十七年生きてきて、彼は『死にたい』と思ったことはあるが、『死のう』と思ったことはない。
月明かりにさらされた屋上は、まるで青白いプールの底のようだった。
「内海新汰、いい夜だね」
「うん、僕もそう思う」
彼はそう答えて、北側のフェンスの下をじっと見つめる。
「なにか、探してるの?」
「さっきまで、あそこに花……カモミールが供えられていたんだけど、それが見当たらなくて」
「それは当然じゃないかな」
僕は小さく笑って、肩をすくめた。
「その花は、絵川由夢のために、供えられてたんだろ?」
「うん」
「じゃあ、もう必要なくなったんじゃない? この世界から消えたんだから」
僕は握った右の拳を、彼の目の前でパッと勢いよく開いた。
「……ただ消えたわけじゃない。現実に帰ったかもしれない」
「そうだったね。訂正する。『現実に帰ったかもしれない』」
「でも、まだ香りだけが残っている気がするんだ」
「ずいぶんと、詩的な表現を使うようになったじゃないか」
「別に。本当にそう思っているだけ」
僕がからかうと、月明かりの下で彼は少しだけ顔を赤らめた。
僕は彼と真正面から向かい合う。
「――話を戻そう」
「話って?」
「はぐらかすなよ。君が見つけた夢の話だ」
僕の言葉に、彼の身体がぴくりと反応した。
「……うん。できたのかな」
彼は自分の右手をじっと見つめた。
チョークの粉を親指でこすり落とそうとするが、うまくいかないようだ。
「何になりたいの?」
ぽつりと、彼が言った。
「カスタマーサポート。思春期専門の」
僕は少し間を空けてから、低い声で聞く。
「詳しく」
「うん」
彼は眉間にしわを寄せ、何度か口を開きかけては閉じた。
無数のブロックをガチャガチャ組み替えている時のような顔だ。
「普通に道を歩いていたら……突然落っこちてしまうことがあると思うんだよ」
「どこに?」
「思春期の子供しか入れない、落とし穴」
「へえ」
「僕はその落とし穴の下で、誰かが来るまで、ひっそりと息を潜めてるんだよ」
「ゲームのキャラクターみたいだ。主人公が街に入ったとたん、ロードされて動き出す」
「そう、そんな感じ」
僕がロボットみたいに両腕をそろえて上半身を動かすと、彼が笑った。
「君は、そこで何をするんだ」
「そばにいて話を聞く」
「話?」
「そう、ただ話を聞くだけ」
僕は彼の顔全体を注意深く見つめる。
冗談を言っているわけではなく、本気だ。
そもそも、彼はほとんど冗談を言わない。
周りからは、そう受け止められないけど。
「その人が、自分で穴から出るって決めたら――手を振って別れる」
「ずいぶん、特殊な職業だね」
「少なくとも、図書室に解説本はなかったな」
僕は「だろうね」と短く返した。
夜風が僕たちの間を吹き抜けて、僕と彼の長い前髪を揺らした。
「いつから、そんなことを考え始めたの?」
「いつからだろう」
彼はチョークの汚れを気にするのを止めた。
両手を後ろにつき、暗い空に向かって口を開く。
「はっきり、ここだって瞬間はないよ。三人と話している間に少しずつ」
「ふうん」
彼の声には、ただ事実を確認するような淡々とした響きがあった。
「思うんだけど、落とし穴の上で待ち構えていた方が、効率が良いんじゃないかな?」
「それができるなら、ね」
彼は自嘲するように笑い、話を続ける。
「えっと……カモミールを供えた人、名前はたしか――」
「ケイキ」
「そう、ケイキ」
彼は小さくうなずく。
「あの人は言ってた。『由夢ちゃんが死ぬことなんて、一つも想像できなかった』って」
「うん」
「僕も同じなんだ。想像力が致命的にとぼしい」
「加えて、デリカシーも」
「ああ、そうだったね」
彼は体を起こし、花束が供えられていた場所をもう一度見る。
「落ちそうな人に『危ないよ』って声をかけれるのは……もっとちゃんとした優しい人の役目だ。だから僕は、落ちてきた後でいい」
「――悪くない夢だね」
僕は本心からそう言った。
「ありがとう」
彼は少しだけ照れくさそうに、鼻の頭を指でこすった。
僕はそんな彼の顔を見つめる。
「なのに、不思議だ」
「なにが?」
「どうして君は――」
僕は静かに語りかける。
「この世界から、出ていけないんだろう」
