教室に響く、不格好なリズムの乾いたチョークの音。
絵川が顔を上げる。
僕はそれに気づいたが、何も言わずにチョークを黒板の上で走らせる。
「なに……してるの?」
しばらくして、絵川がぽつりとつぶやいた。
「絵、僕も描いてみようと思って」
「もしかして……それ、マッシロ?」
「うん。初めてにしては、うまく描けてると思うんだけど」
「初めてにしても……ひどすぎ。溶けかけの雪だるまにしか見えない」
「じゃあ、教えてよ」
「センスない人には、教えても無駄」
「それには同意。けど、教えてほしいのは絵の描き方じゃない」
「……え?」
僕は腰をかがめ、絵川と同じ高さで顔を合わせる。
「絵を描くのが、楽しいってことの方」
「……っ」
絵川は言葉を失ったように、唇を震わせた。
彼女の瞳に、教壇にしゃがみ込む僕の姿が映っていた。
「……楽しいだけのわけ、ないじゃない」
絵川は顔をそらした。
「じゃあ、それ以外も教えて」
「……死にたいような、辛さも?」
「それは、ほどほどで」
僕がそう言うと、隣から黒板消しが伸びてくる。
「――マッシロの顔の形は、お餅みたいな楕円形。耳の角度は六十度が目安」
「分かった」
僕は絵川のアドバイスに従って、マッシロの顔を描き直す。
「それ、ネコ……?」
「よかった。とりあえず、雪だるまから動物に進化したみたいで」
僕が自慢げに胸を張ると、絵川がほんのかすかに笑みを浮かべた。
「手本、見せてくれないの?」
「嫌」
「五十嵐さんは、ダンスを見せてくれたのに」
「彼女、いい人だから」
「僕は絵川さんもいい人だと思うよ」
「おだてたってダメ。私、もう誰かに見せる絵なんて描かない」
「どうして?」
絵川はうつむく。
「怖いの……私が描いた絵、誰かに見られるのが」
「それ、嘘だよね?」
絵川の目がナイフのように鋭くなる。
「なに……言ってるの? 私の話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ。ずっと、すごく真剣に」
「だったら――」
絵川の言葉を僕はさえぎるように尋ねる。
「じゃあ聞くけど、どうして僕たちの前で絵を描いてたの?」
「それは……」
「本当に見せたくないなら、そんなこと、しないんじゃないかな?」
絵川は、またカーディガンの袖を握る。
「……何描いてるか、君たちからは隠してたし」
「あれで隠してるつもりだったとは笑える。子供だましじゃあるまいし」
「……うるさい」
「のぞき込んだら、普通に見えてたと思うんだけどな。僕たちが、そうしなかっただけで」
「うるさい、うるさい、うるさーいっ!」
絵川は肩を上下にさせながら、叫んだ。
僕はそれに負けないようにニッと笑う。
「この世界には、もう僕と君しかいない。何を怖がってるんだ?」
「……私は」
絵川の身体が小刻みに震える。
僕は一定の距離を保ったまま、ただ静かに彼女の答えを待った。
絵川が、キッと唇を噛みしめる。
「ビビってなんか……ない!」
カーディガンの袖をまくり、白いチョークを手に取った。
大きな黒板の上を、絵川の右手が滑らかに走る。
黒板の真ん中に、マッシロが浮かび上がった。
マッシロの手には鉛筆とノートが握られ、何かを描いていた。
「へえ、さすがだね。本物そっくり」
「そのセリフ、作者に言う?」
「変かな?」
「君なら、歌手が自分の歌を唄った時でも言いそう」
僕が肩をすくめると、絵川がマッシロの顔をチョークでトントンと叩く。
「何ぼーっとしてんの」
「えっと……どういうこと?」
「馬鹿ね。これじゃあ、マッシロじゃなくてマックロ。塗り絵ぐらいできるでしょ?」
「それなら、何とか」
僕は白いチョークを握り直し、マッシロの内側を白く塗りつぶしていく。
「そうそう、その調子。今度はこっちね」
「アシスタント代、出る?」
