17歳、僕たちの第一死望

 教室に響く、不格好なリズムの乾いたチョークの音。
 絵川が顔を上げる。
 僕はそれに気づいたが、何も言わずにチョークを黒板の上で走らせる。

「なに……してるの?」

 しばらくして、絵川がぽつりとつぶやいた。

「絵、僕も描いてみようと思って」
「もしかして……それ、マッシロ?」
「うん。初めてにしては、うまく描けてると思うんだけど」
「初めてにしても……ひどすぎ。溶けかけの雪だるまにしか見えない」
「じゃあ、教えてよ」
「センスない人には、教えても無駄」
「それには同意。けど、教えてほしいのは絵の描き方じゃない」
「……え?」

 僕は腰をかがめ、絵川と同じ高さで顔を合わせる。

「絵を描くのが、楽しいってことの方」
「……っ」

 絵川は言葉を失ったように、唇を震わせた。
 彼女の瞳に、教壇にしゃがみ込む僕の姿が映っていた。

「……楽しいだけのわけ、ないじゃない」

 絵川は顔をそらした。

「じゃあ、それ以外も教えて」
「……死にたいような、辛さも?」
「それは、ほどほどで」

 僕がそう言うと、隣から黒板消しが伸びてくる。

「――マッシロの顔の形は、お餅みたいな楕円形。耳の角度は六十度が目安」
「分かった」

 僕は絵川のアドバイスに従って、マッシロの顔を描き直す。

「それ、ネコ……?」
「よかった。とりあえず、雪だるまから動物に進化したみたいで」

 僕が自慢げに胸を張ると、絵川がほんのかすかに笑みを浮かべた。

「手本、見せてくれないの?」
「嫌」
「五十嵐さんは、ダンスを見せてくれたのに」
「彼女、いい人だから」
「僕は絵川さんもいい人だと思うよ」
「おだてたってダメ。私、もう誰かに見せる絵なんて描かない」
「どうして?」

 絵川はうつむく。

「怖いの……私が描いた絵、誰かに見られるのが」
「それ、嘘だよね?」

 絵川の目がナイフのように鋭くなる。

「なに……言ってるの? 私の話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ。ずっと、すごく真剣に」
「だったら――」

 絵川の言葉を僕はさえぎるように尋ねる。

「じゃあ聞くけど、どうして僕たちの前で絵を描いてたの?」
「それは……」
「本当に見せたくないなら、そんなこと、しないんじゃないかな?」

 絵川は、またカーディガンの袖を握る。

「……何描いてるか、君たちからは隠してたし」
「あれで隠してるつもりだったとは笑える。子供だましじゃあるまいし」
「……うるさい」
「のぞき込んだら、普通に見えてたと思うんだけどな。僕たちが、そうしなかっただけで」
「うるさい、うるさい、うるさーいっ!」

 絵川は肩を上下にさせながら、叫んだ。
 僕はそれに負けないようにニッと笑う。

「この世界には、もう僕と君しかいない。何を怖がってるんだ?」
「……私は」

 絵川の身体が小刻みに震える。
 僕は一定の距離を保ったまま、ただ静かに彼女の答えを待った。
 絵川が、キッと唇を噛みしめる。

「ビビってなんか……ない!」

 カーディガンの袖をまくり、白いチョークを手に取った。
 大きな黒板の上を、絵川の右手が滑らかに走る。
 黒板の真ん中に、マッシロが浮かび上がった。
 マッシロの手には鉛筆とノートが握られ、何かを描いていた。

「へえ、さすがだね。本物そっくり」
「そのセリフ、作者に言う?」
「変かな?」
「君なら、歌手が自分の歌を唄った時でも言いそう」

 僕が肩をすくめると、絵川がマッシロの顔をチョークでトントンと叩く。

「何ぼーっとしてんの」
「えっと……どういうこと?」
「馬鹿ね。これじゃあ、マッシロじゃなくてマックロ。塗り絵ぐらいできるでしょ?」
「それなら、何とか」

 僕は白いチョークを握り直し、マッシロの内側を白く塗りつぶしていく。

「そうそう、その調子。今度はこっちね」
「アシスタント代、出る?」
「出るわけねえだろ」

 絵川が笑いながら、教壇の上を踊るように移動する。

 ――そうそう、その調子。

 僕も彼女につられて笑顔になる。
 彼女の左足のつま先が、ほんのわずかだが、透き通っていた。

「手、結構、疲れてきた」
「この程度でギブ? 虚弱体質」
「普段はどれくらいの時間、絵を描いてるの」
「休みの日だったら、ぶっ続けで十二時間とか普通」
「うわ、右手、壊れそう」

