僕はピタリと閉じられた三年一組の教室のドアを、ゆっくりと開けた。
月明かりと廊下の灯りが教室の中を照らすが、所々は深い闇に覆われたままだ。
「……なに? 一人にしてって言ったはずだけど」
絵川由夢は、教壇の奥で小さく丸まっていた。
「どれだけ一人にしてほしいか、聞いてなかったから。もうそろそろ、いいかなと思って」
「さっきから、一時間も経ってない」
「そう? 僕はもう一日以上、経った気分だ」
僕は教室の電気のスイッチに手を伸ばしたが、途中で止めた。
教壇の反対側に僕は座る。
「あの後、僕なりに考えてみたんだ」
絵川からの返事はない。
けど、声は間違いなく届いている。
僕たちは同じ世界の片隅に、座っているのだから。
「悪いけど、やっぱり分からなかった。ネットの悪意がどれくらい痛いのかも、世界に殺されたって感覚も。僕なら電源を切って終わりにしちゃうから」
「幸せな人」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「それで、わざわざ馬鹿にしに来たわけ?」
「違う」
絵川はこちらを見ていないが、僕は首を強く横に振った。
僕は絵川の描いた絵を広げる。
何度も折りたたんでしまったせいで、もうくしゃくしゃになっている。
「この絵、僕は結構好きだよ」
絵川の丸まった背中が一瞬だけ動く。
「……あなた一人に褒められたって、何の意味もない」
「世界には、何十億人もいるから?」
「そうよ」
「絵川さんって、平等なんだ」
「当たり前じゃない。クラスメイトだからって、ひいきするわけない」
僕は真っ暗な教室の天井を見上げながら、ぽつりとつぶやく。
「六枚目はないの?」
「……飛び降りるシーンでも描けって? 悪趣味にもほどがある」
その声は、かすかに震えていた。
「――学校にさ。幽霊も妖怪もいなかったんだね」
「は?」
絵川は顔を上げた。
暗くてよく見えないけど、頬には涙の痕のようなものが見える。
「一体、何の話?」
「絵川さんの話だよ」
「訳が……分からない」
絵川が僕の方を見る。
教室に入ってから、初めてのことだった。
「ほら、あるじゃん、学校の七不思議」
「七不思議……?」
「うちの学校で一番有名なヤツは――『化学室の秋子さん』」
僕はわざと声を震わせながら、話す。
「むかーし、昔、化学準備室で悲しい事故があった。秋子さんは勉強熱心な女の子で、化学の先生の手伝いをよくしてたんだ。その最中、誤って硫酸を頭から被り、ひどいやけどで死んでしまったんだ。それから放課後、一人で準備室で掃除をしていると……『お前がやったのか!』と秋子さんに襲われるって話」
「そんな詳しく説明しなくても、知ってる」
「そっか」
僕は少しだけ言葉を止める。
「で、ここに来る途中さ。寄ってみた。化学準備室に」
「……それで?」
「いなかったよ。秋子さんなんてね」
「馬鹿みたい」
絵川が平坦な口調で答えた。
「秋子さんだけじゃない。この学校には、どこにもそんな不思議な存在は見当たらなかった」
「それが?」
僕はそれには答えず、少し間を開けてから話を続ける。
「この学校、創立して何年か知ってる?」
「……たしか、百年ちょっと」
「正確に言うと、来年で百四十九年」
「怪談以外にも詳しいんだ」
「小学生の時、自由研究で調べた時から、何となく数えてるんだ。毎年」
僕は苦笑する。
「その間にさ。不幸にも亡くなった生徒は一人もいなかったのかな? いや、学校ができる前でもいい。この土地で死んだ人はいたはずだ」
「何が……言いたいの?」
「なのに、絵川さんしか、死んでる人と会ってない」
絵川の身体は静止し、何も答えない。
「柊木君も五十嵐さんも生きて、この世界にやってきた。現実の世界では、死んだことになっていたり、行方不明になっていたりするだけで」
「……止めて」
絵川の顔が大きくゆがむ。
「君は最初から、本当のことを言ってたんだね。ここは『死ぬことも生きることも選べない人間』だけが堕ちる世界。だから、死者は存在しない」
「止めてって言ってるじゃない!」
真っ暗な教室に、絵川の絶叫と荒い息遣いだけが響き渡る。
「絵川さん、君はまだ――生きている」
