高志郎は、医師になりたくなかった。曽祖父からの歴々たる家系だからといって、なぜ自分の進む道を決められなければならないのか不満だった。だから中学のときに小説家を志すことを決意した。なぜ小説だったのかは簡単な理由だ。自宅でひとり、パソコンひとつあればできるからだった。
こうして高校一年の終わりに新人賞を受賞した。両親には伝えていない。読書に興味のない家族でも知っているくらいの賞を受賞してからだ、と密かに決めて努力していた。
「いきなりごめん。『九尾のまどろみ』って本、知ってる? 著者が笹野くんと同じ名前なんだよ」
昴から声をかけられたのは、二年になってすぐの頃だった。本名で受賞したのに誰も気づくことはなく、指摘されたのは初めてのことだった。
「知ってるもなにも、著者本人ですよ」
「え、じゃ本当に笹野くんなんだ? 同姓同名にしては珍しいっていうか、こんなかっこいい名前ふたりもいるのかなって思って」
「……どこで知ったのですか?」
「本屋だよ。タイトルに惹かれて手に取ったら笹野高志郎って書いてあってびっくりして」
昴は掲載された雑誌を鞄から取り出して、高志郎に見せてきた。自宅にも見本誌が何冊かある。けれど教室でクラスメイトから差し出されたそれは、初めて見たもののように感じられた。
「いきなりごめん、興奮しちゃって」
「とんでもない。気づかれたのは初めてでしたので、少し動揺してしまいました」
「えっ? 大勢から言われてるのかと思った」
「小説はマイナーな文化です。読書を趣味とする人は稀ですから、現段階でわたしに気づく者は極わずか……いえ、ひとりもいないと推測しておりました」
そうなの?と目を見開いた昴を見て、高志郎は思わず口元を緩ませた。渦中にいる者は界隈の外がわからないものだ。年々書籍の売上は下がっている。小説というジャンル自体はいまやマニアックな趣味と成り果てているのだが、好きな人は応じて気づかない。
新人の名前なんて気にかける者はいないし、自分から伝えても気のない反応が返ってくるだけだと思っていた。有名な賞を受賞するまで気づかれることはないだろう、と。
「えー、めちゃくちゃ面白かったのに」
昴はうまく言葉にできないけれどと前置きしながらも、感想を話してくれた。飾りっ気もなく、拙くもあって、だからこそ本心であると実感させるものだった。
天にも登る気持ちとはこういうことだろう。
高志郎は生まれて初めての気分を体験した。
受賞したときなんか比較にならないくらい、編集者から絶賛されたときよりも心を揺さぶられた。
「内海くんは文学がお好きなのですか?」
「文学……って言われてもよくわからないけど、小説はたまに読むよ。買ったのは初めてだったけど、図書館とかで借りて読んだりはしてた」
「購入されたのは初めてだったのですか?」
「サブスクで十分っていうか、敢えて買ったことはなかった」
続けて昴は推理小説が好きだと言い、高志郎も知っている有名作の名を連ねていった。高志郎は聞きながら、初めて金を出させたのが自分の作品だったという事実に胸を熱くしていた。
「あなたを書いてみたい」
熱心に語ってくれている昴を眺めていたら、高志郎の口からぽろりとこぼれた。
「えっ? あなたって、僕?」
丸く見開いた目を見て高志郎は失態に気づき、慌てて取り繕った。表情には出さない。なにか問題があるかとばかりに平然と言った。
「わたしの文学の目指すところは平凡な人物の造形にあります。精神的身体的に平均の人間を描きだすことで、社会を写し絵のように活写できると信じておりますので……あなたをモデルとした人物を掘り下げてみたいと考えつきました」
口から出任せだった。次回作の構想なんてなんにも浮かんでいない。考えあぐねていたくらいだった。けれど口にして初めて、妙案かもしれないと思えた。内海昴という人物は、観察するほどに魅力的に映った。平凡だなどと、聞こえは悪かったかもしれない。しかし事実である。
この学園にはドラマになりそうな特殊な生徒ばかりだ。ただ、特殊だからこそ退屈であるという負の側面もある。ひとつ秀でた面を持っているだけで、他は無能な社会不適合者たちだからだ。プライドなんて余計な感情を持っているせいで驕っているうえ、一心不乱に努力しているせいで生活能力もなければ勉強もできず、頭も悪い。その点昴は一等星のごとくきらめきを放っている。
