「もっと……悪い人でいてよ」
つい、漏らした言葉の真意なんて彼にわかりようがない。心の中でため息をつくと彼の声が聞こえてきた。
「すでに俺は悪い人だよ。東風の生徒には関わるなって親に言われているのをわかっていて、君に声を掛けてこうして困らせているんだから」
親たちが皆、東風の生徒と関わってはいけないと子供に言って聞かせていることを、彼は知っていた。
なにか言葉を返そうにも思い付かないでいると、「それでも」と話が続く。
「放っておけなかったんだよ。この世の不幸全部背負ってるみたいな顔して歩いていたから。こんなやつに声かけられたら迷惑だろうなって思ったけど、どうしてもね、放っておけなかったの」
彼の言葉は、海に沈む夕日のように、ゆっくりと胸の中に落ちていく。こんな優しい言葉を人にかけてもらったのはいつ振りだろう。考えても頭に浮かぶのは悲しんでいる母の顔と疲れた父の顔だった。
「わたし、帰らなきゃ」
時計はもう、十九時を過ぎている。いつの間にか辺りは随分と暗くなり、商店街を歩く人影はまばらになっている。
彼は手に持ったわたしの財布を指差した。
「なにか買おうとしてたんじゃないの?」
すっかり忘れていた。彼が教えてくれなければまた、豆腐を買わずに帰るところだった。
「あっ!ありがとう。今日も忘れて帰ったら大変なことになるところだった」
焦って話すわたしを見て、彼は嬉しそうに「そんな顔してたんだ」と言って笑みを浮かべる。首を傾げると彼の口元が柔らかく緩んだ。
「感情が顔に出ると一気に可愛くなる」
完全に油断していた。そんなこと言う雰囲気はどこにもなかったのに、突然降ってきた言葉に動揺が止まらない。なにか言葉を返そうと考えるけど、発言する間もなく話は勝手に次へと進む。
「傘、持ってる?なかったら貸すよ。店にいっぱいあるから」
彼は青果店を指差す。今のわたしにとって話が切り替わるのはありがたいことだった。
「持ってないけど」
「じゃあ、買い物終わったら店に取りにきな」
話の流れに乗ってつい、首を縦に振ってしまった。
関わるのはやめようと何度も思っているのに、今日、傘を借りればもう一度会うことになる。なぜ断らなかったのだろう。家族の顔が浮かび、罪悪感が襲ってきた。それでも、買い物を終えると彼のところに向かった。『このまま帰るのは約束を破るみたいで後味が悪い。だから行くしかない』と、理由をつけて。
青果店の前に行くと、奥の方で作業する彼の姿が見えた。声を掛ける前にわたしに気が付いた彼が、傘を持って店先に来る。
「俺、ここでバイトしていて、平日の夕方は大体いるからいつでも返しにおいで」
そう言って渡されたグレーの傘は、絶対に返しに来なきゃと思うほど綺麗だった。お礼を言って背を向けると、辺りは更に暗さを増している。十九時半を過ぎると母の怒りを買う為、急いで帰らなくてはならない。お姉ちゃんが死んでから、とにかく母はわたしを束縛するようになった。心配、というより恐怖心と言った方が正確だと思う。もしも、わたしになにかあって、また自分に不幸が降りかかるのが怖いんだ。
早く帰らなきゃと走りだした瞬間、彼の声が聞こえてきた。
「楓」
急いでいるのに自動的に足が止まる。“楓”そう言ったように聞こえて、振り返ると確認するように言ってみた。
「楓?」
青果店の看板の灯りが彼の笑顔を照らす。
「一ノ瀬楓、それが俺の名前、そっちは?」
その名前以外ないと思えるほどに、楓という響きは彼にぴったりと合っていた。
「小川美月」
「ぽい!いかにも美月。似合ってるね、その名前」
「えっ!」
考えていることが一緒だったから、思わず大きな声が出た。
「なんか俺、変なこと言った?」
「ううん、わたしも同じこと思っていたから。楓って名前、ぴったりだなって。響きが、雰囲気に合ってる」
彼は店先からリンゴを一つ手に取るとわたしに駆け寄り、傘とは反対の手に持っていた買い物袋にそれを入れた。
「じゃあ、響きが合わなくなったら困るから、お互い敬称はなしで呼び合うっていうことで。美月、気を付けて帰んなよ」
それは、これからも会って会話をする約束のように聞こえて、わたしはその約束をしてしまわないように「リンゴ、ありがとうございます。気を付けて帰ります」そう言って頭を下げた。そして、背中を向けた瞬間、思い出した。東風のトップの名前。それは確か――楓。はっとして振り返ると、彼は伸びをしながら歩いている。わたしは思わず声を上げた。
「あの!」
彼はすぐに振り返った。今更ながら、どうして声を掛けたのかわからない。「あなたは東風のトップなんですか?」とでも聞くつもりだったのだろうか。もじもじするわたしを見兼ねてか、彼がこっちに向かってきた。
「どうしたの?なにか困りごと?」
「いや、その……楓って言ったから。東風の楓って有名みたいで、東風のトップだって聞いたことがあって」
彼は軽く笑うと「東風に上も下もないよ、みんな…」そう言って手を伸ばすと、空中に真っすぐな横線を描く。そして、綺麗な笑顔を見せる。わたしは「それだけです。さようなら」と、その笑顔に吸い込まれる前に走り去った。
