「絵川さん、知り合い?」
「うん……近くに住んでる人」
絵川がかすれたような声で言った。
「あの花、何だかいい香りがする」
「カモミール。ハーブティーとかに使われるヤツ」
「へえ、よく知ってるね」
「私、花には詳しいの。イラストのモチーフに使うこと、多いから」
ケイキはフェンスの前に、持ってきた白い花束を丁寧に置いた。
そのまま手を合わせ、ゆっくりと目を閉じる。
「この人、プロのイラストレーターなの」
「絵川さんと、同じ」
「同じじゃない。実績が、全然違う」
「そういうもんなんだ」
「そういう世界だから」
「絵川さんの方が上? それとも下?」
絵川が僕をにらみつけるように見た。
「決まってるでしょ。私が下。いくら君でも、ケイキさんの絵、見たことあるはずよ」
絵川がケイキの携わった作品について、口にする。
四期まで続いている深夜アニメ、テレビの横に積んだままの有名なゲームシリーズ。
記憶に浮かぶのは、宝石のような明るい青色が特徴的に使われているイラストだ。
ケイキは大きく息を吐いた後、立ち上がる。
フェンスに手を置き、地面を見下ろした。
『由夢ちゃん……ごめん。何も……できなくて』
彼の声は、遠くの部屋から漏れ聞こえてくるようにくぐもっていた。
だけど、静まり返った屋上では、意識を集中させれば聞き取ることができた。
『いや……「何もしなくて」の方が正確か』
そう言って、ケイキはポケットから小さな革製のケースを取り出した。
彼はその中に入っていた、太いボールペンみたいなものを手に取る。
絵川が低い声で言う。
「……学校は禁煙だよ。電子タバコでも」
ケイキは絵川の言葉を無視し、それを口にくわえる。
だが首を横に軽く振ると、すぐケースに戻した。
『由夢ちゃん、よく言ってたっけ。タバコはやめた方がいいって』
「ほんと、いつもずれてるんだから」
絵川があきれたように笑う。
ケイキは絵川のすぐ隣で、フェンスにもたれかかった。
『くそっ……あの時、俺が否定してやれば……』
「……今さら、止めてよ」
言葉は届いていないのに、絵川はケイキと会話しているかのように言った。
『由夢ちゃんが、パクリにAI生成? そんなのするわけない。俺が一番よく知ってる』
ケイキはそう言って、両手で自分の顔を覆った。
その横で、絵川は何も言わずにうつむく。
空気が重い。
暗い空が質量を持ち、僕にのしかかってきているように感じた。
――ほんとは、何があったんだろう。
僕が知っているのは、クラスの中で広まった噂話だけ。
僕は頭の中で何度か練習した後、絵川に聞く。
「絵川さんって……どうして死んだの?」
「は?」
絵川が驚くような速さで僕の方を向く。
その目は、満月のように丸くなっていた。
「ごめん。一応、遠慮するような声で言ったつもりなんだけど」
「いや、遠慮するのは声色でなくて、話す内容でしょ」
絵川が、屋上に吹く風より大きなため息をついた。
「ごめん……なんか、気になって」
「死んでも、私の絵に興味がなかった人が?」
「今は違う。絵にも絵川さんにも、少し興味があるよ」
「……君さ。ほんと、話す内容には、気をつけて」
絵川は顔全体を隠すように、眉間を指で押さえた。
「噂ぐらい、知ってるんでしょ?」
「知ってるよ。でも噂話が、真実とは限らない」
絵川は、のどに何かがつっかえたような表情を浮かべた。
ケイキはフェンスにもたれたまま、ずるずると腰を落としていく。
『由夢ちゃんの「マッシロ」……また見たかったな』
そう言って、ケイキは完全に屋上に座り込んだ。
「『マッシロ』って、このシロクマのこと?」
「そう。私が描いた……ううん、生んだキャラ」
僕が手に持っていた絵を、絵川が見つめる。
これまで見た中で、一番優しい笑みを浮かべていた。
「……ケイキさん、父の知り合いでさ。小さい頃から、よく絵のアドバイス、してもらってたんだよね」
