楓が顔を上げると店主の女性が声を掛けてきた。
「ねぇ、大雨で電車止まってるって」
「えっ!」
わたしたちは同時に窓の外を見た。道路には大きな水たまりが複数できている。
「楓、バイクで帰るの?」
「雨降るって言ってたから、ここまで電車で来たんだけど⋯⋯とりあえず美月のこと送っていくよ。歩きだけど」
楓は時間を確認すると「急がないと門限過ぎる」そう言って立ち上がるけど、わたしは座ったまま動けないでいる。
「待って楓、まだ話していないことがあるの」
楓はスマホを指差す。
「後で電話で話せばいいんじゃない?」
わたしは首を横に振るとすべての事情を楓に話した。
ずっと、束縛されていて楓に会えなかったこと、今日、父から逃げて楓のところに来たこと、明日にはこの町を離れること。わたしの話を聞く楓の表情は見る見る気落ちしていった。
「だから、今、家に帰ったらもう楓と会えなくなっちゃう」
楓がなにか言おうとしたその時、店主がまた、声を掛けてきた。
「楓くん、どうやって帰るの?多分タクシーも掴まらないよ。わたしが二人を家まで送って行こうか?」
「それ、最高!」
「家はどこらへん?」
「美月が桜雅で俺が青葉野」
「じゃあ、楓くんから送っていくよ。この様子だとお客さんも来ないし、お店閉める準備するから待ってて」
楓はテーブルの上のグラスをカウンターへ持って行く。わたしは窓の外を見ながら楓との時間を惜しんでいた。
楓は戻ってくるとわたしの隣に座った。
「引っ越し先がわかったら教えて。どんなに遠くても時間見つけて美月に会いに行くから」
楓の言葉は嬉しかった。でも、離れてしまうことがどうしても嫌で、このままずっと楓の傍にいたくて、その方法がないのかを考えても見つからなくて。だからわたしは返事をすることができなかった。
車を取りに行っていた店主が店に戻り、わたしたちはそれぞれの家に送ってもらう為、車に乗り込んだ。
雨は視界を奪う程激しく降っていて、車内は緊張感に包まれる。
「酷い雨だね、これ以上怖くてスピードが出せないよ」
どこかに飛んでいきそうになるくらいワイパーは激しく動いているのに、雨に追いつかず時折視界がゼロになる。こんな状況だから仕方がないのに、後ろからクラクションが鳴らされてしまう。その音に驚いた店主がブレーキを踏んでしまったからあおり運転がスタートした。
稲光のように後ろの車のライトが車内に差し込んでくる。楓は焦る店主を落ち着かせるようにのんびりとした口調で話す。
「気にしなくていいよ。もっとゆっくり走っちゃって大丈夫」
「赤信号で停まったら降りてきたりしないかな?」
「その時は車のカギ閉めて、ずぶ濡れになっていくそいつを全員で指差して笑えばいい」
なんでそんなことがすぐに思いつくのだろう。想像したら可笑しくて思わず笑ってしまった。
おそらく二十分もあれば着く道のりを三十分以上掛けてようやく楓の住むアパートに着いた。
「ちょっと申し訳ないんだけどね」
店主はそう話すと、シートベルトを外し後部座席に座るわたしを見る。
「はい」
「この天気だし、もしものことがあるといけないから、親御さんに迎えに来てもらえない?よそ様のお嬢さんになにかあったら責任取れないから。ごめんね、お店出る前にそう言えば良かったんだけど、まさかここまで酷い天気だと思わなくて」
わたしより先に楓が返事をした。
「わかった。とりあえず美月、うちにおいで」
これは完全なる不可抗力だ。わたしたちは店主にお礼を言うと車を降りた。楓はおぼつかない運転で遠ざかっていく車を見ながら「大丈夫かな?」と首を傾げるとアパートの階段を上る。「わたし、入っていいの?」と気を使ったつもりで言ってみるけれど「一人暮らしだけどエロいものは隠しておく派だから大丈夫」などと考えてもなかった言葉が返ってくるから焦ってしまう。
「そ、そんなの心配してないよ。ただ、散らかってるんじゃないかなって。予定になかったわけだし」
楓は振り返ると吹き出すように笑って、鞄から鍵を取り出すと二〇一号室のドアを開けた。
玄関で靴を脱ぐとグレーの傘が目に入った。
「この傘、前にわたしに貸してくれたやつ。楓のだったの?」
「そう」
「えっ?じゃあ楓はどうやって帰ったの?」
「ずぶ濡れになって?」