「出るわけねえだろ」
絵川が笑いながら、教壇の上を踊るように移動する。
――そうそう、その調子。
僕も彼女につられて笑顔になる。
彼女の左足のつま先が、ほんのわずかだが、透き通っていた。
「手、結構、疲れてきた」
「この程度でギブ? 虚弱体質」
「普段はどれくらいの時間、絵を描いてるの」
「休みの日だったら、ぶっ続けで十二時間とか普通」
「うわ、右手、壊れそう」
起きている時間、ほとんど絵を描いていることになる。
「そんぐらいで、壊れないよ」
「ほんとに?」
「うん。飛び降りたりしない限りは」
「そっか……」
僕はマッシロの耳を塗りながら、自分の休みの日の過ごし方を思い出す。
「僕は休みの日、クラフトゲームで、街を作ってるんだけど」
「へえ、意外。そういうの興味ない人だと思ってた」
「間違ってないよ。ただの暇つぶし」
「ふうん」
彼女は黒板から目をそらさずに言った。
「最近、どういうの作ったの?」
「四乃山城」
「何それ、近場じゃん」
「ここから直線距離で、一・五キロ」
「すぐ行ける場所を作ってどうすんのよ。普通、世界遺産とかじゃないの?」
心臓の鼓動が、一瞬高鳴った。
僕はなるべく平坦な調子で答える。
「……そういうのは、実際行く方がいいだろ」
「まったく、子供なんだか大人なんだか」
「悪いけど、僕は、あと八十九日後に大人になる」
「法律の話、してないって」
絵川は黒板の右側に、新しい絵を描き始める。
それは、バスケをする二匹のマッシロ。
どちらの動きも、なんだかおぼつかなく見える。
「ねえ。本気で打ち込むことがないって、どんな気分?」
「えっ」
「なんでそんなに驚いてんの?」
「いや、本当に遠慮ない人だなって」
「それ、君に一番言われたくない」
絵川はここぞとばかり反撃しようと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
彼女は黒板の前でしゃがみ、別の絵を描く。
それは、満面の笑みでキレキレのダンスを踊るマッシロ。
そのすぐ後ろには、無表情でこの街の伝統的な踊りを披露するマッシロがいた。
「別に……説明するほど大した気分じゃない。たまに、死にたいと思うぐらい」
「その程度で、この世界に堕ちるなんてね。私に比べたら、理由が軽い」
「……うるさい」
絵川のトゲのある言い方に、僕は思わずイラついた。
けど、絵川の言うことは間違っていない。
僕の悩みなんて、絵川にとっては砂粒みたいなものだろう。
――それでも、僕にとっては。
僕の手が止まる。
目の前には中途半端に塗られた無表情のマッシロ。
その瞬間、絵川がニッと笑う。
「でもさ。内海にとっては、重いんでしょ? 知らんけど」
「……っ」
すぐに答えることができない。
僕は彼女から顔をそらし、黒板に描かれたマッシロを見つめながら言う。
「……関西弁、似合ってないよ」
「一度、使ってみたかったんだ」
絵川がいたずらっぽい声で言った。
「ねえ、私の絵、見せたんだから、君のも見せてよ」
「僕のは、今見せてるけど」
「違うよ。さっき話してた、君の作った街」
「……見せない」
「卑怯者。私には見せろって言ったくせに」
「そうじゃない」
つい力を入れすぎて、僕はチョークを折ってしまう。
僕は慌てて破片を拾い、短い方を黒板の溝に置いた。
「今……ネット、つながってないから。見せたくても見せられないってこと」
「ふうん。じゃあ、今度、見せてよ」
「今度って?」
「とりあえず、死ぬまでの間に」
「……うん」
黒板が、絵川の絵でどんどん埋め尽くされていく。
最後に描かれたのは、教室で言い争う二匹のマッシロ。
喧嘩をしているはずなのに、二匹の表情はどこか楽しげだった。
黒板いっぱいに広がっているのは――六枚目の絵だ。
