日中に降った雨の湿気が充満する体育館では雨上がり特有の纏わりつくような暑さにいつも以上に皆、部活動に身が入らないでいる。アップもそこそこにシュート練習が始まった。
中学の頃からバスケット部だったわたしは高校に入ってからもなんとなくバスケット部に入部した。
うちの高校では力の入った部活動は野球部くらいで、他の部活動は遊びみたいな感じだ。バスケット部は男女共に自主練習がメインで、ボールの音よりも笑い声の方が体育館に響いている。
今日は珍しく男子バスケット部の方には顧問が来ていて、それでも特に指導するわけでもなくパイプ椅子に座って部員と談笑している。わたしはコートの隅に座り、シューズの紐を直しながらシュート練習をする東条君を目で追っていた。
わたしが東条君を意識するようになったきっかけは、まさしく今、視界に入っているその姿。
ボールが手から離れる寸前まで指先に神経を通わせる丁寧なシュートの美しさに今日も目を奪われる。ネットを揺らし床にワンバウンドしたボールはすぐさまその細くしなやかな指に連れ去られ彼の手の中で軽やかに転がる。もう一度リングを見据えボールを構えると膝を曲げ、ふわりと宙に浮けば全身の力が一つにつながりボールは完璧な弧を描いてリングへと吸い込まれていく。何度見ても慣れることなくその姿にぞくぞくする。この感覚が欲しくていつまでも彼を見ていてしまうんだ。
練習が終わり、着替えを済ませると帰る生徒たちの邪魔にならないように廊下の隅でスマホをチェックした。昨日、商店街で買ってくるように母に頼まれていた豆腐をすっかり買い忘れて帰宅してしまったせいで、今日も商店街に寄ってから帰らなければならない。余程信用がないのか、家を出る前も念を押されたのに、メッセージまで届いている。「はい」スマホに向かって返事をすると目の前を通り過ぎる男子バスケット部員の話が耳に入ってきた。
「聞いた?東条彼女と別れたらしいよ」
思わず顔を上げ、聞き間違いかもしれないと彼らの話に耳を傾けたのも束の間、本人の登場であっさりと真実は明らかになった。
「なに俺の話してんだよ」
「あっ東条、お前彼女と別れたってマジ?」
「マジだけど?」
「はぁ?どっちから?」
年上美人彼女との破局に男子たちの質問攻めは止まらない。けれど、わたしの耳にはもう話は入ってこない。その破局は、今のわたしには残酷過ぎる事実だった。きっと、明日にはこの情報が玲香ちゃんの耳にも入る。そうしたら――。
一気に胸が騒めきだし、いてもたってもいられず走りだした。とにかくこの場から立ち去りたかった。東条君たちを追い越して、廊下を駆け抜け昇降口に行くと靴に履き替え外に飛び出す。地面は乾いているのにまだ、日中の雨が残っているようなじめっとした風が流れていた。
商店街に着くと、昨日とは一変どんよりとした灰色の空の下、すべてがくすんで見える。昨日と同じくらい人はいて、今日も精肉店や鮮魚店からは活気あふれる声が聞こえてくるけれど、湿気を含んだ重たい空気に吸い込まれこもっている。よどんな空気が息苦しくて早くここから出ようと一番奥の豆腐店を目指して歩く速度を早めた。
豆腐なんてわざわざここで買わなくても近くのスーパーにもあるのに、母はどうしてもここの豆腐がいいらしい。お店の看板が見え、一秒でも早く買って帰ろうとカバンから財布を取り出すと「また会ったね」と、声を掛けてきたのは昨日の彼だった。
髪の毛は昨日と同じ金色だけど、今日は制服姿ではない。黒いTシャツに色落ちしたデニムといったシンプルな服装で、首には革紐のネックレスがかけてある。一つ疑問なのが彼がいるのは青果店の中で、しかも両手に段ボール箱を持っていること。
「買い物……ですか?」
なんとも言えない違和感に思わず質問をしてしまうと、彼は手に持った段ボールを地面に置き、その場にしゃがむ。中からリンゴを取り出すと、いたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべ「はい」と、いきなり投げてきた。