「えっ!だって、お店に傘いっぱいあるって言ってたよね?」
「あれは……嘘。傘貸したら、また会えるかなって」
屈託のない笑顔を向けられ、もう、笑うしかなかった。
楓の部屋は、男子高校生の一人暮らしとは思えない程片付いていた。
「えっ!綺麗!いつもこんなに綺麗にしてるの?」
「まぁ」
派手な楓とは正反対の白とグレーに統一された部屋には、ここが古いアパートの一室であることを忘れさせるくらい整頓されていて清潔だった。そして、“寝にかえるだけ”と前に話していた通り、部屋にはテーブルと二人掛けのソファー、それとベッドがあるだけだった。
ソファーに座ると周りを見渡した。どこを見ても脱ぎっぱなしの服や靴下などはない。ベッドの掛け布団はきちんと整えられていて、これは見習わなくてはと思った。ふと、バイクのオイル交換をしていた時の楓を思い出す。部屋が綺麗なのも頷ける。あんなに几帳面に仕事をする人の部屋が、散らかっている筈がない。
「ねぇ楓、わたしね」
お姉ちゃんの話をしようとした。楓はわたしの隣に座ると「ちょっと待って」と話を止める。
「家に連絡した方がいい」
わたしは首を横に振った。
「こんな天気だし、凄く心配してるから」
「そんなの放っておけばいい。いくら楓のことを説明しても二人ともわかろうとしてくれなかった。わたしの気持ちなんて無視して、自由を奪って楓から無理やり引き離して……もう、帰りたくないよ、あんな親のところに」
「それでも、お願いだから連絡して。美月の両親の気持ちを思うと俺がね、気が気じゃないの」
なんで楓はこうなんだろう。わたしと一緒になって両親のこと敵扱いにして一層駆け落ちでもしてくれたらいいのに。こんなことを言われたら電話しないわけにはいかなくなってしまう。
「わかった」
楓は自分のスマホを差し出す。
「こっちで掛けたほうがいい」
その言葉に頷くと父に電話を掛けた。三コール目で父は電話に出た。
「もしもし……美月だけど」
「今、どこにいるんだ」
電話の向こうの声は意外にも落ち着いている。
「雨で電車が停まって……」
「あいつのところか」
「ごめん、お父さんわたし帰れない。だって明日には引っ越すんでしょ?嫌だよそんなの。引っ越すのやめてくれるんだったら帰る。でも、やめてくれないなら一生帰らない」
楓が焦った様子で話に入ってくる。
「なに言ってるんだよ美月」
「だって」
電話の向こうから怒った父の声が聞こえてくる。
「いい加減にしなさい!今、どこにいる?迎えに行くから言いなさい!」
「楓から、お父さんたちが心配してるから電話するように言われて電話したんだよ。わたしはお父さんたちが心配しようとどうでもよかったのに」
「いいからどこにいるか言いなさい!」
「いいからってなによ!楓は悪い人じゃない!」
わたしは電話を切ると、電源ボタンを長押しした。
「なにやってんの美月」
「電源切ってるの!」
わたしの手からスマホを奪おうとする楓の手を振り払うと、その胸に顔を埋めた。
「楓が悪いんだよ。わたしの前に現れたから」
楓はわたしをなだめるように背中を擦る。
「そうだね、全部俺が悪い。だから、美月のことは絶対に幸せにしたいの。その為には両親と仲良くならないと」
目の前しか見えていないわたしと違って、楓はこれから訪れる未来を見ている。「貫きたかったら両親を大切にしな」と言った理沙ちゃんのあの言葉も、今すぐのことを言っていたわけじゃない。それを続けていれば、いずれ認めてもらえる日が来るという意味だったんだ。親と仲良くすることも、親を大切にすることも、結局は親の言うことを聞くことが前提なわけで。わかっている。未来の自分の為に、今は我慢をした方がいいことくらい。でも、楓が悪い人じゃないと、両親がわかってくれる未来はくるのだろうか。
わたしは楓の胸から顔を上げた。
「うちの両親は楓のことをずっと悪い人扱いするかもしれない。いつまでもわかってもらえないかもしれないよ」
「大丈夫。俺、いい加減な生き方はしないから。どこまでも真っ当に生きるよ。美月の気持ちが俺から離れなければ……」
少しの間があって、その後楓は「だから、わかってもらえる日は必ずくるよ」と言った。
“美月の気持ちが離れなければ”その言葉を聞いて、ヒロさんが言っていたことを思い出した。