最初は、たった一人で幻死の世界にやってきた絵川。
そこで、痛みも苦しみもなく、ただ穏やかに過ごして来た。
けど、そこに僕と柊木と五十嵐がやってきて、絵川の平穏を乱した。
体育館でバスケとも呼べないひどい勝負をし、中庭で最低と最高のダンスを踊り合い、誰もいない夜の教室で口喧嘩をした。
「あーあ。もう描くスペース、なくなっちゃいそう」
「うん、あと少しで終わる」
僕は短くなったチョークを交換しようと、別のチョークを手に取った。
その時、絵川の左足が目に入る。
先ほどから、透明な部分は足先からまったく広がっていない。
絵川は足元を見ることなく、黒板だけを見つめながら言う。
「ねえ、もし……もしもだよ。私が現実に帰れたら、どうなっちゃうんだろう」
「どうって?」
「まずは、怪我の治療でしょ。で、話せるようになったら、両親にはなんて言い訳しようかな……」
「足が滑ったとか?」
「いいアイデアね」
絵川がクスッと笑った。
「でもあいにく、私、体操選手じゃない。あんな高いフェンス越えられないよ」
「……正直に、話せばいいんじゃないかな」
「そう、だよね……」
絵川は、チョークを持った手をだらんと下ろす。
紺色のカーディガンの袖がずれ落ちてくる。
指には力が入っておらず、今にもチョークを落としてしまいそうだった。
「右手も……もう動かないかもしれない」
「左手があるじゃないか」
「簡単に言ってくれちゃって」
絵川は小さく笑い、おでこを黒板につける。
「多分、私が自殺したって噂、もうSNSとかで広まってると思うんだよね」
「そうかもしれない」
「別に、同情してほしいわけじゃないけどさ。それでも叩いてくる人、絶対いる」
「そう……かもしれない」
「怖いなあ。私……頑張れるかな」
絵川は肩を震わせ、不安げな眼差しでうつむいた。
僕は絵川に近づき、くしゃくしゃになった一枚の絵を見せる。
「僕、この絵が一番好きなんだよね」
それはマッシロの描いた絵を、ウサギやキツネ、小鳥たちが褒めている三枚目の絵。
絵川が僕を見る。
「頑張りが、みんなに認められた瞬間だから?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
「僕は――」
僕はその絵を、絵川に押しつけるように握らせた。
「みんな、楽しそうにしてるのが、なんかいいなって思ったんだよ。マッシロもその周りも」
「みんな……?」
「うん」
僕はまだ塗られていないマッシロの体を仕上げていく。
「絵川さん、さっきから、ずっと楽しそうだった」
「絵、描くの……好きだから」
「けど、僕は君と違って、絵を描くのが全然楽しいとは思えなかった。手が疲れるだけだし」
「じゃあなんで?」
絵川は目を潤ませながら、僕を見る。
「なんで、内海君は……そんなに笑ってるの?」
「そんなの、決まってる」
僕は黒板を抱きかかえるぐらい、目一杯、両手を広げた。
「君が楽しそうに絵を描いてるのを見るのが、楽しかったから」
絵川はチョークを手にしたまま、自分の鼻と口を両手で覆った。
あれほど流した涙が、また溢れ出そうとしていた。
「……お父さんもそう思ってたのかな」
「さあ」
「お母さんはどうだろう」
「知らない」
「ケイキさんも……」
「そんなの、僕に分かるわけがないだろ」
「冷た」
「僕は僕のことしか分からない。だから――」
僕は絵川の瞳を指差す。
「確かめなよ。自分の目で」
「……!」
絵川は汚れた手で、乱暴に目をこする。
顔にチョークの粉がつき、どんどん白くなっていく。
けど、その笑顔はここに来てから見た絵川のどんな笑顔よりも、まぶしい。
「そうだ……そうだよね」
「うん」
「これ、さ。私の絵なの」
彼女の声と姿が、薄まり始める。
「だから、好きな時に描いて、見せたい時に見せる」
絵川は芯の通った声で続ける。
