17歳、僕たちの第一死望

「絵川さん、知り合い?」
「うん……近くに住んでる人」

 絵川がかすれたような声で言った。

「あの花、何だかいい香りがする」
「カモミール。ハーブティーとかに使われるヤツ」
「へえ、よく知ってるね」
「私、花には詳しいの。イラストのモチーフに使うこと、多いから」

 ケイキはフェンスの前に、持ってきた白い花束を丁寧に置いた。
 そのまま手を合わせ、ゆっくりと目を閉じる。

「この人、プロのイラストレーターなの」
「絵川さんと、同じ」
「同じじゃない。実績が、全然違う」
「そういうもんなんだ」
「そういう世界だから」
「絵川さんの方が上? それとも下?」

 絵川が僕をにらみつけるように見た。

「決まってるでしょ。私が下。いくら君でも、ケイキさんの絵、見たことあるはずよ」

 絵川がケイキの携わった作品について、口にする。
 四期まで続いている深夜アニメ、テレビの横に積んだままの有名なゲームシリーズ。
 記憶に浮かぶのは、宝石のような明るい青色が特徴的に使われているイラストだ。

 ケイキは大きく息を吐いた後、立ち上がる。
 フェンスに手を置き、地面を見下ろした。

『由夢ちゃん……ごめん。何も……できなくて』

 彼の声は、遠くの部屋から漏れ聞こえてくるようにくぐもっていた。
 だけど、静まり返った屋上では、意識を集中させれば聞き取ることができた。

『いや……「何もしなくて」の方が正確か』

 そう言って、ケイキはポケットから小さな革製のケースを取り出した。
 彼はその中に入っていた、太いボールペンみたいなものを手に取る。
 絵川が低い声で言う。

「……学校は禁煙だよ。電子タバコでも」

 ケイキは絵川の言葉を無視し、それを口にくわえる。
 だが首を横に軽く振ると、すぐケースに戻した。

『由夢ちゃん、よく言ってたっけ。タバコはやめた方がいいって』 
「ほんと、いつもずれてるんだから」

 絵川があきれたように笑う。
 ケイキは絵川のすぐ隣で、フェンスにもたれかかった。

『くそっ……あの時、俺が否定してやれば……』
「……今さら、止めてよ」

 言葉は届いていないのに、絵川はケイキと会話しているかのように言った。

『由夢ちゃんが、パクリにAI生成? そんなのするわけない。俺が一番よく知ってる』

 ケイキはそう言って、両手で自分の顔を覆った。
 その横で、絵川は何も言わずにうつむく。
 空気が重い。
 暗い空が質量を持ち、僕にのしかかってきているように感じた。

 ――ほんとは、何があったんだろう。

 僕が知っているのは、クラスの中で広まった噂話だけ。
 僕は頭の中で何度か練習した後、絵川に聞く。

「絵川さんって……どうして死んだの?」
「は?」

 絵川が驚くような速さで僕の方を向く。
 その目は、満月のように丸くなっていた。

「ごめん。一応、遠慮するような声で言ったつもりなんだけど」
「いや、遠慮するのは声色でなくて、話す内容でしょ」

 絵川が、屋上に吹く風より大きなため息をついた。

「ごめん……なんか、気になって」
「死んでも、私の絵に興味がなかった人が?」
「今は違う。絵にも絵川さんにも、少し興味があるよ」
「……君さ。ほんと、話す内容には、気をつけて」

 絵川は顔全体を隠すように、眉間を指で押さえた。

「噂ぐらい、知ってるんでしょ?」
「知ってるよ。でも噂話が、真実とは限らない」

 絵川は、のどに何かがつっかえたような表情を浮かべた。
 ケイキはフェンスにもたれたまま、ずるずると腰を落としていく。

『由夢ちゃんの「マッシロ」……また見たかったな』

 そう言って、ケイキは完全に屋上に座り込んだ。

「『マッシロ』って、このシロクマのこと?」
「そう。私が描いた……ううん、生んだキャラ」

 僕が手に持っていた絵を、絵川が見つめる。
 これまで見た中で、一番優しい笑みを浮かべていた。

「……ケイキさん、父の知り合いでさ。小さい頃から、よく絵のアドバイス、してもらってたんだよね」
「へえ」
「私、ずっと家族や友達に見せるだけで満足してたんだけどさ。ある日、ケイキさんに言われたの」