「わたしの気持ちが楓から離れたと思ったから喧嘩したの?」
「えっ?」
「ヒロさんから聞いたよ、楓が喧嘩したって。手加減しないからみんなで止めたって」
楓は少し黙って、それから言いにくそうに話した。
「情けないけど俺、美月がいないと駄目になるみたいで。美月の気持ちが俺から離れたと思ったら全部どうでもよくなって⋯⋯」
楓のことを強い人だと思っていた。だから、わたしのことでそんな風になってしまうなんて想像もしていなかった。
「絡まれて、それがやけに鬱陶しく感じて。自分から手出して。気が付いたらヒロに思いっきり蹴り飛ばされてた」
「えっ?みんなに止められたんじゃないの?」
「そうだったかもしれないけど、最終的にはあいつから飛び蹴り食らって」
楓は背中を向けるとおもむろにTシャツを捲った。そこには打撲した跡がはっきりと残っている。
「えっ!ヒロさんから蹴られてこうなったの?」
「ヤバいでしょ?これくらわせてくるやつを女として見るの難し過ぎるでしょ」
楓はTシャツを下ろすと顔をしかめた。そして、わたしから目線を逸らすとうつむく。
「まぁ、このくらいやらないと止められなかったんだろうから、感謝してるんだけど。もう⋯⋯あんな風にならない自信あったのに、美月を失ったと思ったら余裕なくなって⋯⋯ごめん、格好悪くて」
楓はわたしに会えなくても、立ち止まることなく忙しい毎日を過ごしているのだと思っていた。たくさんの人に囲まれ、いつもと同じ顔で笑っているのだと思っていた。でも、違った。
楓を抱きしめた。楓はもたれ掛かるようにわたしを抱きしめる。支えきれず、体がソファーに倒れわたしたちの体が重なる。
「美月に会いたかった」
わたしの首に顔を埋め、静かに呼吸をしている楓。さっきまで大人だったのに、今は怖い夢でも見た子供みたいにしがみついていて離れようとしない。楓の心の痛みが伝わってくる。
「楓、大丈夫だよ。わたしの気持ちが楓から離れることは絶対にないから。だから、もう誰かに暴力を振るったりしないで。お願い」
少しして、楓はわたしの体をソファーから起こすと「約束するよ」そう言ってくれた。
わたしが好きになった楓でいてくれることに安心した。けれど、楓の表情に影が潜んでいる。わたしが楓にお願いしたのは、なにも特別なことじゃない。人に暴力を振るわないなんて、当たり前のことだ。それなのに、どうしてだろう。重い空気が漂っている。まるでわたしが難しいことをお願いしたみたいに。そしてなにより、楓が返事をするまでに少し時間があった。
「ねぇ楓?」
楓はソファーから立ち上がると窓を開ける。
「星が出てるよ、美月」
こっちにおいで、というように楓がわたしを見る。
「本当?」
まだ、胸に引っかかるものがあって、でも、それを気にしている時間がもったいなかった。
楓の隣に行くと、さっきまであれほど雨が降っていたのが嘘みたいに外は静かで、夜空を星が彩っていた。楓は空を見上げながら話し始めた。
「俺、美月に両親がいて、本当に良かったと思ってる。向こうは不愉快だったと思うけど、それでも俺はね、美月の原点だから、会えて嬉しかったんだ。あの二人がいたからこうして美月は存在していて。それを思うと感謝の気持ちでいっぱいになる。美月を大切に思うのと同じで、美月の両親も俺にとっては大切なんだよ。今はまだ、美月の両親に認めてはもらえないけど、時間は掛かっても俺は必ず結果を出す。だから信じてくれないかな」
わたしは、どうすれば楓と離れないで済むのかばかりを考えていた。それでも答えは見つからなくて、両親を捨てて楓と一緒になるという一番乱暴な答えを出した。そんなわたしに楓は教えてくれた。温かくて優しくて、そして芯のある強い言葉で。誰も不幸にならない道があることを、教えてくれた。
「楓……ありがとう」
胸がいっぱいで、それしか言えなかった。
涙が零れてしまわないように夜空に広がる星を見ていると、無性にお姉ちゃんに会いたくなった。そして、五十川琉依がどんな人だったのかを知りたくなった。
「楓、五十川琉依ってどんな人だったの?」
楓は静かに窓を閉めると「今から東風に行こうか。そこに琉依がいるから」と話す。どういうことか全然わからなかったけど、首を縦に振った。