「私、たぶんまた誰かに見てほしいって思う。褒めてほしいし、たくさんの人に届いてほしいって……思っちゃう」
「そうだね」
「それで、傷ついて……怖くなって、描けなくなるかもしれない」
「そう」
「でも、描き続けるかどうかは、私が決める。全部、私の絵なんだから」
僕は何も言わずに、ただ絵川を見つめ続けた。
絵川は小さく笑う。
「……けどさ。私、そんな強くないから、きっとまた死にたくなること、あると思うんだ」
「あるよ。そんなこと、僕にだって」
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、その時はどうするの?」
僕は少しだけ考える。
「……分からない」
「役立たず」
「でも、また話してよ」
「君に?」
「僕には、君のことよく分からないけど」
「ダメじゃん」
「壁よりはマシだと思うよ」
絵川がきょとんとした表情を浮かべた。
「……壁の方が、静かでいいかも」
「なんだよ、それ」
「ほら、すぐ反論する」
僕と絵川は顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
月明かりに、彼女の姿が溶けていく。
「内海、新汰君」
「なに?」
彼女は言葉を交わす代わりに、絵を描き始める。
下手くそな踊りを踊るマッシロのすぐ脇のスペース。
普段使うことの少ない紫のチョークで描かれたのは、無数の小さな花びらを持つ花。
「それ、なんの花?」
「ラベンダー。とてもいい香りがするの」
――私、花には詳しいの。
屋上で聞いた、絵川の言葉が蘇る。
「どういう意味――」
そう尋ねた瞬間、絵川の姿が消え、チョークが教壇の上に落ち、割れた。
僕はその場に膝をつき、チョークの欠片を丁寧に拾う。
たとえ、元の姿に戻すことはできないとしても。
これで、この世界に残っているのは僕一人だけだ。
なのに、『一人』という言葉が、胸の奥に引っかかる。
何がおかしいのかは――分からない。
絵川が顔を上げる。
僕はそれに気づいたが、何も言わずにチョークを黒板の上で走らせる。
「なに……してるの?」
しばらくして、絵川がぽつりとつぶやいた。
「絵、僕も描いてみようと思って」
「もしかして……それ、マッシロ?」
「うん。初めてにしては、うまく描けてると思うんだけど」
「初めてにしても……ひどすぎ。溶けかけの雪だるまにしか見えない」
「じゃあ、教えてよ」
「センスない人には、教えても無駄」
「それには同意。けど、教えてほしいのは絵の描き方じゃない」
「……え?」
僕は腰をかがめ、絵川と同じ高さで顔を合わせる。
「絵を描くのが、楽しいってことの方」
「……っ」
絵川は言葉を失ったように、唇を震わせた。
彼女の瞳に、教壇にしゃがみ込む僕の姿が映っていた。
「……楽しいだけのわけ、ないじゃない」
絵川は顔をそらした。
「じゃあ、それ以外も教えて」
「……死にたいような、辛さも?」
「それは、ほどほどで」
僕がそう言うと、隣から黒板消しが伸びてくる。
「――マッシロの顔の形は、お餅みたいな楕円形。耳の角度は六十度が目安」
「分かった」
僕は絵川のアドバイスに従って、マッシロの顔を描き直す。
「それ、ネコ……?」
「よかった。とりあえず、雪だるまから動物に進化したみたいで」
僕が自慢げに胸を張ると、絵川がほんのかすかに笑みを浮かべた。
「手本、見せてくれないの?」
「嫌」
「五十嵐さんは、ダンスを見せてくれたのに」
「彼女、いい人だから」
「僕は絵川さんもいい人だと思うよ」
「おだてたってダメ。私、もう誰かに見せる絵なんて描かない」
「どうして?」
絵川はうつむく。
「怖いの……私が描いた絵、誰かに見られるのが」
「それ、嘘だよね?」
絵川の目がナイフのように鋭くなる。
