「……来ないでって言ったよね?」
五十嵐は、三階の踊り場にいた。
屋上へ続く階段で、膝を抱えたままうずくまっていた。
僕たちが近づいても、顔を上げなかった。
「うん、聞こえてた」
「それ、答えになってないから」
「ここ、座るね」
「……」
五十嵐が否定も肯定もしなかったので、僕は彼女から二段上に腰を下ろした。
絵川はさらにその一段上に座る。
小さな窓から差し込んだ光が、階段を斜めに横切っていた。
僕たちの影も、ちゃんと床に伸びている。
こんなおかしな世界にいるのに、影だけは普通なんだと、妙な安心を覚えた。
「鮎川さんと野田さん」
僕はゆっくりと口を開く。
「あの後、君のこと心配してたよ」
「――知ってる」
即答だった。
「聞こえてたの?」
「聞かなくても、分かるよ」
五十嵐が袖で目元をぬぐう。
「アユもひーちゃんも、ああいうヤツだもん。人がいないところで好き勝手言うし、本人の前でも半分くらい言うし」
「それ、友達なの?」
「友達だよ」
今度も迷わなかった。
「アユはデリカシー死んでるし、ひーちゃんは雪女みたいにヒエヒエだけど……私が本当に困ってたら絶対助けてくれる」
「そう」
「だから、二人に悪く言われたから泣いたんじゃない」
「じゃあ、何で?」
「……分かんない」
五十嵐は再び膝に顔を伏せる。
「依存してるって言われたこと?」
「それも、別に」
「距離感が変だって言われたこと?」
「今さらだし」
「じゃあ――」
「質問多い!」
五十嵐は顔を上げて、僕をにらみつける。
目はまだ赤い。
「なら、一つだけにする」
「えっ」
「『無駄』って言われたのが、嫌だったの?」
「……っ」
五十嵐は一瞬、固まった後、顔を伏せる。
「……うっさい」
「そっか」
しばらくの間、僕たちの周りに沈黙が座っていた。
絵川が立ち上がり、五十嵐の隣に座る。
そこには、一人が座れるか座れないほどの距離感がある。
「……ねえ。そんなに、お金と時間、使ったの?」
少し間を空けてから、五十嵐が答えた。
「バイト代……ほぼ、溶かしてたかも」
五十嵐が苦笑し、少しだけ空気が和らぐ。
「時間は……そうだね、十二年かな」
「そのルイって人、子役でもやってたの?」
絵川が天気の話をするぐらい、平坦な口調で聞いた。
「違うよ。私が無駄に過ごした時間の話」
五十嵐が立ち上がった。
踊り場でくるりと一回転し、僕と絵川に真正面から向き合う。
「実は……私、アイドル目指してたんだ」
「うん」
僕と絵川は、すぐさまうなずいた。
「えっ、えっ……ちょっと! 今のめっちゃ驚くとこじゃん!」
「だって……ねえ、内海君」
「うん。踊り見せてもらった時、普通に分かったし」
「マジかあー」
五十嵐は顔を真っ赤にしながら、その場にうずくまった。
僕と絵川は目を合わせて笑う。
「幼稚園の時だったなあ」
五十嵐は踊り場の壁にもたれ、天井を見上げた。
「テレビで女の子たちが歌って、踊って、みんなから応援されて……光っててさ。『これだ!』って思った」
「これ?」
「私もこうなるって」
僕が聞くと、五十嵐は両手を大きく水平に広げた。
「なれるかな、とかじゃないんだよ。なるの。子供だったし」
五十嵐は少し懐かしそうに笑った。
「親に頼んで、ダンスを習わせてもらって。お風呂をスタジオ代わりに、歌も練習した。鏡の前で、笑顔のパターンを百通りも考えたんだよ」
「意識高い系園児」
「マジそれ」
五十嵐が、今まで見せたことがない笑みを浮かべた。
絵川が持っていたノートを開きながら、尋ねる。
「オーディションとか、受けなかったの?」