 起きている時間、ほとんど絵を描いていることになる。

「そんぐらいで、壊れないよ」
「ほんとに?」
「うん。飛び降りたりしない限りは」
「そっか……」

 僕はマッシロの耳を塗りながら、自分の休みの日の過ごし方を思い出す。

「僕は休みの日、クラフトゲームで、街を作ってるんだけど」
「へえ、意外。そういうの興味ない人だと思ってた」
「間違ってないよ。ただの暇つぶし」
「ふうん」

 彼女は黒板から目をそらさずに言った。

「最近、どういうの作ったの?」
「四乃山(しのやま)城」
「何それ、近場じゃん」
「ここから直線距離で、一・五キロ」
「すぐ行ける場所を作ってどうすんのよ。普通、世界遺産とかじゃないの?」

 心臓の鼓動が、一瞬高鳴った。
 僕はなるべく平坦な調子で答える。

「……そういうのは、実際行く方がいいだろ」
「まったく、子供なんだか大人なんだか」
「悪いけど、僕は、あと八十九日後に大人になる」
「法律の話、してないって」

 絵川は黒板の右側に、新しい絵を描き始める。
 それは、バスケをする二匹のマッシロ。
 どちらの動きも、なんだかおぼつかなく見える。

「ねえ。本気で打ち込むことがないって、どんな気分?」
「えっ」
「なんでそんなに驚いてんの?」
「いや、本当に遠慮ない人だなって」
「それ、君に一番言われたくない」

 絵川はここぞとばかり反撃しようと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
 彼女は黒板の前でしゃがみ、別の絵を描く。
 それは、満面の笑みでキレキレのダンスを踊るマッシロ。
 そのすぐ後ろには、無表情でこの街の伝統的な踊りを披露するマッシロがいた。

「別に……説明するほど大した気分じゃない。たまに、死にたいと思うぐらい」
「その程度で、この世界に堕ちるなんてね。私に比べたら、理由が軽い」
「……うるさい」

 絵川のトゲのある言い方に、僕は思わずイラついた。
 けど、絵川の言うことは間違っていない。
 僕の悩みなんて、絵川にとっては砂粒みたいなものだろう。
 
 ――それでも、僕にとっては。

 僕の手が止まる。
 目の前には中途半端に塗られた無表情のマッシロ。
 その瞬間、絵川がニッと笑う。

「でもさ。内海にとっては、重いんでしょ? 知らんけど」
「……っ」

 すぐに答えることができない。
 僕は彼女から顔をそらし、黒板に描かれたマッシロを見つめながら言う。

「……関西弁、似合ってないよ」
「一度、使ってみたかったんだ」

 絵川がいたずらっぽい声で言った。

「ねえ、私の絵、見せたんだから、君のも見せてよ」
「僕のは、今見せてるけど」
「違うよ。さっき話してた、君の作った街」
「……見せない」
「卑怯者。私には見せろって言ったくせに」
「そうじゃない」

 つい力を入れすぎて、僕はチョークを折ってしまう。
 僕は慌てて破片を拾い、短い方を黒板の溝に置いた。

「今……ネット、つながってないから。見せたくても見せられないってこと」
「ふうん。じゃあ、今度、見せてよ」
「今度って?」
「とりあえず、死ぬまでの間に」
「……うん」

 黒板が、絵川の絵でどんどん埋め尽くされていく。
 最後に描かれたのは、教室で言い争う二匹のマッシロ。
 喧嘩をしているはずなのに、二匹の表情はどこか楽しげだった。

 黒板いっぱいに広がっているのは――六枚目の絵だ。

 最初は、たった一人で幻死の世界にやってきた絵川。
 そこで、痛みも苦しみもなく、ただ穏やかに過ごして来た。
 けど、そこに僕と柊木と五十嵐がやってきて、絵川の平穏を乱した。
 体育館でバスケとも呼べないひどい勝負をし、中庭で最低と最高のダンスを踊り合い、誰もいない夜の教室で口喧嘩をした。

「あーあ。もう描くスペース、なくなっちゃいそう」
「うん、あと少しで終わる」

 僕は短くなったチョークを交換しようと、別のチョークを手に取った。
 その時、絵川の左足が目に入る。
 先ほどから、透明な部分は足先からまったく広がっていない。
 絵川は足元を見ることなく、黒板だけを見つめながら言う。

「ねえ、もし……もしもだよ。私が現実に帰れたら、どうなっちゃうんだろう」
「どうって?」
「まずは、怪我の治療でしょ。で、話せるようになったら、両親にはなんて言い訳しようかな……」
「足が滑ったとか?」
「いいアイデアね」