彼は電源が切れたように固まり、何も答えることができなかった。
月明かりにさらされた屋上は、まるで青白いプールの底のようだった。
「内海新汰、いい夜だね」
「うん、僕もそう思う」
彼はそう答えて、北側のフェンスの下をじっと見つめる。
「なにか、探してるの?」
「さっきまで、あそこに花……カモミールが供えられていたんだけど、それが見当たらなくて」
「それは当然じゃないかな」
僕は小さく笑って、肩をすくめた。
「その花は、絵川由夢のために、供えられてたんだろ?」
「うん」
「じゃあ、もう必要なくなったんじゃない? この世界から消えたんだから」
僕は握った右の拳を、彼の目の前でパッと勢いよく開いた。
「……ただ消えたわけじゃない。現実に帰ったかもしれない」
「そうだったね。訂正する。『現実に帰ったかもしれない』」
「でも、まだ香りだけが残っている気がするんだ」
「ずいぶんと、詩的な表現を使うようになったじゃないか」
「別に。本当にそう思っているだけ」
僕がからかうと、月明かりの下で彼は少しだけ顔を赤らめた。
僕は彼と真正面から向かい合う。
「――話を戻そう」
「話って?」
「はぐらかすなよ。君が見つけた夢の話だ」
僕の言葉に、彼の身体がぴくりと反応した。
「……うん。できたのかな」
彼は自分の右手をじっと見つめた。
チョークの粉を親指でこすり落とそうとするが、うまくいかないようだ。
「何になりたいの?」
ぽつりと、彼が言った。
「カスタマーサポート。思春期専門の」
僕は少し間を空けてから、低い声で聞く。
「詳しく」
「うん」
彼は眉間にしわを寄せ、何度か口を開きかけては閉じた。
無数のブロックをガチャガチャ組み替えている時のような顔だ。
「普通に道を歩いていたら……突然落っこちてしまうことがあると思うんだよ」
「どこに?」
「思春期の子供しか入れない、落とし穴」
「へえ」
「僕はその落とし穴の下で、誰かが来るまで、ひっそりと息を潜めてるんだよ」
「ゲームのキャラクターみたいだ。主人公が街に入ったとたん、ロードされて動き出す」
「そう、そんな感じ」
僕がロボットみたいに両腕をそろえて上半身を動かすと、彼が笑った。
「君は、そこで何をするんだ」
「そばにいて話を聞く」
「話?」
「そう、ただ話を聞くだけ」
僕は彼の顔全体を注意深く見つめる。
冗談を言っているわけではなく、本気だ。
そもそも、彼はほとんど冗談を言わない。
周りからは、そう受け止められないけど。
「その人が、自分で穴から出るって決めたら――手を振って別れる」
「ずいぶん、特殊な職業だね」
「少なくとも、図書室に解説本はなかったな」
僕は「だろうね」と短く返した。
夜風が僕たちの間を吹き抜けて、僕と彼の長い前髪を揺らした。
「いつから、そんなことを考え始めたの?」
「いつからだろう」
彼はチョークの汚れを気にするのを止めた。
両手を後ろにつき、暗い空に向かって口を開く。
「はっきり、ここだって瞬間はないよ。三人と話している間に少しずつ」
「ふうん」
彼の声には、ただ事実を確認するような淡々とした響きがあった。
「思うんだけど、落とし穴の上で待ち構えていた方が、効率が良いんじゃないかな?」
「それができるなら、ね」
彼は自嘲するように笑い、話を続ける。
「えっと……カモミールを供えた人、名前はたしか――」
「ケイキ」
「そう、ケイキ」
彼は小さくうなずく。
「あの人は言ってた。『由夢ちゃんが死ぬことなんて、一つも想像できなかった』って」
「うん」
「僕も同じなんだ。想像力が致命的にとぼしい」
「加えて、デリカシーも」
「ああ、そうだったね」
彼は体を起こし、花束が供えられていた場所をもう一度見る。
「落ちそうな人に『危ないよ』って声をかけれるのは……もっとちゃんとした優しい人の役目だ。だから僕は、落ちてきた後でいい」
「――悪くない夢だね」
僕は本心からそう言った。
「ありがとう」
彼は少しだけ照れくさそうに、鼻の頭を指でこすった。
僕はそんな彼の顔を見つめる。
「なのに、不思議だ」
「なにが?」
「どうして君は――」
僕は静かに語りかける。
「この世界から、出ていけないんだろう」
彼は電源が切れたように固まり、何も答えることができなかった。

