「内海! 肘、開いてる! もっと脇を締めろ!」
「そんなすぐ治らないって。柊木君もできてないじゃない」
あれから、僕たちは何十回もシュートを打ち合っていた。
柊木のシャツの第一ボタンが外れ、裾はズボンからはみ出している。
相変わらず、僕たちのシュートは入らない。
ここまで来ると、目をつぶって投げた方がいいんじゃないかと思うくらいだ。
柊木の放ったボールがボードの角に当たり、大きく弾かれた。
ボールがバウンドしながら、僕の方へ飛んでくる。
それを受け止めようと、僕はバウンドのタイミングに合わせて手を出すが――。
「っ!」
突き出した右手の親指とボールが真正面から激突する。
鋭い痛みが、すぐに指の付け根から手首へと走った。
僕は思わず親指を押さえてうずくまる。
「内海!」
誰よりも早く駆け寄ってきたのは、柊木だった。
彼は息を切らしながら僕の前に膝をつくと、迷いのない手つきで僕の右手首を掴んだ。
「……親指か?」
「うん……突き指したみたい」
「動かせるか? ゆっくり曲げてみろ」
言われた通り、ゆっくりと指先を曲げる。ズキリと痛むが、動かないわけではない。
柊木は細い指先で、僕の親指の付け根や関節を、一定のリズムと強さで順番に圧迫していった。
「ここは? 痛いか?」
「そこは痛くない。……あ、そこはちょっと痛い」
「骨を押しても強い痛みはない。動かせてもいるし、たぶん骨折の可能性は低いと思う。念のため冷やして、なるべく動かさない方がいい」
淀みのない、流れるような診察だった。
迷いも躊躇もなく、必要な確認だけを的確にこなしていくその手つきは、手慣れていた。
「柊木君、こういうの詳しいんだね」
僕がつぶやくと、柊木はハッとしたように僕の手を放した。
まるで、見られてはいけないものを見られたかのように、気まずそうに視線を泳がせる。
「……そりゃな。物心ついた頃から、親に家庭用の医学事典やら解剖図を読まされてたからな」
「へえ、すごいじゃん」
五十嵐が僕たちの頭上からひょっこり顔を出し、パチパチと手を叩いた。
「よし、今から君を柊木先生と呼ぶことにしよう」
「からかうな」
柊木は不機嫌そうに立ち上がる。
「親に無理矢理頭に詰め込まれただけの、ただの知識だ。自慢にもならない」
「でも」
僕はズキズキする親指をさすりながら、柊木の背中を見上げた。
「人の身体って、面白いの?」
「……は?」
「さっきの手つき、ただの暗記って感じじゃなかったから」
柊木は言葉に詰まった。
十秒ほどの沈黙のあと、静かに口を開く。
「……狂わないんだよ」
「え?」
「骨の数も、筋肉のつき方も、神経の通り道も。人間ってさ、基本的な構造が誰でも、ほとんど同じなんだよ」
柊木は自分の右手を目の前にかざし、指を一本ずつ折って見せた。
「脳から電気信号が出て、神経を通って、筋肉が収縮して、腱が引っ張られて指が曲がる。何千、何万というパーツが、完璧な秩序で動いてるんだ。……それって、ちょっとすごいと思わないか?」
少し早口になっていた。
いつもの冷めた調子ではなく、自分の好きなゲームの攻略法を語る時の本田のように、熱を感じる声だった。
柊木は言い終わると、僕から目をそらす。
「……まあ、どうでもいい話だったな」
「うん」
「はっきり言いやがって」
「僕にとってはね」
「……ふん」
僕は足元に転がっていたボールを、左手で柊木に渡す。
「もしさ」
「何だよ」
「明日、お父さんとお母さんから『医者になるのはやめろ。明日からシステムエンジニアを目指せ』って言われたらどうする?」
「……あの人たちはそんなこと言わない」
「真剣な話じゃないよ。ただの遊び」
柊木はボールをキャッチした姿勢のまま、ピタリと動きを止めた。
一秒、二秒。
それから、考えるよりも先に、反射のように言葉が口から飛び出した。
「――嫌だ。俺は医者になる」
自分で言っておいて、柊木自身が一番驚いたような顔をしていた。
「どうして?」
僕が尋ねると、柊木はボールを強く握りしめた。
「……想像したら、ムカついてきたんだよ」
「えっ」
「だってさ。物心ついた時からずっと『医者になれ』って言われてきたんだぞ? 今さら、何言ってんだって思うんだろ」
「そうかな……僕は適当に飛び乗った電車の行き先が変わっても、気にしないけど」