「へえ」
「私、ずっと家族や友達に見せるだけで満足してたんだけどさ。ある日、ケイキさんに言われたの」
絵川がうずくまるケイキを見下ろしながら、話を続ける。
「『SNSで投稿してみたら』って」
「そう……なんだ」
「最初は全然フォロワーも増えなくて。やっぱこんなもんだよね、そう思ってた。けど、この人が――」
絵川は親指でケイキを差す。
「拡散したんだよ。私の『マッシロ』の絵」
「それって……」
「で、案の定バズったの。当然だよね。この人、有名だし」
絵川は両腕を組み、ケイキから視線をそらした。
「そっからかな。『JK絵師』なんて肩書きついちゃってさ。色んな仕事、するようになった。マッシロのグッズ出したり、動物園のイメージキャラクターを描いたり」
「すごい」
「そうだね。私もそう思う」
絵川はまるで他人事のように笑った。
「きっと将来、ケイキさんみたいなイラストレーターになれると思ってた」
絵川は誰とも目を合わせず、屋上の床を見つめていた。
そこには、ただ風と雨にさらされてできた汚れがあるだけだった。
「けど、それは勘違いだった」
絵川は紺色のカーディガンの袖を握り、身体が小さく震わせた。
「今年の春休みだったかな。私がマッシロの新作絵を投稿したんだけど、そこに《元ネタ発見》って返信が来たの」
「元ネタ……?」
「添付されてたのは、他のイラストレーターさんが描いたシロクマの絵。ちょっと目の描き方が似てたけど、正直全然別モノ。『この人、何言ってんだろ』って笑い飛ばしてたの」
そう言う絵川の顔は、何一つ笑っていなかった。
「でも、それで終わらなかった。私が過去に描いた絵、全部に《元ネタ発見》って返信つけてきてさ。それが、もう大バズリ」
「それで、パクったの?」
「それ、聞く?」
「一応」
「私、そんなことしない」
僕は小さく笑った。
「……だと思った」
「嘘つけ」
絵川が少しだけ笑みを取り戻した。
ケイキが空に向かって、ふうっと息を吐く。
『最初は……すぐ収まると思ってたんだよ』
「甘いね。子供みたい」
『助けよう、何度もそう思った。けど、俺は君の身内同然だから、誰も聞いちゃくれない。悪化させるだけだって』
「それ……ほんと?」
『……違うな。何、今さら嘘ついてんだよ、俺』
ケイキがフェンスに手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
『由夢ちゃん……俺、怖かったんだ』
「怖い?」
『騒動になってしばらくしてから、メッセージが届いたんだよ。《パクリを教えたのはお前?》って』
ケイキが自分を抱きしめるように自分の両肩に手を置いた。
『ここでかばって、巻き込まれちまったら、全部崩れる。仕事が来なくなって、違約金を払わなきゃいけなくなって……そんな悪い想像しか頭に浮かんでこなかった。君が死ぬことなんて、一つも想像できなかった』
「そういうとこは、大人なんだね」
絵川がフェンスから離れ、屋上の真ん中まで歩いていく。
「そっから、身バレもして、家にも凸ってくるヤツもいてさ。私も私の周りも、みんなおかしくなってった」
絵川はその場でスカートをひるがえしながら、僕の方を振り向いた。
「ねえ、内海君」
「なに?」
「さっき、世界について、なんか言ってたよね?」
「言った。『見えない相手と、話なんかできない』って」
「そう、それそれ」
絵川はかすかな笑みを浮かべた。
「見えない相手? 君は何にも分かってない。その先にいるのは、ロボットでもAIでも幽霊でもない。普通の生身の人間なんだよ。だから、ちゃんと私を傷つけられる」
絵川が口元をひきつらせるように笑う。
「私は世界に殺されたの。答えが聞けて、満足?」
僕はうまくうなずくことができず、空と山の境界に視線を向けた。
どこを見渡しても、赤い色は残っていなかった。