「なに……言ってるの? 私の話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたよ。ずっと、すごく真剣に」
「だったら――」
絵川の言葉を僕はさえぎるように尋ねる。
「じゃあ聞くけど、どうして僕たちの前で絵を描いてたの?」
「それは……」
「本当に見せたくないなら、そんなこと、しないんじゃないかな?」
絵川は、またカーディガンの袖を握る。
「……何描いてるか、君たちからは隠してたし」
「あれで隠してるつもりだったとは笑える。子供だましじゃあるまいし」
「……うるさい」
「のぞき込んだら、普通に見えてたと思うんだけどな。僕たちが、そうしなかっただけで」
「うるさい、うるさい、うるさーいっ!」
絵川は肩を上下にさせながら、叫んだ。
僕はそれに負けないようにニッと笑う。
「この世界には、もう僕と君しかいない。何を怖がってるんだ?」
「……私は」
絵川の身体が小刻みに震える。
僕は一定の距離を保ったまま、ただ静かに彼女の答えを待った。
絵川が、キッと唇を噛みしめる。
「ビビってなんか……ない!」
カーディガンの袖をまくり、白いチョークを手に取った。
大きな黒板の上を、絵川の右手が滑らかに走る。
黒板の真ん中に、マッシロが浮かび上がった。
マッシロの手には鉛筆とノートが握られ、何かを描いていた。
「へえ、さすがだね。本物そっくり」
「そのセリフ、作者に言う?」
「変かな?」
「君なら、歌手が自分の歌を唄った時でも言いそう」
僕が肩をすくめると、絵川がマッシロの顔をチョークでトントンと叩く。
「何ぼーっとしてんの」
「えっと……どういうこと?」
「馬鹿ね。これじゃあ、マッシロじゃなくてマックロ。塗り絵ぐらいできるでしょ?」
「それなら、何とか」
僕は白いチョークを握り直し、マッシロの内側を白く塗りつぶしていく。
「そうそう、その調子。今度はこっちね」
「アシスタント代、出る?」
「出るわけねえだろ」
絵川が笑いながら、教壇の上を踊るように移動する。
――そうそう、その調子。
僕も彼女につられて笑顔になる。
彼女の左足のつま先が、ほんのわずかだが、透き通っていた。
「手、結構、疲れてきた」
「この程度でギブ? 虚弱体質」
「普段はどれくらいの時間、絵を描いてるの」
「休みの日だったら、ぶっ続けで十二時間とか普通」
「うわ、右手、壊れそう」
起きている時間、ほとんど絵を描いていることになる。
「そんぐらいで、壊れないよ」
「ほんとに?」
「うん。飛び降りたりしない限りは」
「そっか……」
僕はマッシロの耳を塗りながら、自分の休みの日の過ごし方を思い出す。
「僕は休みの日、クラフトゲームで、街を作ってるんだけど」
「へえ、意外。そういうの興味ない人だと思ってた」
「間違ってないよ。ただの暇つぶし」
「ふうん」
彼女は黒板から目をそらさずに言った。
「最近、どういうの作ったの?」
「四乃山城」
「何それ、近場じゃん」
「ここから直線距離で、一・五キロ」
「すぐ行ける場所を作ってどうすんのよ。普通、世界遺産とかじゃないの?」
心臓の鼓動が、一瞬高鳴った。
僕はなるべく平坦な調子で答える。
「……そういうのは、実際行く方がいいだろ」
「まったく、子供なんだか大人なんだか」
「悪いけど、僕は、あと八十九日後に大人になる」
「法律の話、してないって」
絵川は黒板の右側に、新しい絵を描き始める。
それは、バスケをする二匹のマッシロ。
どちらの動きも、なんだかおぼつかなく見える。
「ねえ。本気で打ち込むことがないって、どんな気分?」
「えっ」
「なんでそんなに驚いてんの?」
「いや、本当に遠慮ない人だなって」
「それ、君に一番言われたくない」
絵川はここぞとばかり反撃しようと、意地悪そうな笑みを浮かべた。