「もちろん、受けたよ。たくさん」
「たくさん、ね」
「そ。多すぎて分かんなくなっちゃうくらい」
絵川が鉛筆を走らせる音がする。
彼女の背中が邪魔をし、何を描いているかは分からない。
「最初は書類審査で落ちてばっか。写真、盛れる角度を必死に研究して。ほら、見て」
五十嵐は少しだけ顔をそらし、顎を引いた。
「どう? カワイさ、二割増しでしょ?」
「僕は一割ぐらいに見えるけど」
「内海君って、無駄に正直ね」
「ちょっと二人ともー。ひどくない?」
五十嵐がリスみたいに頬を膨らますので、僕と絵川は笑い声を上げた。
「落ちて、受けて、また落ちて」
「嫌にならなかった?」
「なるよ」
五十嵐は、僕の言葉に被せるように答えた。
「毎回、もうやめようって思ってた」
「じゃあ、なんでまた?」
「次は、受かるかもしれないから」
五十嵐が僕たちと向かい合わせで座った。
「前よりダンス、上手くなってるかもしれないし。歌だって、笑い方だって」
「だから続けた」
「うん」
僕はさっき聞いた五十嵐の言葉を思い出す。
――やりもしてないのに、才能がないなんて言わないでよ。
――そういうセリフは本気でやってから言わなきゃ。
「……そうだね」
「内海、なんか言った?」
「ううん、何でもない」
僕は一度深呼吸をした後、気になっていたことを聞く。
「最後は?」
「最後?」
「オーディション、もう受けてないんだよね」
五十嵐は膝の上で指を組む。
「中学卒業直前のオーディションでさ……かなり、いいとこまで行ったんだよ」
「最終?」
「その一個前」
五十嵐は、自慢げな笑みを作る。
けど、それは石鹸で作った泡みたいにすぐ消えた。
「同じ組に、すっごい子がいた」
「へえ」
「可愛くて、歌もダンスもうまくて。何やっても目で追っちゃうの」
五十嵐は見えないアルバムを眺めるように、何もない場所を見つめる。
「なんか、最初から違うんだよね。こう、その子の周りだけ光ってるみたいな」
「……その子が、受かったんだね」
絵川が低い声で言った。
「落ちた」
「えっ」
僕と絵川が声を上げた。
「おし。やっと驚いてくれた」
五十嵐は笑いながら立ち上がり、階段の一段目に右足をかけた。
「その時さ。分かっちゃったんだよね。ああ、私はここから先に行けないんだって」
有無を言わさないほど、静かで冷たい声。
僕は口ごもる。
「えっと……うまく言えないんだけど……」
「諦めなきゃ分かんない――そう言いたいわけ?」
「違う」
目を細める五十嵐に対し、僕は首を横に振る。
「きっと、僕はもうアメリカの大統領にはなれないなって」
五十嵐と絵川が目を大きく開いて僕を見た。
――また、やってしまった。
僕が慌てて何か言おうとした時、二人がお腹を抱えて笑い出す。
「フフッ……絵川さん、また出たね」
「うん、出た出た。不思議発言」
僕は顔の温度が急激に上昇するのを感じた。
「なんだよ……二人して僕を馬鹿にして」
「内海君、すねないで」
「まあ、柊木の時より、ちょっとマシ」
五十嵐が踊り場にある窓を眺めながら、微笑む。
「努力して叶えられる夢と、叶えられない夢がある――そういうことでしょ?」
僕は何も言わず、うなずいた。
「だから、すっぱりあきらめた」
「後悔してる?」
「してない……わけじゃないか」
僕の問いに、五十嵐は少し考え込む。
「仕方ない――うん、これがしっくりくる」
五十嵐は階段の手すりにもたれながら、何度もうなずいた。
「でさ。やめたら、めちゃくちゃ暇になったんだよね」
