手のひらに雨が当たる。降ってきた、と頬を拭ったら不思議なことに目から下しか濡れていなかった。
「……昴?」
稔がはっと驚いたように身体を硬直させた。
なんでもないと言いたいのに、声が出てこない。代わりに嗚咽が出てしまいそうだ。
あのときの苦しさと自分に対する苛立ちがぶり返してきて、胸が痛い。
——思い出したくなかった。
「なんでもない……」
「なんでもなくないだろ、誤魔化すな。思い出してつらくなったんだろ?」
「なってないって……」
「おまえはがちで自覚してないけど、本当に凄いやつなんだ。ずっと追いかけているけど、全然追いつけなくて、おまえにまたダンスをして欲しいって、ずっと——」
「やめて。稔はなにか勘違いしてるよ」
「ダンスをやめた理由はわかってる。コーチのせいだろ? でもあいつ、おまえがやめたあとクビになっただろ?」
「えっ?」
「やっぱ知らなかったんだな。あいつは優秀なダンサーだったけど、教育者としてはクズだったんだ。金持ちのガキだけを優遇して、生徒の能力なんてまともに見ていなかった。俺は金持ちのガキのほうだったから……」
「なんで稔はそんなこと……」
「だから、俺も同じところに通っていたんだって」
「嘘だよ。稔がいたら覚えているはずだよ。子どもの頃っていっても稔だったら……稔のことを忘れるなんてあり得ない。絶対にないよ」
「……俺は初心者コースだったんだよ。ようやく上級にあがった頃にはおまえがやめてて……」
昴はまさかと目を見開き、驚くことばかりを言われて耐えきれず、とうとうその場にしゃがみ込んだ。
信じられない。
けど稔の言うことは事実のように思えた。
昴の通っていたスクールは、最初の半年は必ず初心者コースに入れられる。いかに才能があっても、まずは基礎を学ばされるよう定められていた。
入校した時期が稔の話していたとおりなら、話は一致すると思った。稔の踊った曲を練習し始めた途中で、昴は辞めてしまったからだ。
稔を覚えていないのも然りだ。昴は別のコースを覗いたりはしなかった。というより他の生徒を見ている余裕がなかった。
鏡に映る自分を見てもどこが悪いのかさっぱりわからず、なのに毎日のように怒られて、腹が立ってばかりいた。自分が上達していると思うほど、教師からの叱責が増えた。行くたびに怒られ、終いにはやめちまえとまで言われて、自信が粉々に砕けた。そして悟った。
ダンスこそが最も自分に合っていると思っていたのに、それでこの結果なら、自分にはいっさいなんの才能もない、と。
「稔はずっと前から僕のことを知ってたんだ……」
「……そうだ」
「だから僕のこと……」
親よりも知っていたんだ。
そう合点がいき、昴は脱力した。自分だけを特別視してくれていたのは、諦めるまえの自分を知っていたかららしい。
「……だからおまえのこと、ずっと追いかけてきたんだ」
稔の声がして、昴と同じように目の前でしゃがんだような気配がした。顔をあげると思ったよりも距離が近い。
過去を思い返したせいで、昴の心は悔しさと悲しさでぐちゃぐちゃだった。真っ暗ななかでは見づらいが、顔に出ていないだろうかと気になった。一方で心臓のほうは勝手にどきどきとして速度を速めている。
悲しくて虚しい。稔からの好意は、出会いが特殊なせいだった。今の自分に対して抱いていたものじゃなかったのだ。
「……でも、だからって僕のこと、あんなふうに言わなくてもよかったじゃん」
「あれは……わるかった。おまえを傷つけたかったわけじゃないんだ。昔みたいに戻って欲しくて……」
「……あんな無様な頃には戻れないよ」
「無様じゃないだろ。おまえは俺のヒーローなんだ……ちょっと違うところもあるけど」
「そうだよ。ヒーローなんかじゃない。器用貧乏で八方美人なだけだよ。すぐに諦めてなにも継続できない弱いやつなんだから」
「そんなこと言ってないだろ。そういう意味じゃない」
「……稔はなんでも知っているみたいに言うけど、知らないこともたくさんあるんだよ。僕がどんなことを考えているかとか……本当の僕を知ったら幻滅するよ」
などと言いつつも、鋭い稔ならすでに見破っていそうだとも思えた。だけど過去を美化して、買いかぶっている。
「だったら見せてくれよ。おまえの全部を知りたいんだ」
稔から熱っぽく言われて、昴は振り払うように立ち上がった。これ以上聞いていられなかった。
——自分なんて稔のような人のそばにいていい人間じゃない。
なにごとも中途半端で、なにも極められない平凡以下の人間だ。稔とはこんなふうに一緒にいちゃいけないくらい人としての格差がある。たとえ同じ高校生だとしても。
「……僕なんかといたら、稔の時間がもったいないよ」
空を仰ぐと山と夜空が広がっていた。煙が星空を隠し、遠目にはまだキャンプファイヤーの赤い光が見えている。それらすべてが滲んでしまってよく見えない。賑やかに反響して聞こえている声も、まるで別世界のように感じられた。
「なんだよそれ。どういう意味だよ」
「言葉どおりの意味だよ。僕と稔は一緒にいちゃいけない……っていうか、一緒にいるべき人間じゃないんだ。今の僕は稔の知っていたような人間じゃない。過去は過去なんだよ」
事実は曖昧にしておくものだ。
たとえ一緒にいるべき関係じゃなくとも、今は同じ教室で机を並べている。クラスメイトとして一緒に笑い合えていても許されていた。