「うん……近くに住んでる人」
絵川がかすれたような声で言った。
「あの花、何だかいい香りがする」
「カモミール。ハーブティーとかに使われるヤツ」
「へえ、よく知ってるね」
「私、花には詳しいの。イラストのモチーフに使うこと、多いから」
ケイキはフェンスの前に、持ってきた白い花束を丁寧に置いた。
そのまま手を合わせ、ゆっくりと目を閉じる。
「この人、プロのイラストレーターなの」
「絵川さんと、同じ」
「同じじゃない。実績が、全然違う」
「そういうもんなんだ」
「そういう世界だから」
「絵川さんの方が上? それとも下?」
絵川が僕をにらみつけるように見た。
「決まってるでしょ。私が下。いくら君でも、ケイキさんの絵、見たことあるはずよ」
絵川がケイキの携わった作品について、口にする。
四期まで続いている深夜アニメ、テレビの横に積んだままの有名なゲームシリーズ。
記憶に浮かぶのは、宝石のような明るい青色が特徴的に使われているイラストだ。
ケイキは大きく息を吐いた後、立ち上がる。
フェンスに手を置き、地面を見下ろした。
『由夢ちゃん……ごめん。何も……できなくて』
彼の声は、遠くの部屋から漏れ聞こえてくるようにくぐもっていた。
だけど、静まり返った屋上では、意識を集中させれば聞き取ることができた。
『いや……「何もしなくて」の方が正確か』
そう言って、ケイキはポケットから小さな革製のケースを取り出した。
彼はその中に入っていた、太いボールペンみたいなものを手に取る。
絵川が低い声で言う。
「……学校は禁煙だよ。電子タバコでも」
ケイキは絵川の言葉を無視し、それを口にくわえる。
だが首を横に軽く振ると、すぐケースに戻した。
『由夢ちゃん、よく言ってたっけ。タバコはやめた方がいいって』
「ほんと、いつもずれてるんだから」
絵川があきれたように笑う。
ケイキは絵川のすぐ隣で、フェンスにもたれかかった。
『くそっ……あの時、俺が否定してやれば……』
「……今さら、止めてよ」
言葉は届いていないのに、絵川はケイキと会話しているかのように言った。
『由夢ちゃんが、パクリにAI生成? そんなのするわけない。俺が一番よく知ってる』
ケイキはそう言って、両手で自分の顔を覆った。
その横で、絵川は何も言わずにうつむく。
空気が重い。
暗い空が質量を持ち、僕にのしかかってきているように感じた。
――ほんとは、何があったんだろう。
僕が知っているのは、クラスの中で広まった噂話だけ。
僕は頭の中で何度か練習した後、絵川に聞く。
「絵川さんって……どうして死んだの?」
「は?」
絵川が驚くような速さで僕の方を向く。
その目は、満月のように丸くなっていた。
「ごめん。一応、遠慮するような声で言ったつもりなんだけど」
「いや、遠慮するのは声色でなくて、話す内容でしょ」
絵川が、屋上に吹く風より大きなため息をついた。
「ごめん……なんか、気になって」
「死んでも、私の絵に興味がなかった人が?」
「今は違う。絵にも絵川さんにも、少し興味があるよ」
「……君さ。ほんと、話す内容には、気をつけて」
絵川は顔全体を隠すように、眉間を指で押さえた。
「噂ぐらい、知ってるんでしょ?」
「知ってるよ。でも噂話が、真実とは限らない」
絵川は、のどに何かがつっかえたような表情を浮かべた。
ケイキはフェンスにもたれたまま、ずるずると腰を落としていく。
『由夢ちゃんの「マッシロ」……また見たかったな』
そう言って、ケイキは完全に屋上に座り込んだ。
「『マッシロ』って、このシロクマのこと?」
「そう。私が描いた……ううん、生んだキャラ」
僕が手に持っていた絵を、絵川が見つめる。
これまで見た中で、一番優しい笑みを浮かべていた。
「……ケイキさん、父の知り合いでさ。小さい頃から、よく絵のアドバイス、してもらってたんだよね」