右手には財布を持っている。かろうじて左手だけでリンゴをキャッチするとほっとしたのも束の間、「凄い、落とすと思ったのに。うまいね、キャッチ」彼は拍手をすると箱からもう一つリンゴを取り出し、わたしの目の前に立った。
昨日は眩しくてはっきり見えなかった顔が、今日は目の下と顎先についた小さなほくろまでもが見える。視線がぶつかりすぐさま反らすと彼はわたしの手からリンゴを取った。
「これは、落としてもいい方」
言っていることがわからない。こっちは落としたらまずいと思って必死でキャッチしたというのに。
彼はリンゴをくるっと回す。するとそこには大きな穴があった。
「あっ、穴が開いてる」
「そう、そんでこっちはプレゼント」
「プレゼント?」
たまたま会って、急にリンゴを投げてきたかと思えばプレゼント。想像もつけない展開をどこかで楽しんでいる自分がいることに気付かされてブレーキを踏む。
このままここにいたらまた、彼のペースに飲み込まれてしまう。これ以上関わってはいけない、さようならを言って帰ろう――差し出されたリンゴから彼に目線を移した瞬間、わたしの心臓は大きく反応した。
突然降り出した雨がアーケードを叩く。あちらこちらから「降ってきた」そんな声が聞こえてくる。辺りがガヤガヤと騒がしくなる中、わたしの目の前だけが別の世界みたいに柔らかな光に照らされている。あどけない純粋な笑顔がそこにはあって、その笑顔はわたしが抱える闇をすべて消し去ってしまいそうで、心の奥が解放されてしまいそうで、だからそこから逃げるしかなくて彼に背を向け走りだした。
「帰る、さようなら」
それなのに彼はすぐに追ってきてわたしの正面に立つと動きを制するように両肩を抑える。次に彼が口にする言葉を聞くのが怖かった。それがどんな言葉でもきっと、面白いと感じてしまうから。だからこの手を振り払ってもう二度と彼に会わないようにしなきゃいけないのに。
「リンゴ、嫌いだった?」
彼の言葉の方が先だった。
「えっ?」
「ブドウでも良かったんだけど、鞄の中に入れたら潰れるし、だからリンゴが一番持って帰りやすいかと思ったんだけど、嫌いだった?」
リンゴが嫌いだから帰ったのだと勘違いしていて、それだけでも可笑しいのに真剣な顔で聞いてくるから堪えきれなくなって両手で顔を隠して笑った。
でも、その姿がまた彼を勘違いさせてしまったようだ。
「マジかよ、泣く程嫌いだったの……ごめん」
そんな言葉と同時に彼の腕がわたしの体を包み込む。
どうしてこんなことになっているんだろう。冷静なのか現実逃避か、雨の音がよく聞こえる。子供をなだめるように背中をとんとんと叩く彼の手の動きも、ほのかに香る甘い匂いも、その体温も全て鮮明に感じ取ることができる。体の機能は全部正常な筈なのに、一箇所だけ誤作動を起こしている場所がある。涙が、止まらないんだ。
「本当、ごめんねリンゴが嫌いだって知らなくて」
まだ、リンゴのことを言ってくるから泣きながら笑った。気持ちが落ち着いていくのを感じる。この人の腕の中でこんな風になってはいけないのに、胸の奥にあった大きな黒い塊が溶けていく。
「りんごじゃなくて梨にすればよかったね」
「もうやめてよリンゴの話。別に嫌いじゃないよリンゴ」
顔を上げると彼はさっきとはまた違った笑顔でわたしを見る。そして、やっぱり想像もつかない言葉が飛んでくる。
「昨日も今日も、今にも泣きだしそうな顔してたから、リンゴあげたら少しは元気になるかと思って」
彼がそんなことを思ってわたしに声を掛けていたなんて知らなかった。東風にはまともな人は一人もいない――スローガンのように掲げられたその言葉がわたしの中から消えかける。東風なんて大っ嫌いなのに、この人だけは別だと思いたがっている。でも、それは家族を裏切ることになってしまう。
お姉ちゃんが死んでから、母は精神的に病んでしまった。家のことはなんとかやってはくれているけれど、家を出られない日が増え、買い物に行くことさえも難しくなった。わたしは、お姉ちゃんのようにならなきゃと、明るく振舞った。いつも太陽のように家の中を明るくしていたお姉ちゃんみたいに、大きな声で笑ってなんでも楽しそうにやって、小さな出来事も大袈裟に話した。でも、母が求めているのはお姉ちゃんのような存在ではなく、お姉ちゃんを失った悲しみを共有できる存在だった。
