境界線の向こうに眠る

 静かな食卓に食器同士が触れ合うカチャという乾いた音だけが響く。お姉ちゃんがいた頃は賑やかだった食卓が、今では時計の秒針の音さえ聞こえる程静まり返っている。少し前までは、学校での出来事や部活のことを無理やり話題にしていた。でも、食卓が明るくなることはなかった。まるで、観客のいないステージで芝居をしているようだった。そんなある日、母はわたしに「お姉ちゃんがいなくなったというのによく、そんなに楽しくできるわね。お母さんはなにを食べても味なんてしないのに」と話した。助けを求めるように父を見るけれど、小さく首を横に振るだけだった。その瞬間、細い糸で繋ぎ止めていた感情がバラバラと散った。それからは、無理に話すことをやめた。ただ、母に寄り添うことにした。父はとっくにそうしていたのだと思う。

「ごめんねお母さん、昨日は豆腐買い忘れちゃって。お母さんここの豆腐好きなのに」

何気なく言ったその言葉は母の気分を害したようだった。

 豆腐を一口食べると、母の掠れた声が聞こえてきた。

「お母さんはここの豆腐が好きなんじゃなくて、ここの豆腐なら食べられるってだけ。変なこと言って気分を悪くさせないで」

静かな話し方の中に怒気が含まれていた。

「ごめん、今度から気を付けるね」

存在感を消す訓練でもしているかのように、父は物音一つ立てずに食事をしている。

 悲しいなんてもう思わない。ただ、心が冷えていくだけで。これが今のわたしの家族なんだって受け入れてしまえばどうってことはない。でも、時々、どうしようもなく心が暴れ出すことがある。そんな時は、二階の自室からベランダに出て、そこから飛び降りて死ぬ自分を想像する。地面にうつ伏せになり、動かなくなった自分を上から見ていると気持ちが落ち着いた。

 ベッドに横になると、手に持ったリンゴを天井に向かって持ち上げる。真っ赤なリンゴの向こうに彼の笑顔が広がる。そして、今日の出来事が鮮やかに蘇る。わたしのことを放っておけなかったと彼は言った。淀みのない真っすぐな目で。

 「楓」――その名前を呟いてみる。そして、天井に向かって手を伸ばし、真っすぐな横線を描く。楓が東風の生徒じゃなかったら――そんなことを思っていた。