教室に戻ると、面談を待つクラスメイトが、半分ほど残っていた。
仲の良いグループで固まり、お互いの進路希望調査票を見せ合っている。
ゆっくりした足取りで自分の席に戻ると、隣の席の友人、本田に声をかけられる。
「内海ーん、どうだった?」
「別に。普通」
「おいおい。もうすぐ俺の番なんだからさー、何かアドバイスくれよ」
本田がわざとらしく肩を落とした。
僕と本田は、一年生の時から同じクラスだ。
僕が所属する小さなグループのリーダー的存在でもある。
ふいに、本田の調査票が目に入り、僕は目を細める。
「それさ……偏差値、足りてるの?」
第一志望に書かれていたのは、県内で有名な私立大学だった。
偏差値は学科によってかなり違うが、本田が目指している情報工学科は高い方に分類されるはずだ。
「ん? ああ、全然足りてねえよ。分かってるくせに」
「高田先生に怒られても知らないよ」
「はっ、こう言ってやる。『ワンチャン、受かるかもしんない』って」
「受験ガチャ」
「なるほど。俺にとってはSSRってか。今日のツッコミもキレてんなー」
僕のささやかな冗談に、本田は短く刈り上げた後ろ髪を触りながら笑った。
僕は本田にそこまでウケた理由が分からず、うまく笑みを返せなかった。
「学力に見合った大学を選ぶべきだと思うけど」
「なんだよ、内海ん。大人みたいなこと言うんだな」
僕はハッとし、シャツの第二ボタン付近を握る。
――僕、高田と同じことを。
きっと本田は深く考えて言ったわけではない。
けど僕にとって、それは呪いの言葉のように思えた。
本田は息を深く吐きながら、僕から視線をそらす。
「ガラにもなくさ。本気出そうと思っちゃったんだよね」
「どういうこと?」
「ほら、俺、大概適当じゃん」
「うん」
「いや、そこは一応否定しろ」
本田は軽く笑いながら、右手の甲を僕の胸元にぽんと当てた。
「好きなものっていっても、スマホでゲームするぐらい。親からも『ゲーム中毒』なんてあきれられてさ。ま、時間無駄に溶かしてるだけって、俺も分かってんだけど」
「僕も、同じ」
「内海んは違うだろ。ちゃんと勉強してんじゃん」
何が違うのだろう。
僕にとってはゲームも勉強も、ただ時間を埋めるためにやってるだけだ。
「とりあえず、一生楽しくゲームできりゃそれでいいって思ってさ。だから、なるべくいい大学に行って、ゆっくり休みが取れるいい会社に入りたいんだよ」
「つまり、本気で遊ぶために本気で勉強するってこと?」
「そ。不純だろ?」
「よく分からない」
「おい、ここは肯定するとこだろうが」
――うらやましい。
少し照れたように語った本田の言葉は、不思議なくらい温かかった。
それは、僕からは決して生まれない種類のものに思えた。
「で、内海んはどうすんの?」
「どうって、なにが?」
「この流れで、進路の話以外ありえないっしょ」
僕は机の上をちらりと見る。
進路希望調査票は大学のパンフレットの束に隠れており、本田に見られることはない。
「えっと、その……」
まただ。
僕は心の中で唇を強く噛む。
普通の人間なら、ここで適当な進路を答えることができるのだろう。
けど、僕にはそんな簡単なことができない。
物心ついた時から、ずっと。
「おっ! まさか、内海んも一緒?」
「えっ」
一番上に置いたパンフレットは、本田が第一志望にしている大学のものだった。
高田が選んだ大学にまったく興味が湧かなかったので、気づかなかった。
担任の言葉が、僕の頭の中でループする。
『内海の学力に見合った大学の資料だ』
本田が必死になって目指している大学は、僕なら十分に合格を狙える。
行きたいとも思っていない僕が、その席を取るかもしれない。
昼間に食べたサンドイッチとおにぎりが、のどの奥から戻ってきそうになった。
もし僕がその大学を受験しなければ、本田は合格できるだろうか。
因果関係のない事象が、僕の脳内でブロックのようにピタリと重なり合っていく。
もし僕が消えれば、世界はいくらか正しい方向に進む――そんな風に思えた。
――死にたい。
そう、心の奥でつぶやく。
一度しか思っていないはずなのに、その言葉だけが頭の中で妙に長く残った。
自分の声なのに、なぜか少し遠い。
その時だった。
「内海ん……どうし……」
突然、本田の声が、音量ボタンを押し続けたかのように小さくなっていき、耳を澄ませなければ聞こえないほどになった。
いや、おかしいのは声だけじゃない。
本田の体が少しずつ透きとおっていき、そのまま背景に溶けてしまいそうになる。
周囲のクラスメイトも、同様の変化を見せていた。
――なんだ、これは。
吐き気も消え失せるほどの異様な情景。
呆然としていると、先ほどまで誰もいなかったはずの前方の席に、見慣れた後ろ姿が現れる。
存在感を失っていくクラスメイトとは反対に、その背中はどんどん明瞭になっていく。
彼女こそ、透明でなくてはならないというのに。
鮮明になった彼女は音もなく立ち上がる。
彼女はカラスのように黒く長い髪をひるがえし、ゆっくりと黒板の前に歩いていく。
「ようこそ、死に損ないの皆さん」
その声は真夏の青空みたいに澄み切っていて、教室内によく響いた。
彼女は教卓に両手をつき、かすかに微笑む。
「どうせなら、ちゃんと死んだら? 私、みたいに」
僕の目の前に立っているのは、一カ月前に自殺したクラスメイト――絵川由夢だった。