「ねぇ、大雨で電車止まってるって」
「えっ!」
わたしたちは同時に窓の外を見た。道路には大きな水たまりが複数できている。
「楓、バイクで帰るの?」
「雨降るって言ってたから、ここまで電車で来たんだけど⋯⋯とりあえず美月のこと送っていくよ。歩きだけど」
楓は時間を確認すると「急がないと門限過ぎる」そう言って立ち上がるけど、わたしは座ったまま動けないでいる。
「待って楓、まだ話していないことがあるの」
楓はスマホを指差す。
「後で電話で話せばいいんじゃない?」
わたしは首を横に振るとすべての事情を楓に話した。
ずっと、束縛されていて楓に会えなかったこと、今日、父から逃げて楓のところに来たこと、明日にはこの町を離れること。わたしの話を聞く楓の表情は見る見る気落ちしていった。
「だから、今、家に帰ったらもう楓と会えなくなっちゃう」
楓がなにか言おうとしたその時、店主がまた、声を掛けてきた。
「楓くん、どうやって帰るの?多分タクシーも掴まらないよ。わたしが二人を家まで送って行こうか?」
「それ、最高!」
「家はどこらへん?」
「美月が桜雅で俺が青葉野」
「じゃあ、楓くんから送っていくよ。この様子だとお客さんも来ないし、お店閉める準備するから待ってて」
楓はテーブルの上のグラスをカウンターへ持って行く。わたしは窓の外を見ながら楓との時間を惜しんでいた。
楓は戻ってくるとわたしの隣に座った。
「引っ越し先がわかったら教えて。どんなに遠くても時間見つけて美月に会いに行くから」
楓の言葉は嬉しかった。でも、離れてしまうことがどうしても嫌で、このままずっと楓の傍にいたくて、その方法がないのかを考えても見つからなくて。だからわたしは返事をすることができなかった。
車を取りに行っていた店主が店に戻り、わたしたちはそれぞれの家に送ってもらう為、車に乗り込んだ。
雨は視界を奪う程激しく降っていて、車内は緊張感に包まれる。
「酷い雨だね、これ以上怖くてスピードが出せないよ」
どこかに飛んでいきそうになるくらいワイパーは激しく動いているのに、雨に追いつかず時折視界がゼロになる。こんな状況だから仕方がないのに、後ろからクラクションが鳴らされてしまう。その音に驚いた店主がブレーキを踏んでしまったからあおり運転がスタートした。
稲光のように後ろの車のライトが車内に差し込んでくる。楓は焦る店主を落ち着かせるようにのんびりとした口調で話す。
「気にしなくていいよ。もっとゆっくり走っちゃって大丈夫」
「赤信号で停まったら降りてきたりしないかな?」
「その時は車のカギ閉めて、ずぶ濡れになっていくそいつを全員で指差して笑えばいい」
なんでそんなことがすぐに思いつくのだろう。想像したら可笑しくて思わず笑ってしまった。
おそらく二十分もあれば着く道のりを三十分以上掛けてようやく楓の住むアパートに着いた。
「ちょっと申し訳ないんだけどね」
店主はそう話すと、シートベルトを外し後部座席に座るわたしを見る。
「はい」
「この天気だし、もしものことがあるといけないから、親御さんに迎えに来てもらえない?よそ様のお嬢さんになにかあったら責任取れないから。ごめんね、お店出る前にそう言えば良かったんだけど、まさかここまで酷い天気だと思わなくて」
わたしより先に楓が返事をした。
「わかった。とりあえず美月、うちにおいで」
これは完全なる不可抗力だ。わたしたちは店主にお礼を言うと車を降りた。楓はおぼつかない運転で遠ざかっていく車を見ながら「大丈夫かな?」と首を傾げるとアパートの階段を上る。「わたし、入っていいの?」と気を使ったつもりで言ってみるけれど「一人暮らしだけどエロいものは隠しておく派だから大丈夫」などと考えてもなかった言葉が返ってくるから焦ってしまう。
「そ、そんなの心配してないよ。ただ、散らかってるんじゃないかなって。予定になかったわけだし」
楓は振り返ると吹き出すように笑って、鞄から鍵を取り出すと二〇一号室のドアを開けた。
玄関で靴を脱ぐとグレーの傘が目に入った。
「この傘、前にわたしに貸してくれたやつ。楓のだったの?」
「そう」
「えっ?じゃあ楓はどうやって帰ったの?」
「ずぶ濡れになって?」