つい、漏らした言葉の真意なんて彼にわかりようがない。心の中でため息をつくと彼の声が聞こえてきた。
「すでに俺は悪い人だよ。東風の生徒には関わるなって親に言われているのをわかっていて、君に声を掛けてこうして困らせているんだから」
親たちが皆、東風の生徒と関わってはいけないと子供に言って聞かせていることを、彼は知っていた。
なにか言葉を返そうにも思い付かないでいると、「それでも」と話が続く。
「放っておけなかったんだよ。この世の不幸全部背負ってるみたいな顔して歩いていたから。こんなやつに声かけられたら迷惑だろうなって思ったけど、どうしてもね、放っておけなかったの」
彼の言葉は、海に沈む夕日のように、ゆっくりと胸の中に落ちていく。こんな優しい言葉を人にかけてもらったのはいつ振りだろう。考えても頭に浮かぶのは悲しんでいる母の顔と疲れた父の顔だった。
「わたし、帰らなきゃ」
時計はもう、十九時を過ぎている。いつの間にか辺りは随分と暗くなり、商店街を歩く人影はまばらになっている。
彼は手に持ったわたしの財布を指差した。
「なにか買おうとしてたんじゃないの?」
すっかり忘れていた。彼が教えてくれなければまた、豆腐を買わずに帰るところだった。
「あっ!ありがとう。今日も忘れて帰ったら大変なことになるところだった」
焦って話すわたしを見て、彼は嬉しそうに「そんな顔してたんだ」と言って笑みを浮かべる。首を傾げると彼の口元が柔らかく緩んだ。
「感情が顔に出ると一気に可愛くなる」
完全に油断していた。そんなこと言う雰囲気はどこにもなかったのに、突然降ってきた言葉に動揺が止まらない。なにか言葉を返そうと考えるけど、発言する間もなく話は勝手に次へと進む。
「傘、持ってる?なかったら貸すよ。店にいっぱいあるから」
彼は青果店を指差す。今のわたしにとって話が切り替わるのはありがたいことだった。
「持ってないけど」
「じゃあ、買い物終わったら店に取りにきな」
話の流れに乗ってつい、首を縦に振ってしまった。
関わるのはやめようと何度も思っているのに、今日、傘を借りればもう一度会うことになる。なぜ断らなかったのだろう。家族の顔が浮かび、罪悪感が襲ってきた。それでも、買い物を終えると彼のところに向かった。『このまま帰るのは約束を破るみたいで後味が悪い。だから行くしかない』と、理由をつけて。
青果店の前に行くと、奥の方で作業する彼の姿が見えた。声を掛ける前にわたしに気が付いた彼が、傘を持って店先に来る。
「俺、ここでバイトしていて、平日の夕方は大体いるからいつでも返しにおいで」
そう言って渡されたグレーの傘は、絶対に返しに来なきゃと思うほど綺麗だった。お礼を言って背を向けると、辺りは更に暗さを増している。十九時半を過ぎると母の怒りを買う為、急いで帰らなくてはならない。お姉ちゃんが死んでから、とにかく母はわたしを束縛するようになった。心配、というより恐怖心と言った方が正確だと思う。もしも、わたしになにかあって、また自分に不幸が降りかかるのが怖いんだ。
早く帰らなきゃと走りだした瞬間、彼の声が聞こえてきた。
「楓」
急いでいるのに自動的に足が止まる。“楓”そう言ったように聞こえて、振り返ると確認するように言ってみた。
「楓?」
青果店の看板の灯りが彼の笑顔を照らす。
「一ノ瀬楓、それが俺の名前、そっちは?」
その名前以外ないと思えるほどに、楓という響きは彼にぴったりと合っていた。
「小川美月」
「ぽい!いかにも美月。似合ってるね、その名前」
「えっ!」
考えていることが一緒だったから、思わず大きな声が出た。
「なんか俺、変なこと言った?」
「ううん、わたしも同じこと思っていたから。楓って名前、ぴったりだなって。響きが、雰囲気に合ってる」
彼は店先からリンゴを一つ手に取るとわたしに駆け寄り、傘とは反対の手に持っていた買い物袋にそれを入れた。
「じゃあ、響きが合わなくなったら困るから、お互い敬称はなしで呼び合うっていうことで。美月、気を付けて帰んなよ」
それは、これからも会って会話をする約束のように聞こえて、わたしはその約束をしてしまわないように「リンゴ、ありがとうございます。気を付けて帰ります」そう言って頭を下げた。そして、背中を向けた瞬間、思い出した。東風のトップの名前。それは確か――楓。はっとして振り返ると、彼は伸びをしながら歩いている。わたしは思わず声を上げた。
「あの!」
彼はすぐに振り返った。今更ながら、どうして声を掛けたのかわからない。「あなたは東風のトップなんですか?」とでも聞くつもりだったのだろうか。もじもじするわたしを見兼ねてか、彼がこっちに向かってきた。
「どうしたの?なにか困りごと?」
「いや、その……楓って言ったから。東風の楓って有名みたいで、東風のトップだって聞いたことがあって」
彼は軽く笑うと「東風に上も下もないよ、みんな…」そう言って手を伸ばすと、空中に真っすぐな横線を描く。そして、綺麗な笑顔を見せる。わたしは「それだけです。さようなら」と、その笑顔に吸い込まれる前に走り去った。