 絵川がうずくまるケイキを見下ろしながら、話を続ける。

「『SNSで投稿してみたら』って」
「そう……なんだ」
「最初は全然フォロワーも増えなくて。やっぱこんなもんだよね、そう思ってた。けど、この人が――」

 絵川は親指でケイキを差す。

「拡散したんだよ。私の『マッシロ』の絵」
「それって……」
「で、案の定バズったの。当然だよね。この人、有名だし」

 絵川は両腕を組み、ケイキから視線をそらした。

「そっからかな。『JK絵師』なんて肩書きついちゃってさ。色んな仕事、するようになった。マッシロのグッズ出したり、動物園のイメージキャラクターを描いたり」
「すごい」
「そうだね。私もそう思う」

 絵川はまるで他人事のように笑った。

「きっと将来、ケイキさんみたいなイラストレーターになれると思ってた」

 絵川は誰とも目を合わせず、屋上の床を見つめていた。
 そこには、ただ風と雨にさらされてできた汚れがあるだけだった。

「けど、それは勘違いだった」

 絵川は紺色のカーディガンの袖を握り、身体が小さく震わせた。

「今年の春休みだったかな。私がマッシロの新作絵を投稿したんだけど、そこに《元ネタ発見》って返信が来たの」
「元ネタ……?」
「添付されてたのは、他のイラストレーターさんが描いたシロクマの絵。ちょっと目の描き方が似てたけど、正直全然別モノ。『この人、何言ってんだろ』って笑い飛ばしてたの」

 そう言う絵川の顔は、何一つ笑っていなかった。

「でも、それで終わらなかった。私が過去に描いた絵、全部に《元ネタ発見》って返信つけてきてさ。それが、もう大バズリ」
「それで、パクったの?」
「それ、聞く?」
「一応」
「私、そんなことしない」

 僕は小さく笑った。

「……だと思った」
「嘘つけ」

 絵川が少しだけ笑みを取り戻した。
 ケイキが空に向かって、ふうっと息を吐く。

『最初は……すぐ収まると思ってたんだよ』
「甘いね。子供みたい」
『助けよう、何度もそう思った。けど、俺は君の身内同然だから、誰も聞いちゃくれない。悪化させるだけだって』
「それ……ほんと?」
『……違うな。何、今さら嘘ついてんだよ、俺』

 ケイキがフェンスに手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。

『由夢ちゃん……俺、怖かったんだ』
「怖い?」
『騒動になってしばらくしてから、メッセージが届いたんだよ。《パクリを教えたのはお前?》って』

 ケイキが自分を抱きしめるように自分の両肩に手を置いた。

『ここでかばって、巻き込まれちまったら、全部崩れる。仕事が来なくなって、違約金を払わなきゃいけなくなって……そんな悪い想像しか頭に浮かんでこなかった。君が死ぬことなんて、一つも想像できなかった』
「そういうとこは、大人なんだね」

 絵川がフェンスから離れ、屋上の真ん中まで歩いていく。

「そっから、身バレもして、家にも凸(とつ)ってくるヤツもいてさ。私も私の周りも、みんなおかしくなってった」

 絵川はその場でスカートをひるがえしながら、僕の方を振り向いた。

「ねえ、内海君」
「なに?」
「さっき、世界について、なんか言ってたよね?」
「言った。『見えない相手と、話なんかできない』って」
「そう、それそれ」

 絵川はかすかな笑みを浮かべた。

「見えない相手? 君は何にも分かってない。その先にいるのは、ロボットでもAIでも幽霊でもない。普通の生身の人間なんだよ。だから、ちゃんと私を傷つけられる」

 絵川が口元をひきつらせるように笑う。

「私は世界に殺されたの。答えが聞けて、満足?」

 僕はうまくうなずくことができず、空と山の境界に視線を向けた。
 どこを見渡しても、赤い色は残っていなかった。