 絵川がクスッと笑った。

「でもあいにく、私、体操選手じゃない。あんな高いフェンス越えられないよ」
「……正直に、話せばいいんじゃないかな」
「そう、だよね……」

 絵川は、チョークを持った手をだらんと下ろす。
 紺色のカーディガンの袖がずれ落ちてくる。
 指には力が入っておらず、今にもチョークを落としてしまいそうだった。

「右手も……もう動かないかもしれない」
「左手があるじゃないか」
「簡単に言ってくれちゃって」

 絵川は小さく笑い、おでこを黒板につける。

「多分、私が自殺したって噂、もうSNSとかで広まってると思うんだよね」
「そうかもしれない」
「別に、同情してほしいわけじゃないけどさ。それでも叩いてくる人、絶対いる」
「そう……かもしれない」
「怖いなあ。私……頑張れるかな」

 絵川は肩を震わせ、不安げな眼差しでうつむいた。
 僕は絵川に近づき、くしゃくしゃになった一枚の絵を見せる。

「僕、この絵が一番好きなんだよね」

 それはマッシロの描いた絵を、ウサギやキツネ、小鳥たちが褒めている三枚目の絵。
 絵川が僕を見る。
 
「頑張りが、みんなに認められた瞬間だから?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
「僕は――」

 僕はその絵を、絵川に押しつけるように握らせた。

「みんな、楽しそうにしてるのが、なんかいいなって思ったんだよ。マッシロもその周りも」
「みんな……?」
「うん」

 僕はまだ塗られていないマッシロの体を仕上げていく。

「絵川さん、さっきから、ずっと楽しそうだった」
「絵、描くの……好きだから」
「けど、僕は君と違って、絵を描くのが全然楽しいとは思えなかった。手が疲れるだけだし」
「じゃあなんで?」

 絵川は目を潤ませながら、僕を見る。

「なんで、内海君は……そんなに笑ってるの?」
「そんなの、決まってる」

 僕は黒板を抱きかかえるぐらい、目一杯、両手を広げた。

「君が楽しそうに絵を描いてるのを見るのが、楽しかったから」

 絵川はチョークを手にしたまま、自分の鼻と口を両手で覆った。
 あれほど流した涙が、また溢れ出そうとしていた。

「……お父さんもそう思ってたのかな」
「さあ」
「お母さんはどうだろう」
「知らない」
「ケイキさんも……」
「そんなの、僕に分かるわけがないだろ」
「冷た」
「僕は僕のことしか分からない。だから――」

 僕は絵川の瞳を指差す。

「確かめなよ。自分の目で」
「……!」

 絵川は汚れた手で、乱暴に目をこする。
 顔にチョークの粉がつき、どんどん白くなっていく。
 けど、その笑顔はここに来てから見た絵川のどんな笑顔よりも、まぶしい。

「そうだ……そうだよね」
「うん」
「これ、さ。私の絵なの」

 彼女の声と姿が、薄まり始める。

「だから、好きな時に描いて、見せたい時に見せる」

 絵川は芯の通った声で続ける。

「私、たぶんまた誰かに見てほしいって思う。褒めてほしいし、たくさんの人に届いてほしいって……思っちゃう」
「そうだね」
「それで、傷ついて……怖くなって、描けなくなるかもしれない」
「そう」
「でも、描き続けるかどうかは、私が決める。全部、私の絵なんだから」

 僕は何も言わずに、ただ絵川を見つめ続けた。
 絵川は小さく笑う。

「……けどさ。私、そんな強くないから、きっとまた死にたくなること、あると思うんだ」
「あるよ。そんなこと、僕にだって」
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、その時はどうするの?」

 僕は少しだけ考える。

「……分からない」
「役立たず」
「でも、また話してよ」
「君に?」
「僕には、君のことよく分からないけど」
「ダメじゃん」
「壁よりはマシだと思うよ」

 絵川がきょとんとした表情を浮かべた。

「……壁の方が、静かでいいかも」
「なんだよ、それ」
「ほら、すぐ反論する」

 僕と絵川は顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
 月明かりに、彼女の姿が溶けていく。

「内海、新汰君」
「なに?」

 彼女は言葉を交わす代わりに、絵を描き始める。
 下手くそな踊りを踊るマッシロのすぐ脇のスペース。
 普段使うことの少ない紫のチョークで描かれたのは、無数の小さな花びらを持つ花。

「それ、なんの花?」
「ラベンダー。とてもいい香りがするの」

 ――私、花には詳しいの。

 屋上で聞いた、絵川の言葉が蘇る。

「どういう意味――」

 そう尋ねた瞬間、絵川の姿が消え、チョークが教壇の上に落ち、割れた。
 僕はその場に膝をつき、チョークの欠片を丁寧に拾う。
 たとえ、元の姿に戻すことはできないとしても。

 これで、この世界に残っているのは僕一人だけだ。
 なのに、『一人』という言葉が、胸の奥に引っかかる。
 何がおかしいのかは――分からない。