
マッシロになった柊木、五十嵐、絵川がページの真ん中を占領する中、ページの隅っこで彼らに控えめに拍手をするマッシロに目をやる。
それがきっと、彼なのだろう。
ページをめくっていくと、皆が消え、彼は一人になる。
彼は頭を抱え、腕を組み、氷の上でゴロゴロと転がるが、どこにも行けない。
けど、やがて何かを決意したように立ち上がる。
そして、ノートの右側に向かって全力で駆け出す。
その先には――。
「何も、ない」
進路希望調査票と同じ、白紙の空間だけ。
どこへ向かって走っているのかも、走った先に何があるのかも、何も描かれていなかった。
「……ほらね」
僕は彼の耳元でささやいた。
その声、自分でもびっくりするくらい、冷たくて優しかった。
「彼女だって、君の行き先は描けなかったんだ」
彼は質問に答えない。
「みんな、最初から何か持ってたんだよ」
「……違う」
彼が何とか絞り出した言葉は、ひどく弱々しかった。
「彼女は分かっていたんだ。君が……君だけが、本当に空っぽだったんだって」
彼は再び黙り込む。
僕は彼をなぐさめようと、彼の背中にそっと手を置く。
その時だった。
――温かい。
凍えるような冷たさを想像していた彼の背中。
なのに、それは真逆の性質を持っていた。
僕は思わず、手を引っ込める。
「僕は、違うと思う」
今度の彼の声は――弱々しくなかった。

