境界線の向こうに眠る

「君、大丈夫?」

顔を上げた瞬間、鮮やかな金色が目に飛び込んできた。オレンジ一色に染め上げられた夕方の商店街に突如現れたその人は、目の前に来ると、手に持ったペットボトルを軽く持ち上げた。

「飲む?」

なにか言わなきゃと思うのに体が固まって声が出せない。とにかく情報が混沌としていて処理しきれないでいる。それもその筈、目の前に立つその人が身に(まと)っている制服は、東風学園のもの。

 ペットボトルにプリントされたいちごの上を、水滴が筋を描いて流れ落ちる。ごくりと唾を飲むと彼は首を傾げた。

「暑くてしんどそうだから、なんか飲んだ方がいいかと思って」

「えっ」と小さな声が漏れる。彼は確認するようにペットボトルを見て「あっ、俺一口飲んでた」と頬を緩めた。

親切で声を掛けてくれているようだし、目つきも悪くない。しかも、東風の男子がいちごみるくなんて甘いものを飲む?――それは、完全な偏見なのだけど。

「大丈夫です」

頭を下げて足を踏み出した瞬間、彼はわたしの手首を掴んだ。

「待って」

 振り払うことなんて簡単なのに足が止まってしまった。彼の手が――あまりにも優しいんだ。会ったばかりの、しかも東風学園の男子。決して関わってはいけない相手なのに、その手から伝わる温もりを拒むことができなかった。手首を掴まれているだけなのに、なぜか守られているような安心感が広がっていく。このままだと吸い込まれてしまいそうで、わたしは彼の手を振りほどいた。

「ごめんなさい、わたし帰ります」

手首をするりと抜き、背中を向けると足早に歩いた。東風の男子と話してしまったことに改めて驚き、心臓が早鐘を打つ。絶対に関わらないと決めていた人とたった今言葉を交わし、しかも手首まで掴まれたなんて事実、到底受け入れられない。歩く速度を上げると後ろから声が聞こえてきた。

「あっ!そっか俺、今日制服だった。怖がらせてた?」

素っ頓狂な問いかけに、思わず足が止まる。会ってからずっとそうだ。おかしな発言ばかりしている。普通、知らない人に自分の飲み物を差し出したりしない。口を付けたなら尚更。でも、それがなんだか面白くて、興味を惹かれてしまったんだ。

 振り返ると強い西日に遮られ、目を細めても目頭を手で覆っても彼の表情は見えない。そのせいだと思う、自然と言葉が出た。

「怖くないよ。それに、制服着てなくてもその髪の色でわかる」

 返ってくる言葉を楽しみにしている自分がいることに気が付く。

 彼が駆け寄ってくるのが見え、やっぱり背中を向けて走り去ろうか迷うけど、屈託のない笑顔と金色に光る髪の毛は、街を一色に染める強い西日さえかすむ程鮮やかで、わたしはそこから一歩も動けなくなった。

 子供の頃、両親に連れて行ってもらったひまわり畑を思い出した。車の窓から見えた、どこまでも続く黄色の景色にワクワクして、それなのに、近づくと太陽よりも存在感のあるひまわりに圧倒され、動けなくなった――。

 「アイス好き?」

彼は、わたしの後ろを指差した。

「あっちにコンビニあるからアイス買おう。俺が一口飲んだジュースよりそっちの方がいいでしょ?」

 彼のペースに飲み込まれて思わず首を縦に振りそうになる。

 東風学園の悪い噂はあとを絶たない。喧嘩やかつあげは当たり前、教師にすら手を出すらしい。東風学園には、まともな生徒はひとりもいないと言われている。“東風の生徒には絶対に関わるな”と、誰もが親からきつく言われている。もちろん、うちも例外ではない。もっとも、言われなくても関わるつもりなんて微塵もなかった。それは、東風学園には不良しかいないから――それだけじゃない。わたし達家族にとって、東風学園は許せない存在なんだ。名前を聞くのも嫌なくらい憎い存在。東風の生徒と関わることは家族を裏切ることに匹敵する。

「帰ります」

 去年の春、わたしのお姉ちゃんは死んだ。バイク事故だった。運転していたのは東風学園の生徒で、お姉ちゃんはその後ろに乗っていた。

 わたしは逃げるようにその場を立ち去った。手首には彼の感触が暫く残っていた。