「ここが美月の部屋だから」
母に案内され色褪せた襖を開くと、そこは八畳程の和室だった。窓の障子戸には謎の茶色いシミが滲んでいる。わたしたちが引っ越ししてきたのは、去年祖母が施設に入り空き家状態になっていた母の実家。父は会社がある為、今まで住んでいた家に残り、日曜祝日の前日に仕事が終わってからこちらに向かい、休み明けの朝早くに向こうに戻るといった生活をするらしい。無理やり引き離されたと思っていたけど、そんな大変な生活をすることを選ぶくらい、わたしを心配していたのだ。
両親を安心させたいと、今は素直にそう思う。楓の誤解は楓が解いてくれると信じて。
窓から外を見ると目の前には山。ここは、前の家から車で二時間は掛かる、よく言えば風光明媚、悪く言えば“ど”が付くほどの田舎。最初は景色に感動しても、三日もいれば飽きてしまう、そんな場所だ。
家の中に蛇が出た話も、コンビニまで歩いて一時間掛かる話も、他人事だから笑って聞けたけど、それが今日から自分の身に降りかかることになる。
畳の上に座ると鞄からスマホを出し、ここの住所を楓に送った。週に一回は必ず会いに来てくれると言ったけれど、ここに着くまでの道のりに、楓と会うにふさわしいような場所はまったくなかった。
かつては多くの人で賑わっていたであろう商店街も、今ではどこを見渡してもシャッターが下りていた。車通りも少なく、空き家も目立つ。時折見かける人は高齢者ばかりだった。しかも、ここからわたしの通う高校までは、自転車でなんと四十分もかかるらしい。
未だこの町で暮らすことに実感がわかないまま、荷物をある程度片付けると外に出た。ここに来て唯一良かったことと言えば自由に外に出られることくらいだ。近くの川に行き、大きな石の上に座るとポケットの中でスマホが震えた。わたしはその場に立ち上がると、急いでポケットから抜き取ろうとするけど、なにかに引っかかりなかなか取れない。楓の声が聞けると思うと慌てずにはいられなかった。
少し落ち着きスマホを取り出すと、元気よく電話に出た。けれど――電話の向こうから聞こえてきたのは女の人の声だった。
「もしもし、あのさ」
わたしは耳からスマホを離すと画面を確認する。そこには確かに“楓”と表示されている。楓が登録したものだ。もう一度スマホを耳に当てると返事をした。
「はい……」
すると、電話の向こうからは、やはり女の人の声が聞こえてくる。
「聞こえてる?」
「はい……」
「ヒロだけど」
ようやく電話の主がわかったのも束の間、次に耳に飛び込んできた言葉に頭の中が真っ白になった。
「楓が意識不明の重体で昨日の夜、病院に運ばれた」
「えっ……」
全身から血の気が引く。楓と一緒にいた昨日の記憶が脳裏を駆け巡る。あの後、楓になにが――。電話の向こうからはヒロさんの震える声が聞こえてくる。その震えが、否応なくこれは現実なのだと突きつけてくる。
「誰かにやられた。あいつがここまでやられる訳ないのに……多分、相当卑怯なやり方で楓をやったんだと思う」
心臓を握りつぶされるような苦しさに息が止まる。
「わたしのせいだ……わたしが楓にもう誰にも暴力を振るわないでってお願いしたから……」
「は?」と息を吐き切るような声が聞こえたあと、耳を切り裂くような声が響いた。
「ふざけんな!!お前みたいな人間がこっちの世界にのこのことやってきて、なにも知らないくせに暴力はやめましょうなんて、当たり前のこと言っていい気になってんじゃねぇよ!!当たり前に生きてきてねぇうちらにお前の常識押し付けんな!!楓には仲間の数だけ敵もいて、だから、楓をやってやろうと思っているやつは常にいて、それでも楓は強いから、自分の身を守れてたんだ!!」
声にならない声が漏れた。知らなかった。わたしはただ、わたしが好きになった楓でいてほしくて、楓に暴力なんて使ってほしくなくてそれで――。
ヒロさんの低く静かな声が聞こえてくる。
「楓から暴力を奪うってことは、楓を殺すってことなんだよ。もう、楓に関わんな。うちらの前に二度と現れんな。楓が強いことで守られていた町の治安がお前のせいで悪くなる。いいか?もしも目の前に現れたら、わたしがお前を殺すから」
電話が切れ、わたしはその場に膝から崩れ落ちた。ヒロさんの言葉が胸に深く突き刺さったまま、そこに留まる。
暴力を振るうことは間違っていて、暴力を振るわないことが正しい。そんな常識が、環境が違えば反対になってしまうことがあるなんて、知らなかった。
自分が間違っていたことはわかっている。そのせいで楓をそんな目に遭わせてしまったことも。それでも、今すぐにでも、楓のところに行きたい。
楓のスマホに電話を掛けた。でも、ヒロさんが出てくれることはなかった。楓が運ばれたであろう病院を調べ、片っ端から電話を掛けた。どこに掛けても「申し訳ありませんが、患者さんの情報についてはお答えできません」という返事がくるだけだった。
