境界線の向こうに眠る

 父と合流し、墓参りをしたあと、久しぶりに三人で外食をした。父は「今日は、美月の誕生日だから」と言って、少し高級なレストランに連れて行ってくれた。会話はそこまで弾まなかったけれど、居心地の悪さは感じなかった。前のように楽しく話せる日が来る――そんな気がした。

 食事を終え、病院まで送ってもらうと、両親は、わたしがお見舞いに行っている間に公園へ桜を見に行くと言った。二人でどこかへ出かけるなんて、ずっとなかった。満開の桜の力は偉大だ。
 
 病室に行くと、カーテンが開かれていて、中では看護師さんが点滴を交換していた。

「こんにちは」
「あっ美月ちゃんこんにちは」

毎週ここに来るようになって半年。今では看護師さん全員がわたしの顔と名前を知っている。

「桜、満開だね。花見してきた?」
「ここに来る途中、車の中から」

看護師さんは、点滴を調節しながら「楓くん、美月ちゃんが来たよ」と声を掛けると楓の顔を見た。

「この仕事を始めて三十年になるけど、こんなたくさんの人がお見舞いに来た患者さん、初めてじゃないかな?入院して半年が経つけど、変わらず毎日いろんな子が楓くんに会いに来るからね。わたしは眠ってる楓くんしか知らないから、こんなに友達に思われているこの子は一体、どんな子なんだろうって気になってる」

彼女は楓の顔をじっと見つめながら、わたしの話を待っている。

「会った瞬間、心がぱっと明るくなるんです。どんな悲しみも憂鬱もすべて吹き飛ばす力が楓にはあって、芯が強くてしっかりしていて、人を凄く大切にして。だからみんな楓に惹かれるんです。楓を知ってしまったら、離れることができなくなるんです」

看護師さんは楓の胸にそっと触れ「この中にはそんな凄い力が秘められているのね」そう言って優しく微笑んだ。

 楓と二人きりになると隣に座り会話をした。

「楓、桜が満開だよ」

いつものように返事はない。

「一緒に花見がしたかったな。楓はやっぱり、毎年大人数で花見に行ってたの?きっとそうだよね」

 もう、卒業式も終わり、新年度が始まっている。高校を卒業したら起業すると言っていた楓。いい加減な生き方をしなければ、うちの両親に認めてもらえると話した。でも、楓はあの日から止まったまま動こうとしない。週に一度、必ず会いに来るという約束も果たされないまま。

 窓の外では枝の先まで花を咲かせた桜が、重たげに風に揺れている。

 桜の木の下で賑わう人々の光景が目に浮かぶ。出店がたくさん並び、香ばしい匂いや甘い匂いが漂う中、家族連れや恋人同士が、人の波に流されながら上を見上げている。春の熱気に包まれ、年に一度、数日だけの奇跡のような光景に、人々が感嘆の声を上げている――そんな様子を思い浮かべるとまた、寂しさに溺れていく。

――楓は今、どこにいて、なにを見ているの?半年も戻ってこられないくらい、そこは楽しいの?それとも暗闇の中、出口を探してさ迷っているの?

 もう二度となにかを二人で見ることはできないかもしれない――何度もそんなことが頭をよぎった。まだ、一緒に見ていないものがたくさんある。満開の桜も、夜空を彩る花火も、燃え盛るような紅葉も、夜の町に輝くイルミネーションも。クリスマスはやっぱり起きている楓に会いたいし、甘いものが好きな楓の為に、誕生日には手作りのケーキをプレゼントしたい。動物園にも水族館にも遊園地にも行きたい。知らないことだってたくさんある。甘いもの以外の好きな食べ物も、好きな色も、好きな音楽も。

 何度も後悔して、悔やんで、楓をこんな目に遭わせてしまった自分を責めた。わたしなんかいなければ――なんて思ったこともあった。でも、途中から全部やめた。わたしがそんなことを考えていても、楓が喜ばないから。そう教えてくれたのは、楓の友達だった。     

 やっぱり黙ってはいられなくて、わたしは楓の友達にすべてを話した。

 あの時は人数制限の為、楓の友達が二十人以上、デイルームで順番を待っていた。正直、怖過ぎて足の震えが止まらなかった。きっと怒られるのだろうと覚悟した。楓の友達に囲まれながら、何度も言葉に詰まって、でも、みんな黙ってわたしの話を最後まで聞いてくれた。誰も怒ったりはしなかった。そして、後悔していることを口にすると「そんな気持ちでいても、楓は喜ばないよ」と言ってくれた。

 楓の仲間はみんな温かかった。楓と同じように思いやりに溢れていた。そしてなにより、みんな楓が目を覚ますと、当たり前に思っていた。「楓は、こんなところでいつまでも眠ってるようなやつじゃないよ」と言って。それが、凄く心強かった。

 楓の胸に顔を埋める。頬に、鼓動を感じる。生きていることが伝わってくる。それでも、目を覚ましてくれなければ、わからなくなる。ここにいるのはたしかに楓で、でも、ただ楓の形をしているだけで。

「楓、週に一度会いに来るのはわたしの方だったよ」

楓はなにも言わない。

「来てくれるって約束したのに。毎日電話するって約束したのに」

まだ、なにも言わない。

「嘘つき」

それでも、黙ったまま。

「早く起きてよ楓……いつまで寝てるの?」
「………」

「花見に連れて行ってよ」
「………」

「無視しないでよ!」
「………」

 楓の胸から顔を上げ、背中を向けた。窓の外に見える桜の木は、相変わらず重そうに揺れている。

ふと、楓が前に言っていた言葉を思い出した。

『それ、驚くんだよ、急に帰るってなるやつ』

今日は、驚かせてやろうと思った。

「わたし、帰る」

立ち上がろうとした瞬間――空気が一変した。草花が一斉に芽吹くような、いや、もっと大きなもの。世界が目を覚ますような、強烈な生命の息吹を感じた。そして、体が引き寄せられる。まるで、大波に連れ去られるように、力強く。

「捕まえた」

体中の細胞がその声に、その体温に、反応する。頭のてっぺんから足先まで一気に血が巡り、全身が震える。

「おかえり、楓っ」
「やっと、美月に会えた」

振り返るとそこには、無邪気な笑顔があって、わたしは本気で思ったんだ。これは神様からの誕生日プレゼントだって。