「なるほど。そういう考えも、あるな」
「どっちが正しいんだろう」
「そんなの、『分からない』じゃね?」
柊木は高い天井を仰いだ。
「俺……あの人たちのことそんな好きじゃない」
ぽつりと放った言葉が、体育館の中を舞う。
「俺のためだって顔をして、俺の人生の全部を決めてきたから。でも……だからって、親に反抗するためだけにレールを外れるのも、なんか違う」
「ふうん」
「それじゃあ結局、親の敷いたレールを『避ける』ために走ってるだけだろ。それだって、親に人生を決められてるのと何も変わらない」
柊木は目を細める。
眼光の鋭さが増した。
「だったら――あの人たちが決めた場所より、もっと先へ行ってやる」
「先?」
「ただの医者じゃない。たくさんの人を救って、雑誌の取材なんかも受けたりして……ああ、テレビに出るのも悪くない」
「いいね」
「だろ? あの人たちに、『そこまでやれとは言ってない』みたいにビビらせてやるんだ」
「新・反抗期」
「ははっ、それ最高。お前、センスあるよ」
「バスケの?」
「今の答えは狙いすぎだ」
柊木がククッと、体をひきつらせるように笑った。
「その先は、どこへ行くの?」
「そうだな……富も名声も手に入れたんだ。あとは、できるだけ綺麗な奥さんを選んで、人生アガリ」
五十嵐が絵川に大きな声で耳打ちする。
「ちょっと絵川さん、今の聞いた?」
「うん。私、ああいう医者には診てもらいたくないな」
「うわー、分かるー」
「外野、うるさいぞ」
柊木がぴしゃりと言うと、絵川と五十嵐はわざとらしく口元を手で隠した。
「腕がよけりゃ、いいだろ。医者になった動機がなんだってな」
「それってビジュ最強だけど、性格最悪のアイドルみたいなもんでしょ? 全然推せない」
「医者とアイドルを一緒にすんなよ。命かかってんだぞ」
「はあ? 私、推すことに命かけてるんですけど」
まったく噛み合わない話に、僕は笑った。
柊木が、僕たちに順番に視線を送る。
「じゃあ聞くけど。綺麗な志を持つヤブ医者と、親への復讐のための名医――お前らなら、どっちに腹切られたい?」
「名医」
僕が即答すると、柊木は満足げにうなずいた。
「内海、お前分かってんな」
絵川が、ふうっとため息をつく。
「議論が極端。それ言うなら同じ腕を持つ場合で比較しないと」
「うん。それなら、柊木君は選ばないな」
「内海……裏切りやがって」
柊木のいらだったような声に、僕は口元を手で隠して笑う。
「そんなんじゃさ。誰にも尊敬されないんじゃない?」
「大人には、な」
「どういう意味?」
「子供には、カッコイイ所しか見せないんだよ」
「へえ……どうして?」
「俺みたいなヤツ、未来に生み出したいか?」
「うん。いらないね」
「……もし子供が生まれたら、こう言ってやるんだ」
柊木が勢いよくシュートを放つと、ボールはまたリングに弾かれる。
「――『お前は、お前がなりたいものになれ』ってな」
柊木はまっすぐリングだけを見つめていた。
――焦らなくていい。誇れる夢を持て。
ふいに、僕の父親の言葉が耳の奥で響いた。
胸の奥に蘇る息苦しさ。
僕はその言葉を、今でも素直に受け止められない。
けど、父親は僕を本気で想って言ったのかもしれない――そう思った。
「だから、あの人たちから、取り返す」
「何を?」
「俺の人生」
柊木がニッと笑って、僕を見た。
「行き先……同じだとしても?」
「運転手が自分か他人か、それって全然違うだろ?」
「違い、よく分からない」
「いいよ、それでも」
絵川が目を細め、柊木を見る。
「……ねえ、本気で言ってる?」
「当たり前だろ」
「そう。せっかく取り返した人生でやることが、それとはね」
「いいんだよ。今はこれで」
「……ふん」
そう言って、絵川は視線をそらした。
僕はもう一つだけ聞く。
「もし……辛くて、途中で降りたくなったら?」
「は?」
「やっぱり医者をやりたくないって思うこと、あるかもしれない」
「そりゃあ、あるかもな」
「中途半端な決意」
柊木が僕の言葉を鼻で笑う。
「それの何が悪い」
「えっ」
「そん時はそん時だ。レールをひん曲げてでも、行きたい所へ行ってやるさ」
柊木はそう言って、床に転がったボールを拾おうとする。
「柊木君……手……」
「えっ……」
柊木の右手の色が薄く――いや、透き通っていることに気づいた。