「えっ!だって、お店に傘いっぱいあるって言ってたよね?」
「あれは……嘘。傘貸したら、また会えるかなって」
屈託のない笑顔を向けられ、もう、笑うしかなかった。
楓の部屋は、男子高校生の一人暮らしとは思えない程片付いていた。
「えっ!綺麗!いつもこんなに綺麗にしてるの?」
「まぁ」
派手な楓とは正反対の白とグレーに統一された部屋には、ここが古いアパートの一室であることを忘れさせるくらい整頓されていて清潔だった。そして、“寝にかえるだけ”と前に話していた通り、部屋にはテーブルと二人掛けのソファー、それとベッドがあるだけだった。
ソファーに座ると周りを見渡した。どこを見ても脱ぎっぱなしの服や靴下などはない。ベッドの掛け布団はきちんと整えられていて、これは見習わなくてはと思った。ふと、バイクのオイル交換をしていた時の楓を思い出す。部屋が綺麗なのも頷ける。あんなに几帳面に仕事をする人の部屋が、散らかっている筈がない。
「ねぇ楓、わたしね」
お姉ちゃんの話をしようとした。楓はわたしの隣に座ると「ちょっと待って」と話を止める。
「家に連絡した方がいい」
わたしは首を横に振った。
「こんな天気だし、凄く心配してるから」
「そんなの放っておけばいい。いくら楓のことを説明しても二人ともわかろうとしてくれなかった。わたしの気持ちなんて無視して、自由を奪って楓から無理やり引き離して……もう、帰りたくないよ、あんな親のところに」
「それでも、お願いだから連絡して。美月の両親の気持ちを思うと俺がね、気が気じゃないの」
なんで楓はこうなんだろう。わたしと一緒になって両親のこと敵扱いにして一層駆け落ちでもしてくれたらいいのに。こんなことを言われたら電話しないわけにはいかなくなってしまう。
「わかった」
楓は自分のスマホを差し出す。
「こっちで掛けたほうがいい」
その言葉に頷くと父に電話を掛けた。三コール目で父は電話に出た。
「もしもし……美月だけど」
「今、どこにいるんだ」
電話の向こうの声は意外にも落ち着いている。
「雨で電車が停まって……」
「あいつのところか」
「ごめん、お父さんわたし帰れない。だって明日には引っ越すんでしょ?嫌だよそんなの。引っ越すのやめてくれるんだったら帰る。でも、やめてくれないなら一生帰らない」
楓が焦った様子で話に入ってくる。
「なに言ってるんだよ美月」
「だって」
電話の向こうから怒った父の声が聞こえてくる。
「いい加減にしなさい!今、どこにいる?迎えに行くから言いなさい!」
「楓から、お父さんたちが心配してるから電話するように言われて電話したんだよ。わたしはお父さんたちが心配しようとどうでもよかったのに」
「いいからどこにいるか言いなさい!」
「いいからってなによ!楓は悪い人じゃない!」
わたしは電話を切ると、電源ボタンを長押しした。
「なにやってんの美月」
「電源切ってるの!」
わたしの手からスマホを奪おうとする楓の手を振り払うと、その胸に顔を埋めた。
「楓が悪いんだよ。わたしの前に現れたから」
楓はわたしをなだめるように背中を擦る。
「そうだね、全部俺が悪い。だから、美月のことは絶対に幸せにしたいの。その為には両親と仲良くならないと」
目の前しか見えていないわたしと違って、楓はこれから訪れる未来を見ている。「貫きたかったら両親を大切にしな」と言った理沙ちゃんのあの言葉も、今すぐのことを言っていたわけじゃない。それを続けていれば、いずれ認めてもらえる日が来るという意味だったんだ。親と仲良くすることも、親を大切にすることも、結局は親の言うことを聞くことが前提なわけで。わかっている。未来の自分の為に、今は我慢をした方がいいことくらい。でも、楓が悪い人じゃないと、両親がわかってくれる未来はくるのだろうか。
わたしは楓の胸から顔を上げた。
「うちの両親は楓のことをずっと悪い人扱いするかもしれない。いつまでもわかってもらえないかもしれないよ」
「大丈夫。俺、いい加減な生き方はしないから。どこまでも真っ当に生きるよ。美月の気持ちが俺から離れなければ……」
少しの間があって、その後楓は「だから、わかってもらえる日は必ずくるよ」と言った。
“美月の気持ちが離れなければ”その言葉を聞いて、ヒロさんが言っていたことを思い出した。