五十嵐がおどけるように舌を出した。
「その頃かな。ルイを知ったの」
「もうアイドルだった?」
「一応ね。全っ然、売れてなかったけど」
五十嵐が肩をすくめて両手を広げた。
「フォロワーも二桁ぐらいでさ。ライブじゃ客席はスカスカ。歌もダンスも私よりちょっとマシなぐらい」
「それでも推したんだ」
「私には、輝いて見えたんだよ。ピカピカに。思わず、目をつぶっちゃうくらい」
「……そっか」
「それに名前も『ルイ』だよ? 私の名前と同じ読みも入ってて。これは運命だって思った」
僕は、アイドルの名前に自分の名前と同じ読みが入る確率を計算する。
そこそこ高い確率だったが、運命というのがどんな確率なのかは、誰も分からない。
「動画の配信をするようになってから、少しずつ人気が出て。ライブの会場も、どんどん大きくなって。ドラマにも出れるようになって。CMも決まって。雑誌の表紙になって――新しい仕事決まるたび、めちゃくちゃ嬉しかった」
「自分が受かったわけじゃないのに?」
僕が何気ない調子で聞くと、五十嵐は肩をピクリと一度震わせた。
「……そう、なんだよね。別に私が何かしたわけじゃない。なのに、すっごい嬉しいの」
「どうして?」
「先が見れると思ったから」
五十嵐は顔を上げる。
視線の先にあるのは、屋上へ続く階段。
「私が行けなかった――先」
五十嵐は階段を一段上がろうとして、止める。
「次はどこに行くんだろう。私に、何を見せてくれるんだろうって」
「楽しかったんだね」
絵川が優しい声で言った。
「うん、めちゃくちゃ!」
五十嵐の声が弾んだ。
階段をスキップで上がっていくような明るい声。
なのに、どうして――。
「五十嵐さん」
「なあに?」
「なんで、泣いてるの?」
五十嵐は両手を強く握りしめながら、僕を見下ろす。
冷たい床に、五十嵐から溢れた雨が落ちる。
「ドラマ、打ち切りになったから?」
「分かんない……よ」
「先、もう行けなくなったから?」
「だから、分かんないって、言ってんじゃん!」
「内海君」
絵川が振り向き、僕の右手をつかむ。
思ったより強い眼差しと力に、僕はハッとした。
「……ごめん」
彼女が泣いてる理由は分からない。
けど、僕の言葉がそこに触れてしまったことだけは分かった。
「絵川さん、大丈夫、だから」
「でも……」
「いいの、内海の言ったこと、間違ってない」
五十嵐は涙を流しながら、練習し続けてきた笑顔を僕たちに見せつける。
「私、無駄だと思いたくなかったんだよ」
声が震えている。
「ルイを応援し続けたこと、私がアイドルになるために頑張ってきたこと」
五十嵐は右手の指を一つずつ折っていく。
「――私が、必死に生きてきたこと」
「五十嵐さん……」
「ちょっと。なんで絵川さんが泣きそうな顔してんのよ」
「だって……」
「もー、美人が台無し」
そう言って五十嵐は絵川の頬を両手でつまみ、無理矢理笑顔にする。
「へえ。お化けでも、あったかいんだね」
「うるひゃい」
うまく話せない絵川を見て、五十嵐はクスリと笑った。
「もう、何やっても無駄。だから、書けなかったの。進路」
五十嵐は両手をまっすぐ上に伸ばす。
両腕と声をかすかに震わせながら、五十嵐はつぶやく。
「あーあ、十七年間、私、何してたんだろ」
五十嵐は階段から飛び降り、踊り場に着地する。
僕は数え切れないほどの言葉を知ってるのに、五十嵐にかける言葉を一つも思いつかない。
「結局、残ったのはさ――」
五十嵐はアイドルのようにスカートをひるがえしながら、振り向く。
「作り笑顔の、うまさだけ」