後悔と絶望が押し寄せた。なんで条件付きにしなかったのだろう……。自分を守る為なら、暴力を振るってもいいことにすればよかった。やむを得ない場合は、仕方がないことにすればよかった。後悔ばかりが繰り返される。だからあの時――と思い出す。暴力を振るわないでとお願いした時、楓の表情は硬かった。すぐに返事はくれなくて、人に暴力を振るわないなんて当然のことをお願いしただけなのに、それとは思えない重い空気が漂っていた。
『楓から暴力を奪うってことは、楓を殺すってことなんだよ』
わたしはとんでもないお願いをしていた。そして、楓はその約束を守った。
意識不明の重体――その言葉が何度も頭を駆け巡る。もしも楓が死んでしまったら――そんなことを考えると恐ろしくて仕方がなくなる。楓が生きてくれるなら、この身にどんな不幸が降りかかってもいいと神様に願う。
なんで、楓が攻撃される可能性を考えなかったのだろう。それがわかっていたら、自分の身を守る為の暴力は必要だと話していたのに。後悔に支配された思考は、どこまでも愚かな方向へと向かう。
お母さんがあんな風になっていなかったら、お姉ちゃんが死んでいなかったら、わたしが生まれていなかったら――あの日、わたしがベランダにいることはなかった。わたしに出会わなければ、楓はこんな目に遭っていなかった。
前に自分が楓に言った言葉を思い出し、頭を強くかきむしった。
『もう、苦しまないでよ、楓が苦しいとわたしも辛いから』
バイク事故のことで苦しんでいる楓に言った言葉。苦しんでいる楓を見ているのが辛くて、でも、その辛さから自分が解放されたくて言った訳じゃない。そう話せば、楓の気持ちが少しは楽になると思って言った。
苦しまないでいられる筈がない。一生、残り続けるに決まっている。二人はもう、戻っては来ないのだから。
もしも楓が死んでしまったら、この後悔が消えることは絶対にない。ましてや、人の言葉なんかで消える筈がない。もう苦しまないでと言われても返事のしようがない。
あの時、「もう苦しまないで」と言ったわたしの頭を楓は撫でた。わたしはそれを勝手に返事と捉えた。楓は返事ができない代わりに、わたしの頭を撫でたんだ。安心させる為に。なにもわかっていなかった。自分がこうなるまで、そんなこともわからなかった。
母に案内され色褪せた襖を開くと、そこは八畳程の和室だった。窓の障子戸には謎の茶色いシミが滲んでいる。わたしたちが引っ越ししてきたのは、去年祖母が施設に入り空き家状態になっていた母の実家。父は会社がある為、今まで住んでいた家に残り、日曜祝日の前日に仕事が終わってからこちらに向かい、休み明けの朝早くに向こうに戻るといった生活をするらしい。無理やり引き離されたと思っていたけど、そんな大変な生活をすることを選ぶくらい、わたしを心配していたのだ。
両親を安心させたいと、今は素直にそう思う。楓の誤解は楓が解いてくれると信じて。
窓から外を見ると目の前には山。ここは、前の家から車で二時間は掛かる、よく言えば風光明媚、悪く言えば“ど”が付くほどの田舎。最初は景色に感動しても、三日もいれば飽きてしまう、そんな場所だ。
家の中に蛇が出た話も、コンビニまで歩いて一時間掛かる話も、他人事だから笑って聞けたけど、それが今日から自分の身に降りかかることになる。
畳の上に座ると鞄からスマホを出し、ここの住所を楓に送った。週に一回は必ず会いに来てくれると言ったけれど、ここに着くまでの道のりに、楓と会うにふさわしいような場所はまったくなかった。
かつては多くの人で賑わっていたであろう商店街も、今ではどこを見渡してもシャッターが下りていた。車通りも少なく、空き家も目立つ。時折見かける人は高齢者ばかりだった。しかも、ここからわたしの通う高校までは、自転車でなんと四十分もかかるらしい。
未だこの町で暮らすことに実感がわかないまま、荷物をある程度片付けると外に出た。ここに来て唯一良かったことと言えば自由に外に出られることくらいだ。近くの川に行き、大きな石の上に座るとポケットの中でスマホが震えた。わたしはその場に立ち上がると、急いでポケットから抜き取ろうとするけど、なにかに引っかかりなかなか取れない。楓の声が聞けると思うと慌てずにはいられなかった。
少し落ち着きスマホを取り出すと、元気よく電話に出た。けれど――電話の向こうから聞こえてきたのは女の人の声だった。
「もしもし、あのさ」
わたしは耳からスマホを離すと画面を確認する。そこには確かに“楓”と表示されている。楓が登録したものだ。もう一度スマホを耳に当てると返事をした。
「はい……」
すると、電話の向こうからは、やはり女の人の声が聞こえてくる。