「そんなすぐ治らないって。柊木君もできてないじゃない」
あれから、僕たちは何十回もシュートを打ち合っていた。
柊木のシャツの第一ボタンが外れ、裾はズボンからはみ出している。
相変わらず、僕たちのシュートは入らない。
ここまで来ると、目をつぶって投げた方がいいんじゃないかと思うくらいだ。
柊木の放ったボールがボードの角に当たり、大きく弾かれた。
ボールがバウンドしながら、僕の方へ飛んでくる。
それを受け止めようと、僕はバウンドのタイミングに合わせて手を出すが――。
「っ!」
突き出した右手の親指とボールが真正面から激突する。
鋭い痛みが、すぐに指の付け根から手首へと走った。
僕は思わず親指を押さえてうずくまる。
「内海!」
誰よりも早く駆け寄ってきたのは、柊木だった。
彼は息を切らしながら僕の前に膝をつくと、迷いのない手つきで僕の右手首を掴んだ。
「……親指か?」
「うん……突き指したみたい」
「動かせるか? ゆっくり曲げてみろ」
言われた通り、ゆっくりと指先を曲げる。ズキリと痛むが、動かないわけではない。
柊木は細い指先で、僕の親指の付け根や関節を、一定のリズムと強さで順番に圧迫していった。
「ここは? 痛いか?」
「そこは痛くない。……あ、そこはちょっと痛い」
「骨を押しても強い痛みはない。動かせてもいるし、たぶん骨折の可能性は低いと思う。念のため冷やして、なるべく動かさない方がいい」
淀みのない、流れるような診察だった。
迷いも躊躇もなく、必要な確認だけを的確にこなしていくその手つきは、手慣れていた。
「柊木君、こういうの詳しいんだね」
僕がつぶやくと、柊木はハッとしたように僕の手を放した。
まるで、見られてはいけないものを見られたかのように、気まずそうに視線を泳がせる。
「……そりゃな。物心ついた頃から、親に家庭用の医学事典やら解剖図を読まされてたからな」
「へえ、すごいじゃん」
五十嵐が僕たちの頭上からひょっこり顔を出し、パチパチと手を叩いた。
「よし、今から君を柊木先生と呼ぶことにしよう」
「からかうな」
柊木は不機嫌そうに立ち上がる。
「親に無理矢理頭に詰め込まれただけの、ただの知識だ。自慢にもならない」
「でも」
僕はズキズキする親指をさすりながら、柊木の背中を見上げた。
「人の身体って、面白いの?」
「……は?」
「さっきの手つき、ただの暗記って感じじゃなかったから」
柊木は言葉に詰まった。
十秒ほどの沈黙のあと、静かに口を開く。
「……狂わないんだよ」
「え?」
「骨の数も、筋肉のつき方も、神経の通り道も。人間ってさ、基本的な構造が誰でも、ほとんど同じなんだよ」
柊木は自分の右手を目の前にかざし、指を一本ずつ折って見せた。
「脳から電気信号が出て、神経を通って、筋肉が収縮して、腱が引っ張られて指が曲がる。何千、何万というパーツが、完璧な秩序で動いてるんだ。……それって、ちょっとすごいと思わないか?」
少し早口になっていた。
いつもの冷めた調子ではなく、自分の好きなゲームの攻略法を語る時の本田のように、熱を感じる声だった。
柊木は言い終わると、僕から目をそらす。
「……まあ、どうでもいい話だったな」
「うん」
「はっきり言いやがって」
「僕にとってはね」
「……ふん」
僕は足元に転がっていたボールを、左手で柊木に渡す。
「もしさ」
「何だよ」
「明日、お父さんとお母さんから『医者になるのはやめろ。明日からシステムエンジニアを目指せ』って言われたらどうする?」
「……あの人たちはそんなこと言わない」
「真剣な話じゃないよ。ただの遊び」
柊木はボールをキャッチした姿勢のまま、ピタリと動きを止めた。
一秒、二秒。
それから、考えるよりも先に、反射のように言葉が口から飛び出した。
「――嫌だ。俺は医者になる」
自分で言っておいて、柊木自身が一番驚いたような顔をしていた。
「どうして?」
僕が尋ねると、柊木はボールを強く握りしめた。
「……想像したら、ムカついてきたんだよ」
「えっ」
「だってさ。物心ついた時からずっと『医者になれ』って言われてきたんだぞ? 今さら、何言ってんだって思うんだろ」
「そうかな……僕は適当に飛び乗った電車の行き先が変わっても、気にしないけど」
「なるほど。そういう考えも、あるな」