凍えるような笑みだった。
五十嵐は、三階の踊り場にいた。
屋上へ続く階段で、膝を抱えたままうずくまっていた。
僕たちが近づいても、顔を上げなかった。
「うん、聞こえてた」
「それ、答えになってないから」
「ここ、座るね」
「……」
五十嵐が否定も肯定もしなかったので、僕は彼女から二段上に腰を下ろした。
絵川はさらにその一段上に座る。
小さな窓から差し込んだ光が、階段を斜めに横切っていた。
僕たちの影も、ちゃんと床に伸びている。
こんなおかしな世界にいるのに、影だけは普通なんだと、妙な安心を覚えた。
「鮎川さんと野田さん」
僕はゆっくりと口を開く。
「あの後、君のこと心配してたよ」
「――知ってる」
即答だった。
「聞こえてたの?」
「聞かなくても、分かるよ」
五十嵐が袖で目元をぬぐう。
「アユもひーちゃんも、ああいうヤツだもん。人がいないところで好き勝手言うし、本人の前でも半分くらい言うし」
「それ、友達なの?」
「友達だよ」
今度も迷わなかった。
「アユはデリカシー死んでるし、ひーちゃんは雪女みたいにヒエヒエだけど……私が本当に困ってたら絶対助けてくれる」
「そう」
「だから、二人に悪く言われたから泣いたんじゃない」
「じゃあ、何で?」
「……分かんない」
五十嵐は再び膝に顔を伏せる。
「依存してるって言われたこと?」
「それも、別に」
「距離感が変だって言われたこと?」
「今さらだし」
「じゃあ――」
「質問多い!」
五十嵐は顔を上げて、僕をにらみつける。
目はまだ赤い。
「なら、一つだけにする」
「えっ」
「『無駄』って言われたのが、嫌だったの?」
「……っ」
五十嵐は一瞬、固まった後、顔を伏せる。
「……うっさい」
「そっか」
しばらくの間、僕たちの周りに沈黙が座っていた。
絵川が立ち上がり、五十嵐の隣に座る。
そこには、一人が座れるか座れないほどの距離感がある。
「……ねえ。そんなに、お金と時間、使ったの?」
少し間を空けてから、五十嵐が答えた。
「バイト代……ほぼ、溶かしてたかも」
五十嵐が苦笑し、少しだけ空気が和らぐ。
「時間は……そうだね、十二年かな」
「そのルイって人、子役でもやってたの?」
絵川が天気の話をするぐらい、平坦な口調で聞いた。
「違うよ。私が無駄に過ごした時間の話」
五十嵐が立ち上がった。
踊り場でくるりと一回転し、僕と絵川に真正面から向き合う。
「実は……私、アイドル目指してたんだ」
「うん」
僕と絵川は、すぐさまうなずいた。
「えっ、えっ……ちょっと! 今のめっちゃ驚くとこじゃん!」
「だって……ねえ、内海君」
「うん。踊り見せてもらった時、普通に分かったし」
「マジかあー」
五十嵐は顔を真っ赤にしながら、その場にうずくまった。
僕と絵川は目を合わせて笑う。
「幼稚園の時だったなあ」
五十嵐は踊り場の壁にもたれ、天井を見上げた。
「テレビで女の子たちが歌って、踊って、みんなから応援されて……光っててさ。『これだ!』って思った」
「これ?」
「私もこうなるって」
僕が聞くと、五十嵐は両手を大きく水平に広げた。
「なれるかな、とかじゃないんだよ。なるの。子供だったし」
五十嵐は少し懐かしそうに笑った。
「親に頼んで、ダンスを習わせてもらって。お風呂をスタジオ代わりに、歌も練習した。鏡の前で、笑顔のパターンを百通りも考えたんだよ」
「意識高い系園児」
「マジそれ」
五十嵐が、今まで見せたことがない笑みを浮かべた。
絵川が持っていたノートを開きながら、尋ねる。
「オーディションとか、受けなかったの?」