どうしてこれまで彼に気づかなかったのだろう。
こんな程度の観察眼で小説家になろうなどとよくぞ考えたものだ。
高志郎は、生まれて初めて自分の至らなさを自覚した。そして、彼を観察し、会話を重ねることで成長しようと決意した。
「すっごい豪邸じゃん」
タクシーを使って自宅へやってくると、昴は圧倒された様子を見せた。ビビっているというやつだ。タクシーを使うことにも及び腰で、割り勘にはしないからというと道中恐縮しっぱなしだった。庶民的で遠慮がちな態度をとる人間は高志郎の周りにいない。昴の反応はなんとも新鮮で、驚くほど愛らしかった。
「父や母は不在ですので気遣う必要はありません。家にいるのは使用人くらいです」
「あ、お医者さんと看護師さんだっけ?」
「ふたりとも医師です。診察は終えていると思いますが、仕事が残っているのでしょう」
嘘だった。ふたりはそれぞれ帰る家がある。四六時中職場で顔を突き合わせているからか、互いにペントハウスなるマンションを購入し、リフレッシュしてから帰宅すると言って帰ってこなくなった。高志郎が小学生の頃だった。一人っ子だった高志郎は、両親と遊んでもらった記憶がほとんどない。今や両親などふとしたときに思い出すくらい疎遠となっていた。
「うちも共働きなんだ。帰ってくるのはいつも弟たちが寝てからなんだよね」
「では、今は?」
「おばあちゃんがいるから……だけどおじいちゃんが退院してくるからしばらく家に帰ることになって、僕が面倒みなきゃなんだ」
「面倒とは?」
「小学生だからある程度は自分でできるけど、防犯上家にいなきゃいけなくてさ。あとは母さんのつくってくれた夕食を温めたり、片付けとか……」
昴は言葉を濁した。詳しく話したくないようだった。あまり自分のことを語りたがらない面も高志郎は気に入っていた。あれこれと詮索もしないし、独りよがりに喋ったりもしない。高志郎の話題に乗ってくれて、余計なことは口にせず、ただ明るく反応してくれるだけだ。
だから、昴といる時間は心地いい。自宅にいて初めてこんなに安らげる気持ちになれたと思うくらい、昴と映画を観た時間は楽しかった。
こうして高校一年の終わりに新人賞を受賞した。両親には伝えていない。読書に興味のない家族でも知っているくらいの賞を受賞してからだ、と密かに決めて努力していた。
「いきなりごめん。『九尾のまどろみ』って本、知ってる? 著者が笹野くんと同じ名前なんだよ」
昴から声をかけられたのは、二年になってすぐの頃だった。本名で受賞したのに誰も気づくことはなく、指摘されたのは初めてのことだった。
「知ってるもなにも、著者本人ですよ」
「え、じゃ本当に笹野くんなんだ? 同姓同名にしては珍しいっていうか、こんなかっこいい名前ふたりもいるのかなって思って」
「……どこで知ったのですか?」
「本屋だよ。タイトルに惹かれて手に取ったら笹野高志郎って書いてあってびっくりして」
昴は掲載された雑誌を鞄から取り出して、高志郎に見せてきた。自宅にも見本誌が何冊かある。けれど教室でクラスメイトから差し出されたそれは、初めて見たもののように感じられた。
「いきなりごめん、興奮しちゃって」
「とんでもない。気づかれたのは初めてでしたので、少し動揺してしまいました」
「えっ? 大勢から言われてるのかと思った」
「小説はマイナーな文化です。読書を趣味とする人は稀ですから、現段階でわたしに気づく者は極わずか……いえ、ひとりもいないと推測しておりました」
そうなの?と目を見開いた昴を見て、高志郎は思わず口元を緩ませた。渦中にいる者は界隈の外がわからないものだ。年々書籍の売上は下がっている。小説というジャンル自体はいまやマニアックな趣味と成り果てているのだが、好きな人は応じて気づかない。
新人の名前なんて気にかける者はいないし、自分から伝えても気のない反応が返ってくるだけだと思っていた。有名な賞を受賞するまで気づかれることはないだろう、と。
「えー、めちゃくちゃ面白かったのに」
昴はうまく言葉にできないけれどと前置きしながらも、感想を話してくれた。飾りっ気もなく、拙くもあって、だからこそ本心であると実感させるものだった。