「へえ」
「私、ずっと家族や友達に見せるだけで満足してたんだけどさ。ある日、ケイキさんに言われたの」
絵川がうずくまるケイキを見下ろしながら、話を続ける。
「『SNSで投稿してみたら』って」
「そう……なんだ」
「最初は全然フォロワーも増えなくて。やっぱこんなもんだよね、そう思ってた。けど、この人が――」
絵川は親指でケイキを差す。
「拡散したんだよ。私の『マッシロ』の絵」
「それって……」
「で、案の定バズったの。当然だよね。この人、有名だし」
絵川は両腕を組み、ケイキから視線をそらした。
「そっからかな。『JK絵師』なんて肩書きついちゃってさ。色んな仕事、するようになった。マッシロのグッズ出したり、動物園のイメージキャラクターを描いたり」
「すごい」
「そうだね。私もそう思う」
絵川はまるで他人事のように笑った。
「きっと将来、ケイキさんみたいなイラストレーターになれると思ってた」
絵川は誰とも目を合わせず、屋上の床を見つめていた。
そこには、ただ風と雨にさらされてできた汚れがあるだけだった。
「けど、それは勘違いだった」
絵川は紺色のカーディガンの袖を握り、身体が小さく震わせた。
「今年の春休みだったかな。私がマッシロの新作絵を投稿したんだけど、そこに《元ネタ発見》って返信が来たの」
「元ネタ……?」
「添付されてたのは、他のイラストレーターさんが描いたシロクマの絵。ちょっと目の描き方が似てたけど、正直全然別モノ。『この人、何言ってんだろ』って笑い飛ばしてたの」
そう言う絵川の顔は、何一つ笑っていなかった。
「でも、それで終わらなかった。私が過去に描いた絵、全部に《元ネタ発見》って返信つけてきてさ。それが、もう大バズリ」
「それで、パクったの?」
「それ、聞く?」
「一応」
「私、そんなことしない」
僕は小さく笑った。
「……だと思った」
「嘘つけ」
絵川が少しだけ笑みを取り戻した。
ケイキが空に向かって、ふうっと息を吐く。
『最初は……すぐ収まると思ってたんだよ』
「甘いね。子供みたい」
『助けよう、何度もそう思った。けど、俺は君の身内同然だから、誰も聞いちゃくれない。悪化させるだけだって』
「それ……ほんと?」
『……違うな。何、今さら嘘ついてんだよ、俺』
ケイキがフェンスに手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。
『由夢ちゃん……俺、怖かったんだ』
「怖い?」
『騒動になってしばらくしてから、メッセージが届いたんだよ。《パクリを教えたのはお前?》って』
ケイキが自分を抱きしめるように自分の両肩に手を置いた。
『ここでかばって、巻き込まれちまったら、全部崩れる。仕事が来なくなって、違約金を払わなきゃいけなくなって……そんな悪い想像しか頭に浮かんでこなかった。君が死ぬことなんて、一つも想像できなかった』
「そういうとこは、大人なんだね」
絵川がフェンスから離れ、屋上の真ん中まで歩いていく。
「そっから、身バレもして、家にも凸ってくるヤツもいてさ。私も私の周りも、みんなおかしくなってった」
絵川はその場でスカートをひるがえしながら、僕の方を振り向いた。
「ねえ、内海君」
「なに?」
「さっき、世界について、なんか言ってたよね?」
「言った。『見えない相手と、話なんかできない』って」
「そう、それそれ」
絵川はかすかな笑みを浮かべた。
「見えない相手? 君は何にも分かってない。その先にいるのは、ロボットでもAIでも幽霊でもない。普通の生身の人間なんだよ。だから、ちゃんと私を傷つけられる」
絵川が口元をひきつらせるように笑う。
「私は世界に殺されたの。答えが聞けて、満足?」
僕はうまくうなずくことができず、空と山の境界に視線を向けた。
どこを見渡しても、赤い色は残っていなかった。