「もちろん、受けたよ。たくさん」
「たくさん、ね」
「そ。多すぎて分かんなくなっちゃうくらい」
絵川が鉛筆を走らせる音がする。
彼女の背中が邪魔をし、何を描いているかは分からない。
「最初は書類審査で落ちてばっか。写真、盛れる角度を必死に研究して。ほら、見て」
五十嵐は少しだけ顔をそらし、顎を引いた。
「どう? カワイさ、二割増しでしょ?」
「僕は一割ぐらいに見えるけど」
「内海君って、無駄に正直ね」
「ちょっと二人ともー。ひどくない?」
五十嵐がリスみたいに頬を膨らますので、僕と絵川は笑い声を上げた。
「落ちて、受けて、また落ちて」
「嫌にならなかった?」
「なるよ」
五十嵐は、僕の言葉に被せるように答えた。
「毎回、もうやめようって思ってた」
「じゃあ、なんでまた?」
「次は、受かるかもしれないから」
五十嵐が僕たちと向かい合わせで座った。
「前よりダンス、上手くなってるかもしれないし。歌だって、笑い方だって」
「だから続けた」
「うん」
僕はさっき聞いた五十嵐の言葉を思い出す。
――やりもしてないのに、才能がないなんて言わないでよ。
――そういうセリフは本気でやってから言わなきゃ。
「……そうだね」
「内海、なんか言った?」
「ううん、何でもない」
僕は一度深呼吸をした後、気になっていたことを聞く。
「最後は?」
「最後?」
「オーディション、もう受けてないんだよね」
五十嵐は膝の上で指を組む。
「中学卒業直前のオーディションでさ……かなり、いいとこまで行ったんだよ」
「最終?」
「その一個前」
五十嵐は、自慢げな笑みを作る。
けど、それは石鹸で作った泡みたいにすぐ消えた。
「同じ組に、すっごい子がいた」
「へえ」
「可愛くて、歌もダンスもうまくて。何やっても目で追っちゃうの」
五十嵐は見えないアルバムを眺めるように、何もない場所を見つめる。
「なんか、最初から違うんだよね。こう、その子の周りだけ光ってるみたいな」
「……その子が、受かったんだね」
絵川が低い声で言った。
「落ちた」
「えっ」
僕と絵川が声を上げた。
「おし。やっと驚いてくれた」
五十嵐は笑いながら立ち上がり、階段の一段目に右足をかけた。
「その時さ。分かっちゃったんだよね。ああ、私はここから先に行けないんだって」
有無を言わさないほど、静かで冷たい声。
僕は口ごもる。
「えっと……うまく言えないんだけど……」
「諦めなきゃ分かんない――そう言いたいわけ?」
「違う」
目を細める五十嵐に対し、僕は首を横に振る。
「きっと、僕はもうアメリカの大統領にはなれないなって」
五十嵐と絵川が目を大きく開いて僕を見た。
――また、やってしまった。
僕が慌てて何か言おうとした時、二人がお腹を抱えて笑い出す。
「フフッ……絵川さん、また出たね」
「うん、出た出た。不思議発言」
僕は顔の温度が急激に上昇するのを感じた。
「なんだよ……二人して僕を馬鹿にして」
「内海君、すねないで」
「まあ、柊木の時より、ちょっとマシ」
五十嵐が踊り場にある窓を眺めながら、微笑む。
「努力して叶えられる夢と、叶えられない夢がある――そういうことでしょ?」
僕は何も言わず、うなずいた。
「だから、すっぱりあきらめた」
「後悔してる?」
「してない……わけじゃないか」
僕の問いに、五十嵐は少し考え込む。
「仕方ない――うん、これがしっくりくる」
五十嵐は階段の手すりにもたれながら、何度もうなずいた。
「でさ。やめたら、めちゃくちゃ暇になったんだよね」
五十嵐がおどけるように舌を出した。