仲の良いグループで固まり、お互いの進路希望調査票を見せ合っている。
ゆっくりした足取りで自分の席に戻ると、隣の席の友人、本田に声をかけられる。
「内海ーん、どうだった?」
「別に。普通」
「おいおい。もうすぐ俺の番なんだからさー、何かアドバイスくれよ」
本田がわざとらしく肩を落とした。
僕と本田は、一年生の時から同じクラスだ。
僕が所属する小さなグループのリーダー的存在でもある。
ふいに、本田の調査票が目に入り、僕は目を細める。
「それさ……偏差値、足りてるの?」
第一志望に書かれていたのは、県内で有名な私立大学だった。
偏差値は学科によってかなり違うが、本田が目指している情報工学科は高い方に分類されるはずだ。
「ん? ああ、全然足りてねえよ。分かってるくせに」
「高田先生に怒られても知らないよ」
「はっ、こう言ってやる。『ワンチャン、受かるかもしんない』って」
「受験ガチャ」
「なるほど。俺にとってはSSRってか。今日のツッコミもキレてんなー」
僕のささやかな冗談に、本田は短く刈り上げた後ろ髪を触りながら笑った。
僕は本田にそこまでウケた理由が分からず、うまく笑みを返せなかった。
「学力に見合った大学を選ぶべきだと思うけど」
「なんだよ、内海ん。大人みたいなこと言うんだな」
僕はハッとし、シャツの第二ボタン付近を握る。
――僕、高田と同じことを。
きっと本田は深く考えて言ったわけではない。
けど僕にとって、それは呪いの言葉のように思えた。
本田は息を深く吐きながら、僕から視線をそらす。
「ガラにもなくさ。本気出そうと思っちゃったんだよね」
「どういうこと?」
「ほら、俺、大概適当じゃん」
「うん」
「いや、そこは一応否定しろ」
本田は軽く笑いながら、右手の甲を僕の胸元にぽんと当てた。
「好きなものっていっても、スマホでゲームするぐらい。親からも『ゲーム中毒』なんてあきれられてさ。ま、時間無駄に溶かしてるだけって、俺も分かってんだけど」
「僕も、同じ」
「内海んは違うだろ。ちゃんと勉強してんじゃん」
何が違うのだろう。
僕にとってはゲームも勉強も、ただ時間を埋めるためにやってるだけだ。
「とりあえず、一生楽しくゲームできりゃそれでいいって思ってさ。だから、なるべくいい大学に行って、ゆっくり休みが取れるいい会社に入りたいんだよ」
「つまり、本気で遊ぶために本気で勉強するってこと?」
「そ。不純だろ?」
「よく分からない」
「おい、ここは肯定するとこだろうが」
――うらやましい。
少し照れたように語った本田の言葉は、不思議なくらい温かかった。
それは、僕からは決して生まれない種類のものに思えた。
「で、内海んはどうすんの?」
「どうって、なにが?」
「この流れで、進路の話以外ありえないっしょ」
僕は机の上をちらりと見る。
進路希望調査票は大学のパンフレットの束に隠れており、本田に見られることはない。
「えっと、その……」
まただ。
僕は心の中で唇を強く噛む。
普通の人間なら、ここで適当な進路を答えることができるのだろう。
けど、僕にはそんな簡単なことができない。
物心ついた時から、ずっと。
「おっ! まさか、内海んも一緒?」
「えっ」
一番上に置いたパンフレットは、本田が第一志望にしている大学のものだった。
高田が選んだ大学にまったく興味が湧かなかったので、気づかなかった。
担任の言葉が、僕の頭の中でループする。
『内海の学力に見合った大学の資料だ』
本田が必死になって目指している大学は、僕なら十分に合格を狙える。
行きたいとも思っていない僕が、その席を取るかもしれない。
昼間に食べたサンドイッチとおにぎりが、のどの奥から戻ってきそうになった。
もし僕がその大学を受験しなければ、本田は合格できるだろうか。
因果関係のない事象が、僕の脳内でブロックのようにピタリと重なり合っていく。
もし僕が消えれば、世界はいくらか正しい方向に進む――そんな風に思えた。
――死にたい。
そう、心の奥でつぶやく。
一度しか思っていないはずなのに、その言葉だけが頭の中で妙に長く残った。
自分の声なのに、なぜか少し遠い。
その時だった。
「内海ん……どうし……」
突然、本田の声が、音量ボタンを押し続けたかのように小さくなっていき、耳を澄ませなければ聞こえないほどになった。
いや、おかしいのは声だけじゃない。
本田の体が少しずつ透きとおっていき、そのまま背景に溶けてしまいそうになる。
周囲のクラスメイトも、同様の変化を見せていた。
――なんだ、これは。
吐き気も消え失せるほどの異様な情景。
呆然としていると、先ほどまで誰もいなかったはずの前方の席に、見慣れた後ろ姿が現れる。
存在感を失っていくクラスメイトとは反対に、その背中はどんどん明瞭になっていく。
彼女こそ、透明でなくてはならないというのに。
鮮明になった彼女は音もなく立ち上がる。
彼女はカラスのように黒く長い髪をひるがえし、ゆっくりと黒板の前に歩いていく。
「ようこそ、死に損ないの皆さん」
その声は真夏の青空みたいに澄み切っていて、教室内によく響いた。
彼女は教卓に両手をつき、かすかに微笑む。
「どうせなら、ちゃんと死んだら? 私、みたいに」
僕の目の前に立っているのは、一カ月前に自殺したクラスメイト――絵川由夢だった。