僕は静かに、告げた。
月明かりと廊下の灯りが教室の中を照らすが、所々は深い闇に覆われたままだ。
「……なに? 一人にしてって言ったはずだけど」
絵川由夢は、教壇の奥で小さく丸まっていた。
「どれだけ一人にしてほしいか、聞いてなかったから。もうそろそろ、いいかなと思って」
「さっきから、一時間も経ってない」
「そう? 僕はもう一日以上、経った気分だ」
僕は教室の電気のスイッチに手を伸ばしたが、途中で止めた。
教壇の反対側に僕は座る。
「あの後、僕なりに考えてみたんだ」
絵川からの返事はない。
けど、声は間違いなく届いている。
僕たちは同じ世界の片隅に、座っているのだから。
「悪いけど、やっぱり分からなかった。ネットの悪意がどれくらい痛いのかも、世界に殺されたって感覚も。僕なら電源を切って終わりにしちゃうから」
「幸せな人」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「それで、わざわざ馬鹿にしに来たわけ?」
「違う」
絵川はこちらを見ていないが、僕は首を強く横に振った。
僕は絵川の描いた絵を広げる。
何度も折りたたんでしまったせいで、もうくしゃくしゃになっている。
「この絵、僕は結構好きだよ」
絵川の丸まった背中が一瞬だけ動く。
「……あなた一人に褒められたって、何の意味もない」
「世界には、何十億人もいるから?」
「そうよ」
「絵川さんって、平等なんだ」
「当たり前じゃない。クラスメイトだからって、ひいきするわけない」
僕は真っ暗な教室の天井を見上げながら、ぽつりとつぶやく。
「六枚目はないの?」
「……飛び降りるシーンでも描けって? 悪趣味にもほどがある」
その声は、かすかに震えていた。
「――学校にさ。幽霊も妖怪もいなかったんだね」
「は?」
絵川は顔を上げた。
暗くてよく見えないけど、頬には涙の痕のようなものが見える。
「一体、何の話?」
「絵川さんの話だよ」
「訳が……分からない」
絵川が僕の方を見る。
教室に入ってから、初めてのことだった。
「ほら、あるじゃん、学校の七不思議」
「七不思議……?」
「うちの学校で一番有名なヤツは――『化学室の秋子さん』」
僕はわざと声を震わせながら、話す。
「むかーし、昔、化学準備室で悲しい事故があった。秋子さんは勉強熱心な女の子で、化学の先生の手伝いをよくしてたんだ。その最中、誤って硫酸を頭から被り、ひどいやけどで死んでしまったんだ。それから放課後、一人で準備室で掃除をしていると……『お前がやったのか!』と秋子さんに襲われるって話」
「そんな詳しく説明しなくても、知ってる」
「そっか」
僕は少しだけ言葉を止める。
「で、ここに来る途中さ。寄ってみた。化学準備室に」
「……それで?」
「いなかったよ。秋子さんなんてね」
「馬鹿みたい」
絵川が平坦な口調で答えた。
「秋子さんだけじゃない。この学校には、どこにもそんな不思議な存在は見当たらなかった」
「それが?」
僕はそれには答えず、少し間を開けてから話を続ける。
「この学校、創立して何年か知ってる?」
「……たしか、百年ちょっと」
「正確に言うと、来年で百四十九年」
「怪談以外にも詳しいんだ」
「小学生の時、自由研究で調べた時から、何となく数えてるんだ。毎年」
僕は苦笑する。
「その間にさ。不幸にも亡くなった生徒は一人もいなかったのかな? いや、学校ができる前でもいい。この土地で死んだ人はいたはずだ」
「何が……言いたいの?」
「なのに、絵川さんしか、死んでる人と会ってない」
絵川の身体は静止し、何も答えない。
「柊木君も五十嵐さんも生きて、この世界にやってきた。現実の世界では、死んだことになっていたり、行方不明になっていたりするだけで」
「……止めて」
絵川の顔が大きくゆがむ。
「君は最初から、本当のことを言ってたんだね。ここは『死ぬことも生きることも選べない人間』だけが堕ちる世界。だから、死者は存在しない」
「止めてって言ってるじゃない!」
真っ暗な教室に、絵川の絶叫と荒い息遣いだけが響き渡る。
「絵川さん、君はまだ――生きている」
僕は静かに、告げた。