彼女は黒板の前でしゃがみ、別の絵を描く。
それは、満面の笑みでキレキレのダンスを踊るマッシロ。
そのすぐ後ろには、無表情でこの街の伝統的な踊りを披露するマッシロがいた。
「別に……説明するほど大した気分じゃない。たまに、死にたいと思うぐらい」
「その程度で、この世界に堕ちるなんてね。私に比べたら、理由が軽い」
「……うるさい」
絵川のトゲのある言い方に、僕は思わずイラついた。
けど、絵川の言うことは間違っていない。
僕の悩みなんて、絵川にとっては砂粒みたいなものだろう。
――それでも、僕にとっては。
僕の手が止まる。
目の前には中途半端に塗られた無表情のマッシロ。
その瞬間、絵川がニッと笑う。
「でもさ。内海にとっては、重いんでしょ? 知らんけど」
「……っ」
すぐに答えることができない。
僕は彼女から顔をそらし、黒板に描かれたマッシロを見つめながら言う。
「……関西弁、似合ってないよ」
「一度、使ってみたかったんだ」
絵川がいたずらっぽい声で言った。
「ねえ、私の絵、見せたんだから、君のも見せてよ」
「僕のは、今見せてるけど」
「違うよ。さっき話してた、君の作った街」
「……見せない」
「卑怯者。私には見せろって言ったくせに」
「そうじゃない」
つい力を入れすぎて、僕はチョークを折ってしまう。
僕は慌てて破片を拾い、短い方を黒板の溝に置いた。
「今……ネット、つながってないから。見せたくても見せられないってこと」
「ふうん。じゃあ、今度、見せてよ」
「今度って?」
「とりあえず、死ぬまでの間に」
「……うん」
黒板が、絵川の絵でどんどん埋め尽くされていく。
最後に描かれたのは、教室で言い争う二匹のマッシロ。
喧嘩をしているはずなのに、二匹の表情はどこか楽しげだった。
黒板いっぱいに広がっているのは――六枚目の絵だ。
最初は、たった一人で幻死の世界にやってきた絵川。
そこで、痛みも苦しみもなく、ただ穏やかに過ごして来た。
けど、そこに僕と柊木と五十嵐がやってきて、絵川の平穏を乱した。
体育館でバスケとも呼べないひどい勝負をし、中庭で最低と最高のダンスを踊り合い、誰もいない夜の教室で口喧嘩をした。
「あーあ。もう描くスペース、なくなっちゃいそう」
「うん、あと少しで終わる」
僕は短くなったチョークを交換しようと、別のチョークを手に取った。
その時、絵川の左足が目に入る。
先ほどから、透明な部分は足先からまったく広がっていない。
絵川は足元を見ることなく、黒板だけを見つめながら言う。
「ねえ、もし……もしもだよ。私が現実に帰れたら、どうなっちゃうんだろう」
「どうって?」
「まずは、怪我の治療でしょ。で、話せるようになったら、両親にはなんて言い訳しようかな……」
「足が滑ったとか?」
「いいアイデアね」
絵川がクスッと笑った。
「でもあいにく、私、体操選手じゃない。あんな高いフェンス越えられないよ」
「……正直に、話せばいいんじゃないかな」
「そう、だよね……」
絵川は、チョークを持った手をだらんと下ろす。
紺色のカーディガンの袖がずれ落ちてくる。
指には力が入っておらず、今にもチョークを落としてしまいそうだった。
「右手も……もう動かないかもしれない」
「左手があるじゃないか」
「簡単に言ってくれちゃって」
絵川は小さく笑い、おでこを黒板につける。
「多分、私が自殺したって噂、もうSNSとかで広まってると思うんだよね」
「そうかもしれない」
「別に、同情してほしいわけじゃないけどさ。それでも叩いてくる人、絶対いる」
「そう……かもしれない」
「怖いなあ。私……頑張れるかな」
絵川は肩を震わせ、不安げな眼差しでうつむいた。
僕は絵川に近づき、くしゃくしゃになった一枚の絵を見せる。
「僕、この絵が一番好きなんだよね」