中学の頃からバスケット部だったわたしは高校に入ってからもなんとなくバスケット部に入部した。
うちの高校では力の入った部活動は野球部くらいで、他の部活動は遊びみたいな感じだ。バスケット部は男女共に自主練習がメインで、ボールの音よりも笑い声の方が体育館に響いている。
今日は珍しく男子バスケット部の方には顧問が来ていて、それでも特に指導するわけでもなくパイプ椅子に座って部員と談笑している。わたしはコートの隅に座り、シューズの紐を直しながらシュート練習をする東条君を目で追っていた。
わたしが東条君を意識するようになったきっかけは、まさしく今、視界に入っているその姿。
ボールが手から離れる寸前まで指先に神経を通わせる丁寧なシュートの美しさに今日も目を奪われる。ネットを揺らし床にワンバウンドしたボールはすぐさまその細くしなやかな指に連れ去られ彼の手の中で軽やかに転がる。もう一度リングを見据えボールを構えると膝を曲げ、ふわりと宙に浮けば全身の力が一つにつながりボールは完璧な弧を描いてリングへと吸い込まれていく。何度見ても慣れることなくその姿にぞくぞくする。この感覚が欲しくていつまでも彼を見ていてしまうんだ。
練習が終わり、着替えを済ませると帰る生徒たちの邪魔にならないように廊下の隅でスマホをチェックした。昨日、商店街で買ってくるように母に頼まれていた豆腐をすっかり買い忘れて帰宅してしまったせいで、今日も商店街に寄ってから帰らなければならない。余程信用がないのか、家を出る前も念を押されたのに、メッセージまで届いている。「はい」スマホに向かって返事をすると目の前を通り過ぎる男子バスケット部員の話が耳に入ってきた。
「聞いた?東条彼女と別れたらしいよ」
思わず顔を上げ、聞き間違いかもしれないと彼らの話に耳を傾けたのも束の間、本人の登場であっさりと真実は明らかになった。
「なに俺の話してんだよ」
「あっ東条、お前彼女と別れたってマジ?」
「マジだけど?」
「はぁ?どっちから?」
年上美人彼女との破局に男子たちの質問攻めは止まらない。けれど、わたしの耳にはもう話は入ってこない。その破局は、今のわたしには残酷過ぎる事実だった。きっと、明日にはこの情報が玲香ちゃんの耳にも入る。そうしたら――。
一気に胸が騒めきだし、いてもたってもいられず走りだした。とにかくこの場から立ち去りたかった。東条君たちを追い越して、廊下を駆け抜け昇降口に行くと靴に履き替え外に飛び出す。地面は乾いているのにまだ、日中の雨が残っているようなじめっとした風が流れていた。
商店街に着くと、昨日とは一変どんよりとした灰色の空の下、すべてがくすんで見える。昨日と同じくらい人はいて、今日も精肉店や鮮魚店からは活気あふれる声が聞こえてくるけれど、湿気を含んだ重たい空気に吸い込まれこもっている。よどんな空気が息苦しくて早くここから出ようと一番奥の豆腐店を目指して歩く速度を早めた。
豆腐なんてわざわざここで買わなくても近くのスーパーにもあるのに、母はどうしてもここの豆腐がいいらしい。お店の看板が見え、一秒でも早く買って帰ろうとカバンから財布を取り出すと「また会ったね」と、声を掛けてきたのは昨日の彼だった。
髪の毛は昨日と同じ金色だけど、今日は制服姿ではない。黒いTシャツに色落ちしたデニムといったシンプルな服装で、首には革紐のネックレスがかけてある。一つ疑問なのが彼がいるのは青果店の中で、しかも両手に段ボール箱を持っていること。
「買い物……ですか?」
なんとも言えない違和感に思わず質問をしてしまうと、彼は手に持った段ボールを地面に置き、その場にしゃがむ。中からリンゴを取り出すと、いたずらを思いついた子供のような笑みを浮かべ「はい」と、いきなり投げてきた。
右手には財布を持っている。かろうじて左手だけでリンゴをキャッチするとほっとしたのも束の間、「凄い、落とすと思ったのに。うまいね、キャッチ」彼は拍手をすると箱からもう一つリンゴを取り出し、わたしの目の前に立った。