天にも登る気持ちとはこういうことだろう。
高志郎は生まれて初めての気分を体験した。
受賞したときなんか比較にならないくらい、編集者から絶賛されたときよりも心を揺さぶられた。
「内海くんは文学がお好きなのですか?」
「文学……って言われてもよくわからないけど、小説はたまに読むよ。買ったのは初めてだったけど、図書館とかで借りて読んだりはしてた」
「購入されたのは初めてだったのですか?」
「サブスクで十分っていうか、敢えて買ったことはなかった」
続けて昴は推理小説が好きだと言い、高志郎も知っている有名作の名を連ねていった。高志郎は聞きながら、初めて金を出させたのが自分の作品だったという事実に胸を熱くしていた。
「あなたを書いてみたい」
熱心に語ってくれている昴を眺めていたら、高志郎の口からぽろりとこぼれた。
「えっ? あなたって、僕?」
丸く見開いた目を見て高志郎は失態に気づき、慌てて取り繕った。表情には出さない。なにか問題があるかとばかりに平然と言った。
「わたしの文学の目指すところは平凡な人物の造形にあります。精神的身体的に平均の人間を描きだすことで、社会を写し絵のように活写できると信じておりますので……あなたをモデルとした人物を掘り下げてみたいと考えつきました」
口から出任せだった。次回作の構想なんてなんにも浮かんでいない。考えあぐねていたくらいだった。けれど口にして初めて、妙案かもしれないと思えた。内海昴という人物は、観察するほどに魅力的に映った。平凡だなどと、聞こえは悪かったかもしれない。しかし事実である。
この学園にはドラマになりそうな特殊な生徒ばかりだ。ただ、特殊だからこそ退屈であるという負の側面もある。ひとつ秀でた面を持っているだけで、他は無能な社会不適合者たちだからだ。プライドなんて余計な感情を持っているせいで驕っているうえ、一心不乱に努力しているせいで生活能力もなければ勉強もできず、頭も悪い。その点昴は一等星のごとくきらめきを放っている。
どうしてこれまで彼に気づかなかったのだろう。
こんな程度の観察眼で小説家になろうなどとよくぞ考えたものだ。
高志郎は、生まれて初めて自分の至らなさを自覚した。そして、彼を観察し、会話を重ねることで成長しようと決意した。
「すっごい豪邸じゃん」
タクシーを使って自宅へやってくると、昴は圧倒された様子を見せた。ビビっているというやつだ。タクシーを使うことにも及び腰で、割り勘にはしないからというと道中恐縮しっぱなしだった。庶民的で遠慮がちな態度をとる人間は高志郎の周りにいない。昴の反応はなんとも新鮮で、驚くほど愛らしかった。
「父や母は不在ですので気遣う必要はありません。家にいるのは使用人くらいです」
「あ、お医者さんと看護師さんだっけ?」
「ふたりとも医師です。診察は終えていると思いますが、仕事が残っているのでしょう」
嘘だった。ふたりはそれぞれ帰る家がある。四六時中職場で顔を突き合わせているからか、互いにペントハウスなるマンションを購入し、リフレッシュしてから帰宅すると言って帰ってこなくなった。高志郎が小学生の頃だった。一人っ子だった高志郎は、両親と遊んでもらった記憶がほとんどない。今や両親などふとしたときに思い出すくらい疎遠となっていた。
「うちも共働きなんだ。帰ってくるのはいつも弟たちが寝てからなんだよね」
「では、今は?」
「おばあちゃんがいるから……だけどおじいちゃんが退院してくるからしばらく家に帰ることになって、僕が面倒みなきゃなんだ」
「面倒とは?」
「小学生だからある程度は自分でできるけど、防犯上家にいなきゃいけなくてさ。あとは母さんのつくってくれた夕食を温めたり、片付けとか……」
昴は言葉を濁した。詳しく話したくないようだった。あまり自分のことを語りたがらない面も高志郎は気に入っていた。あれこれと詮索もしないし、独りよがりに喋ったりもしない。高志郎の話題に乗ってくれて、余計なことは口にせず、ただ明るく反応してくれるだけだ。
だから、昴といる時間は心地いい。自宅にいて初めてこんなに安らげる気持ちになれたと思うくらい、昴と映画を観た時間は楽しかった。