曖昧にしたままであれば、まだ稔のそばにいることができたのに——。
「……昴?」
稔がはっと驚いたように身体を硬直させた。
なんでもないと言いたいのに、声が出てこない。代わりに嗚咽が出てしまいそうだ。
あのときの苦しさと自分に対する苛立ちがぶり返してきて、胸が痛い。
——思い出したくなかった。
「なんでもない……」
「なんでもなくないだろ、誤魔化すな。思い出してつらくなったんだろ?」
「なってないって……」
「おまえはがちで自覚してないけど、本当に凄いやつなんだ。ずっと追いかけているけど、全然追いつけなくて、おまえにまたダンスをして欲しいって、ずっと——」
「やめて。稔はなにか勘違いしてるよ」
「ダンスをやめた理由はわかってる。コーチのせいだろ? でもあいつ、おまえがやめたあとクビになっただろ?」
「えっ?」
「やっぱ知らなかったんだな。あいつは優秀なダンサーだったけど、教育者としてはクズだったんだ。金持ちのガキだけを優遇して、生徒の能力なんてまともに見ていなかった。俺は金持ちのガキのほうだったから……」
「なんで稔はそんなこと……」
「だから、俺も同じところに通っていたんだって」
「嘘だよ。稔がいたら覚えているはずだよ。子どもの頃っていっても稔だったら……稔のことを忘れるなんてあり得ない。絶対にないよ」
「……俺は初心者コースだったんだよ。ようやく上級にあがった頃にはおまえがやめてて……」
昴はまさかと目を見開き、驚くことばかりを言われて耐えきれず、とうとうその場にしゃがみ込んだ。
信じられない。
けど稔の言うことは事実のように思えた。
昴の通っていたスクールは、最初の半年は必ず初心者コースに入れられる。いかに才能があっても、まずは基礎を学ばされるよう定められていた。
入校した時期が稔の話していたとおりなら、話は一致すると思った。稔の踊った曲を練習し始めた途中で、昴は辞めてしまったからだ。
稔を覚えていないのも然りだ。昴は別のコースを覗いたりはしなかった。というより他の生徒を見ている余裕がなかった。
鏡に映る自分を見てもどこが悪いのかさっぱりわからず、なのに毎日のように怒られて、腹が立ってばかりいた。自分が上達していると思うほど、教師からの叱責が増えた。行くたびに怒られ、終いにはやめちまえとまで言われて、自信が粉々に砕けた。そして悟った。
ダンスこそが最も自分に合っていると思っていたのに、それでこの結果なら、自分にはいっさいなんの才能もない、と。
「稔はずっと前から僕のことを知ってたんだ……」
「……そうだ」
「だから僕のこと……」
親よりも知っていたんだ。
そう合点がいき、昴は脱力した。自分だけを特別視してくれていたのは、諦めるまえの自分を知っていたかららしい。
「……だからおまえのこと、ずっと追いかけてきたんだ」
稔の声がして、昴と同じように目の前でしゃがんだような気配がした。顔をあげると思ったよりも距離が近い。
過去を思い返したせいで、昴の心は悔しさと悲しさでぐちゃぐちゃだった。真っ暗ななかでは見づらいが、顔に出ていないだろうかと気になった。一方で心臓のほうは勝手にどきどきとして速度を速めている。
悲しくて虚しい。稔からの好意は、出会いが特殊なせいだった。今の自分に対して抱いていたものじゃなかったのだ。
「……でも、だからって僕のこと、あんなふうに言わなくてもよかったじゃん」
「あれは……わるかった。おまえを傷つけたかったわけじゃないんだ。昔みたいに戻って欲しくて……」
「……あんな無様な頃には戻れないよ」
「無様じゃないだろ。おまえは俺のヒーローなんだ……ちょっと違うところもあるけど」
「そうだよ。ヒーローなんかじゃない。器用貧乏で八方美人なだけだよ。すぐに諦めてなにも継続できない弱いやつなんだから」
「そんなこと言ってないだろ。そういう意味じゃない」
「……稔はなんでも知っているみたいに言うけど、知らないこともたくさんあるんだよ。僕がどんなことを考えているかとか……本当の僕を知ったら幻滅するよ」
などと言いつつも、鋭い稔ならすでに見破っていそうだとも思えた。だけど過去を美化して、買いかぶっている。
「だったら見せてくれよ。おまえの全部を知りたいんだ」
稔から熱っぽく言われて、昴は振り払うように立ち上がった。これ以上聞いていられなかった。
——自分なんて稔のような人のそばにいていい人間じゃない。
なにごとも中途半端で、なにも極められない平凡以下の人間だ。稔とはこんなふうに一緒にいちゃいけないくらい人としての格差がある。たとえ同じ高校生だとしても。
「……僕なんかといたら、稔の時間がもったいないよ」
空を仰ぐと山と夜空が広がっていた。煙が星空を隠し、遠目にはまだキャンプファイヤーの赤い光が見えている。それらすべてが滲んでしまってよく見えない。賑やかに反響して聞こえている声も、まるで別世界のように感じられた。
「なんだよそれ。どういう意味だよ」
「言葉どおりの意味だよ。僕と稔は一緒にいちゃいけない……っていうか、一緒にいるべき人間じゃないんだ。今の僕は稔の知っていたような人間じゃない。過去は過去なんだよ」
事実は曖昧にしておくものだ。
たとえ一緒にいるべき関係じゃなくとも、今は同じ教室で机を並べている。クラスメイトとして一緒に笑い合えていても許されていた。
曖昧にしたままであれば、まだ稔のそばにいることができたのに——。