昨日は眩しくてはっきり見えなかった顔が、今日は目の下と顎先についた小さなほくろまでもが見える。視線がぶつかりすぐさま反らすと彼はわたしの手からリンゴを取った。
「これは、落としてもいい方」
言っていることがわからない。こっちは落としたらまずいと思って必死でキャッチしたというのに。
彼はリンゴをくるっと回す。するとそこには大きな穴があった。
「あっ、穴が開いてる」
「そう、そんでこっちはプレゼント」
「プレゼント?」
たまたま会って、急にリンゴを投げてきたかと思えばプレゼント。想像もつけない展開をどこかで楽しんでいる自分がいることに気付かされてブレーキを踏む。
このままここにいたらまた、彼のペースに飲み込まれてしまう。これ以上関わってはいけない、さようならを言って帰ろう――差し出されたリンゴから彼に目線を移した瞬間、わたしの心臓は大きく反応した。
突然降り出した雨がアーケードを叩く。あちらこちらから「降ってきた」そんな声が聞こえてくる。辺りがガヤガヤと騒がしくなる中、わたしの目の前だけが別の世界みたいに柔らかな光に照らされている。あどけない純粋な笑顔がそこにはあって、その笑顔はわたしが抱える闇をすべて消し去ってしまいそうで、心の奥が解放されてしまいそうで、だからそこから逃げるしかなくて彼に背を向け走りだした。
「帰る、さようなら」
それなのに彼はすぐに追ってきてわたしの正面に立つと動きを制するように両肩を抑える。次に彼が口にする言葉を聞くのが怖かった。それがどんな言葉でもきっと、面白いと感じてしまうから。だからこの手を振り払ってもう二度と彼に会わないようにしなきゃいけないのに。
「リンゴ、嫌いだった?」
彼の言葉の方が先だった。
「えっ?」
「ブドウでも良かったんだけど、鞄の中に入れたら潰れるし、だからリンゴが一番持って帰りやすいかと思ったんだけど、嫌いだった?」
リンゴが嫌いだから帰ったのだと勘違いしていて、それだけでも可笑しいのに真剣な顔で聞いてくるから堪えきれなくなって両手で顔を隠して笑った。
でも、その姿がまた彼を勘違いさせてしまったようだ。
「マジかよ、泣く程嫌いだったの……ごめん」
そんな言葉と同時に彼の腕がわたしの体を包み込む。
どうしてこんなことになっているんだろう。冷静なのか現実逃避か、雨の音がよく聞こえる。子供をなだめるように背中をとんとんと叩く彼の手の動きも、ほのかに香る甘い匂いも、その体温も全て鮮明に感じ取ることができる。体の機能は全部正常な筈なのに、一箇所だけ誤作動を起こしている場所がある。涙が、止まらないんだ。
「本当、ごめんねリンゴが嫌いだって知らなくて」
まだ、リンゴのことを言ってくるから泣きながら笑った。気持ちが落ち着いていくのを感じる。この人の腕の中でこんな風になってはいけないのに、胸の奥にあった大きな黒い塊が溶けていく。
「りんごじゃなくて梨にすればよかったね」
「もうやめてよリンゴの話。別に嫌いじゃないよリンゴ」
顔を上げると彼はさっきとはまた違った笑顔でわたしを見る。そして、やっぱり想像もつかない言葉が飛んでくる。
「昨日も今日も、今にも泣きだしそうな顔してたから、リンゴあげたら少しは元気になるかと思って」
彼がそんなことを思ってわたしに声を掛けていたなんて知らなかった。東風にはまともな人は一人もいない――スローガンのように掲げられたその言葉がわたしの中から消えかける。東風なんて大っ嫌いなのに、この人だけは別だと思いたがっている。でも、それは家族を裏切ることになってしまう。
お姉ちゃんが死んでから、母は精神的に病んでしまった。家のことはなんとかやってはくれているけれど、家を出られない日が増え、買い物に行くことさえも難しくなった。わたしは、お姉ちゃんのようにならなきゃと、明るく振舞った。いつも太陽のように家の中を明るくしていたお姉ちゃんみたいに、大きな声で笑ってなんでも楽しそうにやって、小さな出来事も大袈裟に話した。でも、母が求めているのはお姉ちゃんのような存在ではなく、お姉ちゃんを失った悲しみを共有できる存在だった。