「わたしの気持ちが楓から離れたと思ったから喧嘩したの?」
「えっ?」
「ヒロさんから聞いたよ、楓が喧嘩したって。手加減しないからみんなで止めたって」
楓は少し黙って、それから言いにくそうに話した。
「情けないけど俺、美月がいないと駄目になるみたいで。美月の気持ちが俺から離れたと思ったら全部どうでもよくなって⋯⋯」
楓のことを強い人だと思っていた。だから、わたしのことでそんな風になってしまうなんて想像もしていなかった。
「絡まれて、それがやけに鬱陶しく感じて。自分から手出して。気が付いたらヒロに思いっきり蹴り飛ばされてた」
「えっ?みんなに止められたんじゃないの?」
「そうだったかもしれないけど、最終的にはあいつから飛び蹴り食らって」
楓は背中を向けるとおもむろにTシャツを捲った。そこには打撲した跡がはっきりと残っている。
「えっ!ヒロさんから蹴られてこうなったの?」
「ヤバいでしょ?これくらわせてくるやつを女として見るの難し過ぎるでしょ」
楓はTシャツを下ろすと顔をしかめた。そして、わたしから目線を逸らすとうつむく。
「まぁ、このくらいやらないと止められなかったんだろうから、感謝してるんだけど。もう⋯⋯あんな風にならない自信あったのに、美月を失ったと思ったら余裕なくなって⋯⋯ごめん、格好悪くて」
楓はわたしに会えなくても、立ち止まることなく忙しい毎日を過ごしているのだと思っていた。たくさんの人に囲まれ、いつもと同じ顔で笑っているのだと思っていた。でも、違った。
楓を抱きしめた。楓はもたれ掛かるようにわたしを抱きしめる。支えきれず、体がソファーに倒れわたしたちの体が重なる。
「美月に会いたかった」
わたしの首に顔を埋め、静かに呼吸をしている楓。さっきまで大人だったのに、今は怖い夢でも見た子供みたいにしがみついていて離れようとしない。楓の心の痛みが伝わってくる。
「楓、大丈夫だよ。わたしの気持ちが楓から離れることは絶対にないから。だから、もう誰かに暴力を振るったりしないで。お願い」
少しして、楓はわたしの体をソファーから起こすと「約束するよ」そう言ってくれた。
わたしが好きになった楓でいてくれることに安心した。けれど、楓の表情に影が潜んでいる。わたしが楓にお願いしたのは、なにも特別なことじゃない。人に暴力を振るわないなんて、当たり前のことだ。それなのに、どうしてだろう。重い空気が漂っている。まるでわたしが難しいことをお願いしたみたいに。そしてなにより、楓が返事をするまでに少し時間があった。
「ねぇ楓?」
楓はソファーから立ち上がると窓を開ける。
「星が出てるよ、美月」
こっちにおいで、というように楓がわたしを見る。
「本当?」
まだ、胸に引っかかるものがあって、でも、それを気にしている時間がもったいなかった。
楓の隣に行くと、さっきまであれほど雨が降っていたのが嘘みたいに外は静かで、夜空を星が彩っていた。楓は空を見上げながら話し始めた。
「俺、美月に両親がいて、本当に良かったと思ってる。向こうは不愉快だったと思うけど、それでも俺はね、美月の原点だから、会えて嬉しかったんだ。あの二人がいたからこうして美月は存在していて。それを思うと感謝の気持ちでいっぱいになる。美月を大切に思うのと同じで、美月の両親も俺にとっては大切なんだよ。今はまだ、美月の両親に認めてはもらえないけど、時間は掛かっても俺は必ず結果を出す。だから信じてくれないかな」
わたしは、どうすれば楓と離れないで済むのかばかりを考えていた。それでも答えは見つからなくて、両親を捨てて楓と一緒になるという一番乱暴な答えを出した。そんなわたしに楓は教えてくれた。温かくて優しくて、そして芯のある強い言葉で。誰も不幸にならない道があることを、教えてくれた。
「楓……ありがとう」
胸がいっぱいで、それしか言えなかった。
涙が零れてしまわないように夜空に広がる星を見ていると、無性にお姉ちゃんに会いたくなった。そして、五十川琉依がどんな人だったのかを知りたくなった。
「楓、五十川琉依ってどんな人だったの?」
楓は静かに窓を閉めると「今から東風に行こうか。そこに琉依がいるから」と話す。どういうことか全然わからなかったけど、首を縦に振った。