「聞こえてる?」
「はい……」
「ヒロだけど」
ようやく電話の主がわかったのも束の間、次に耳に飛び込んできた言葉に頭の中が真っ白になった。
「楓が意識不明の重体で昨日の夜、病院に運ばれた」
「えっ……」
全身から血の気が引く。楓と一緒にいた昨日の記憶が脳裏を駆け巡る。あの後、楓になにが――。電話の向こうからはヒロさんの震える声が聞こえてくる。その震えが、否応なくこれは現実なのだと突きつけてくる。
「誰かにやられた。あいつがここまでやられる訳ないのに……多分、相当卑怯なやり方で楓をやったんだと思う」
心臓を握りつぶされるような苦しさに息が止まる。
「わたしのせいだ……わたしが楓にもう誰にも暴力を振るわないでってお願いしたから……」
「は?」と息を吐き切るような声が聞こえたあと、耳を切り裂くような声が響いた。
「ふざけんな!!お前みたいな人間がこっちの世界にのこのことやってきて、なにも知らないくせに暴力はやめましょうなんて、当たり前のこと言っていい気になってんじゃねぇよ!!当たり前に生きてきてねぇうちらにお前の常識押し付けんな!!楓には仲間の数だけ敵もいて、だから、楓をやってやろうと思っているやつは常にいて、それでも楓は強いから、自分の身を守れてたんだ!!」
声にならない声が漏れた。知らなかった。わたしはただ、わたしが好きになった楓でいてほしくて、楓に暴力なんて使ってほしくなくてそれで――。
ヒロさんの低く静かな声が聞こえてくる。
「楓から暴力を奪うってことは、楓を殺すってことなんだよ。もう、楓に関わんな。うちらの前に二度と現れんな。楓が強いことで守られていた町の治安がお前のせいで悪くなる。いいか?もしも目の前に現れたら、わたしがお前を殺すから」
電話が切れ、わたしはその場に膝から崩れ落ちた。ヒロさんの言葉が胸に深く突き刺さったまま、そこに留まる。
暴力を振るうことは間違っていて、暴力を振るわないことが正しい。そんな常識が、環境が違えば反対になってしまうことがあるなんて、知らなかった。
自分が間違っていたことはわかっている。そのせいで楓をそんな目に遭わせてしまったことも。それでも、今すぐにでも、楓のところに行きたい。
楓のスマホに電話を掛けた。でも、ヒロさんが出てくれることはなかった。楓が運ばれたであろう病院を調べ、片っ端から電話を掛けた。どこに掛けても「申し訳ありませんが、患者さんの情報についてはお答えできません」という返事がくるだけだった。
後悔と絶望が押し寄せた。なんで条件付きにしなかったのだろう……。自分を守る為なら、暴力を振るってもいいことにすればよかった。やむを得ない場合は、仕方がないことにすればよかった。後悔ばかりが繰り返される。だからあの時――と思い出す。暴力を振るわないでとお願いした時、楓の表情は硬かった。すぐに返事はくれなくて、人に暴力を振るわないなんて当然のことをお願いしただけなのに、それとは思えない重い空気が漂っていた。
『楓から暴力を奪うってことは、楓を殺すってことなんだよ』
わたしはとんでもないお願いをしていた。そして、楓はその約束を守った。
意識不明の重体――その言葉が何度も頭を駆け巡る。もしも楓が死んでしまったら――そんなことを考えると恐ろしくて仕方がなくなる。楓が生きてくれるなら、この身にどんな不幸が降りかかってもいいと神様に願う。
なんで、楓が攻撃される可能性を考えなかったのだろう。それがわかっていたら、自分の身を守る為の暴力は必要だと話していたのに。後悔に支配された思考は、どこまでも愚かな方向へと向かう。
お母さんがあんな風になっていなかったら、お姉ちゃんが死んでいなかったら、わたしが生まれていなかったら――あの日、わたしがベランダにいることはなかった。わたしに出会わなければ、楓はこんな目に遭っていなかった。
前に自分が楓に言った言葉を思い出し、頭を強くかきむしった。
『もう、苦しまないでよ、楓が苦しいとわたしも辛いから』
バイク事故のことで苦しんでいる楓に言った言葉。苦しんでいる楓を見ているのが辛くて、でも、その辛さから自分が解放されたくて言った訳じゃない。そう話せば、楓の気持ちが少しは楽になると思って言った。
苦しまないでいられる筈がない。一生、残り続けるに決まっている。二人はもう、戻っては来ないのだから。
もしも楓が死んでしまったら、この後悔が消えることは絶対にない。ましてや、人の言葉なんかで消える筈がない。もう苦しまないでと言われても返事のしようがない。
あの時、「もう苦しまないで」と言ったわたしの頭を楓は撫でた。わたしはそれを勝手に返事と捉えた。楓は返事ができない代わりに、わたしの頭を撫でたんだ。安心させる為に。なにもわかっていなかった。自分がこうなるまで、そんなこともわからなかった。