「その頃かな。ルイを知ったの」
「もうアイドルだった?」
「一応ね。全っ然、売れてなかったけど」
五十嵐が肩をすくめて両手を広げた。
「フォロワーも二桁ぐらいでさ。ライブじゃ客席はスカスカ。歌もダンスも私よりちょっとマシなぐらい」
「それでも推したんだ」
「私には、輝いて見えたんだよ。ピカピカに。思わず、目をつぶっちゃうくらい」
「……そっか」
「それに名前も『ルイ』だよ? 私の名前と同じ読みも入ってて。これは運命だって思った」
僕は、アイドルの名前に自分の名前と同じ読みが入る確率を計算する。
そこそこ高い確率だったが、運命というのがどんな確率なのかは、誰も分からない。
「動画の配信をするようになってから、少しずつ人気が出て。ライブの会場も、どんどん大きくなって。ドラマにも出れるようになって。CMも決まって。雑誌の表紙になって――新しい仕事決まるたび、めちゃくちゃ嬉しかった」
「自分が受かったわけじゃないのに?」
僕が何気ない調子で聞くと、五十嵐は肩をピクリと一度震わせた。
「……そう、なんだよね。別に私が何かしたわけじゃない。なのに、すっごい嬉しいの」
「どうして?」
「先が見れると思ったから」
五十嵐は顔を上げる。
視線の先にあるのは、屋上へ続く階段。
「私が行けなかった――先」
五十嵐は階段を一段上がろうとして、止める。
「次はどこに行くんだろう。私に、何を見せてくれるんだろうって」
「楽しかったんだね」
絵川が優しい声で言った。
「うん、めちゃくちゃ!」
五十嵐の声が弾んだ。
階段をスキップで上がっていくような明るい声。
なのに、どうして――。
「五十嵐さん」
「なあに?」
「なんで、泣いてるの?」
五十嵐は両手を強く握りしめながら、僕を見下ろす。
冷たい床に、五十嵐から溢れた雨が落ちる。
「ドラマ、打ち切りになったから?」
「分かんない……よ」
「先、もう行けなくなったから?」
「だから、分かんないって、言ってんじゃん!」
「内海君」
絵川が振り向き、僕の右手をつかむ。
思ったより強い眼差しと力に、僕はハッとした。
「……ごめん」
彼女が泣いてる理由は分からない。
けど、僕の言葉がそこに触れてしまったことだけは分かった。
「絵川さん、大丈夫、だから」
「でも……」
「いいの、内海の言ったこと、間違ってない」
五十嵐は涙を流しながら、練習し続けてきた笑顔を僕たちに見せつける。
「私、無駄だと思いたくなかったんだよ」
声が震えている。
「ルイを応援し続けたこと、私がアイドルになるために頑張ってきたこと」
五十嵐は右手の指を一つずつ折っていく。
「――私が、必死に生きてきたこと」
「五十嵐さん……」
「ちょっと。なんで絵川さんが泣きそうな顔してんのよ」
「だって……」
「もー、美人が台無し」
そう言って五十嵐は絵川の頬を両手でつまみ、無理矢理笑顔にする。
「へえ。お化けでも、あったかいんだね」
「うるひゃい」
うまく話せない絵川を見て、五十嵐はクスリと笑った。
「もう、何やっても無駄。だから、書けなかったの。進路」
五十嵐は両手をまっすぐ上に伸ばす。
両腕と声をかすかに震わせながら、五十嵐はつぶやく。
「あーあ、十七年間、私、何してたんだろ」
五十嵐は階段から飛び降り、踊り場に着地する。
僕は数え切れないほどの言葉を知ってるのに、五十嵐にかける言葉を一つも思いつかない。
「結局、残ったのはさ――」
五十嵐はアイドルのようにスカートをひるがえしながら、振り向く。
「作り笑顔の、うまさだけ」
凍えるような笑みだった。