それはマッシロの描いた絵を、ウサギやキツネ、小鳥たちが褒めている三枚目の絵。
絵川が僕を見る。
「頑張りが、みんなに認められた瞬間だから?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
「僕は――」
僕はその絵を、絵川に押しつけるように握らせた。
「みんな、楽しそうにしてるのが、なんかいいなって思ったんだよ。マッシロもその周りも」
「みんな……?」
「うん」
僕はまだ塗られていないマッシロの体を仕上げていく。
「絵川さん、さっきから、ずっと楽しそうだった」
「絵、描くの……好きだから」
「けど、僕は君と違って、絵を描くのが全然楽しいとは思えなかった。手が疲れるだけだし」
「じゃあなんで?」
絵川は目を潤ませながら、僕を見る。
「なんで、内海君は……そんなに笑ってるの?」
「そんなの、決まってる」
僕は黒板を抱きかかえるぐらい、目一杯、両手を広げた。
「君が楽しそうに絵を描いてるのを見るのが、楽しかったから」
絵川はチョークを手にしたまま、自分の鼻と口を両手で覆った。
あれほど流した涙が、また溢れ出そうとしていた。
「……お父さんもそう思ってたのかな」
「さあ」
「お母さんはどうだろう」
「知らない」
「ケイキさんも……」
「そんなの、僕に分かるわけがないだろ」
「冷た」
「僕は僕のことしか分からない。だから――」
僕は絵川の瞳を指差す。
「確かめなよ。自分の目で」
「……!」
絵川は汚れた手で、乱暴に目をこする。
顔にチョークの粉がつき、どんどん白くなっていく。
けど、その笑顔はここに来てから見た絵川のどんな笑顔よりも、まぶしい。
「そうだ……そうだよね」
「うん」
「これ、さ。私の絵なの」
彼女の声と姿が、薄まり始める。
「だから、好きな時に描いて、見せたい時に見せる」
絵川は芯の通った声で続ける。
「私、たぶんまた誰かに見てほしいって思う。褒めてほしいし、たくさんの人に届いてほしいって……思っちゃう」
「そうだね」
「それで、傷ついて……怖くなって、描けなくなるかもしれない」
「そう」
「でも、描き続けるかどうかは、私が決める。全部、私の絵なんだから」
僕は何も言わずに、ただ絵川を見つめ続けた。
絵川は小さく笑う。
「……けどさ。私、そんな強くないから、きっとまた死にたくなること、あると思うんだ」
「あるよ。そんなこと、僕にだって」
「ほんとに?」
「ああ」
「じゃあ、その時はどうするの?」
僕は少しだけ考える。
「……分からない」
「役立たず」
「でも、また話してよ」
「君に?」
「僕には、君のことよく分からないけど」
「ダメじゃん」
「壁よりはマシだと思うよ」
絵川がきょとんとした表情を浮かべた。
「……壁の方が、静かでいいかも」
「なんだよ、それ」
「ほら、すぐ反論する」
僕と絵川は顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
月明かりに、彼女の姿が溶けていく。
「内海、新汰君」
「なに?」
彼女は言葉を交わす代わりに、絵を描き始める。
下手くそな踊りを踊るマッシロのすぐ脇のスペース。
普段使うことの少ない紫のチョークで描かれたのは、無数の小さな花びらを持つ花。
「それ、なんの花?」
「ラベンダー。とてもいい香りがするの」
――私、花には詳しいの。
屋上で聞いた、絵川の言葉が蘇る。
「どういう意味――」
そう尋ねた瞬間、絵川の姿が消え、チョークが教壇の上に落ち、割れた。
僕はその場に膝をつき、チョークの欠片を丁寧に拾う。
たとえ、元の姿に戻すことはできないとしても。
これで、この世界に残っているのは僕一人だけだ。
なのに、『一人』という言葉が、胸の奥に引っかかる。
何がおかしいのかは――分からない。