「どっちが正しいんだろう」
「そんなの、『分からない』じゃね?」
柊木は高い天井を仰いだ。
「俺……あの人たちのことそんな好きじゃない」
ぽつりと放った言葉が、体育館の中を舞う。
「俺のためだって顔をして、俺の人生の全部を決めてきたから。でも……だからって、親に反抗するためだけにレールを外れるのも、なんか違う」
「ふうん」
「それじゃあ結局、親の敷いたレールを『避ける』ために走ってるだけだろ。それだって、親に人生を決められてるのと何も変わらない」
柊木は目を細める。
眼光の鋭さが増した。
「だったら――あの人たちが決めた場所より、もっと先へ行ってやる」
「先?」
「ただの医者じゃない。たくさんの人を救って、雑誌の取材なんかも受けたりして……ああ、テレビに出るのも悪くない」
「いいね」
「だろ? あの人たちに、『そこまでやれとは言ってない』みたいにビビらせてやるんだ」
「新・反抗期」
「ははっ、それ最高。お前、センスあるよ」
「バスケの?」
「今の答えは狙いすぎだ」
柊木がククッと、体をひきつらせるように笑った。
「その先は、どこへ行くの?」
「そうだな……富も名声も手に入れたんだ。あとは、できるだけ綺麗な奥さんを選んで、人生アガリ」
五十嵐が絵川に大きな声で耳打ちする。
「ちょっと絵川さん、今の聞いた?」
「うん。私、ああいう医者には診てもらいたくないな」
「うわー、分かるー」
「外野、うるさいぞ」
柊木がぴしゃりと言うと、絵川と五十嵐はわざとらしく口元を手で隠した。
「腕がよけりゃ、いいだろ。医者になった動機がなんだってな」
「それってビジュ最強だけど、性格最悪のアイドルみたいなもんでしょ? 全然推せない」
「医者とアイドルを一緒にすんなよ。命かかってんだぞ」
「はあ? 私、推すことに命かけてるんですけど」
まったく噛み合わない話に、僕は笑った。
柊木が、僕たちに順番に視線を送る。
「じゃあ聞くけど。綺麗な志を持つヤブ医者と、親への復讐のための名医――お前らなら、どっちに腹切られたい?」
「名医」
僕が即答すると、柊木は満足げにうなずいた。
「内海、お前分かってんな」
絵川が、ふうっとため息をつく。
「議論が極端。それ言うなら同じ腕を持つ場合で比較しないと」
「うん。それなら、柊木君は選ばないな」
「内海……裏切りやがって」
柊木のいらだったような声に、僕は口元を手で隠して笑う。
「そんなんじゃさ。誰にも尊敬されないんじゃない?」
「大人には、な」
「どういう意味?」
「子供には、カッコイイ所しか見せないんだよ」
「へえ……どうして?」
「俺みたいなヤツ、未来に生み出したいか?」
「うん。いらないね」
「……もし子供が生まれたら、こう言ってやるんだ」
柊木が勢いよくシュートを放つと、ボールはまたリングに弾かれる。
「――『お前は、お前がなりたいものになれ』ってな」
柊木はまっすぐリングだけを見つめていた。
――焦らなくていい。誇れる夢を持て。
ふいに、僕の父親の言葉が耳の奥で響いた。
胸の奥に蘇る息苦しさ。
僕はその言葉を、今でも素直に受け止められない。
けど、父親は僕を本気で想って言ったのかもしれない――そう思った。
「だから、あの人たちから、取り返す」
「何を?」
「俺の人生」
柊木がニッと笑って、僕を見た。
「行き先……同じだとしても?」
「運転手が自分か他人か、それって全然違うだろ?」
「違い、よく分からない」
「いいよ、それでも」
絵川が目を細め、柊木を見る。
「……ねえ、本気で言ってる?」
「当たり前だろ」
「そう。せっかく取り返した人生でやることが、それとはね」
「いいんだよ。今はこれで」
「……ふん」
そう言って、絵川は視線をそらした。
僕はもう一つだけ聞く。
「もし……辛くて、途中で降りたくなったら?」
「は?」
「やっぱり医者をやりたくないって思うこと、あるかもしれない」
「そりゃあ、あるかもな」
「中途半端な決意」
柊木が僕の言葉を鼻で笑う。
「それの何が悪い」
「えっ」
「そん時はそん時だ。レールをひん曲げてでも、行きたい所へ行ってやるさ」
柊木はそう言って、床に転がったボールを拾おうとする。
「柊木君……手……」
「えっ……」
柊木の右手の色が薄く――いや、透き通っていることに気づいた。

