境界線の向こうに眠る

「美月!」
「楓に会いにきた」

楓はわたしに駆け寄ると突然――「捕まえた」そう言って、人目も憚らず腕の中に引き込んだ。その温かい胸に顔を埋める。安心感に包まれ、ようやく居場所に辿り着いた心は眠るように静かになる。

「美月、もう少しでバイト終わるから、この前行った喫茶店で待ってて」
「うん」

 喫茶店に行くと、店主に後で楓が来ることを伝え、この前と同じ席に座った。抱きしめられた感触がまだ残る体で、楓が来るのを待つ時間はとても幸せで、だから明日、楓がいるこの町を出て行かなければならない現実が際立って残酷に感じた。

 窓の外に目線を移すと、ここから見える町の風景を目に焼き付けた。

 しばらく外を眺めていると店のドアが開く。楓の姿を見た瞬間、感傷に浸っていたのが嘘のように、目の前がぱっと明るくなる。楓はカウンターの前で飲み物を注文すると、早足でわたしのところに来た。

「お待たせ」
「お疲れ様です」

頭を下げると楓はふっと笑い、鞄からスマホを取り出した。

「これ、美月に」

楓は長い手を伸ばし、それをわたしの前に置いた。

「えっ?スマホ?」
「プレゼント?ではないか、俺が必要だから美月に持っていてほしいの。この前、ヒロから全部聞いた。スマホないんでしょ?」
「うん」

飲み物が届き、一口飲むと楓は「本当はね」と話を切り出した。

「すぐにそのスマホ美月に届けようと思ったんだよ。でも、やっぱりいけなかった」
「なんで?わたし、毎日楓が来ないかベランダに出て、バイクのエンジン音が聞こえる度に楓かもって……待ってたんだよ」

短い沈黙が生まれる。外からは突然、激しい雨の音が聞こえてくる。

「そうだと思ってたよ」
「じゃあ、どうして!」

 きっと楓なりの考えがあったのだと思う。けど、束縛されているわたしと違って楓は自由に行動ができた。それなのに、そうしなかった。どんな理由を聞いても納得できる気がしなかった。楓は、わたしほど苦しくなかったとしか思えない。わたしはリスクを背負ってここに来たというのに。

楓の口が小さく開く。

「美月のお父さん、凄く怒っていて、お母さんは泣きそうになりながら美月にしがみついていた。それを思い出したら、もう美月の両親にあんな顔させられないなって思った。美月とどうしても話がしたくて、勢いでスマホ買いに行ったけど、冷静になって考えたら浅はかな行動に思えたんだ。でも、今日美月に会ったら……やっぱり無理だったけど」

納得せざる得ない優しい答えに、やっぱりこの人はどこまでも楓なんだなと思った。

 楓は綺麗な笑顔でわたしを見る。本当に無垢で淀みのない澄んだ笑顔だ。

「もう、会わないつもりだったの?」
「卒業したら会えるかなって」
「東風の生徒じゃなくなるから?」
「まぁ。俺、高校卒業したら起業するんだ。今、やってるバイトを仕事にする。あっ青果店以外の仕事ね。まぁ頼まれたら配達くらいは手伝うとは思うけど。引っ越して、橋の向こうを出て。その時になったら美月に会いに行こうって思ってた。美月が誰かの彼女になってたらどうしようって不安にもなったけど」

やっぱり、楓の世界は目まぐるしく動いている。もうすでに将来まで決まっていて、それに向かってずっと前から進んでいたんだ。わたしが下を向いて歩いている時に、楓はずっと先を見て走り続けていた。なのにどうして、通行人Aでしかないわたしの前で、楓は足を止めたのだろう。生きていて絶対に交わることのないわたしたちがどうして今、こうして一緒にいるのだろう。

「楓は凄いんだね。もう将来のことが決まっている。わたしは……なにもない。こんなわたしとどうして一緒にいてくれるの?楓にはもっとふさわしい人がいるんじゃない?」

“そんなことないよ”と言ってほしくて言っている。けど、楓が月並みなことを言う筈がない。にこっと笑うと「どうしてって訊かれてもね」そう言うとメロンソーダを一口飲む。

「理由はないの?」

楓はストローに口を付けたまま、言うか言わないか迷っている様子で長い瞬きを何度かすると、ストローから口を離した。

「あの日、ベランダに立って空見上げてる美月を見た時、無性に思ったんだよ。あぁ、この子幸せにしたいなって。理由を訊かれてもわからない。とにかくそう思ったんだ。俺さ、あの日を境にバイト増やして、勝手に美月との将来を想像して金貯めて」

楓は引きつった笑顔でわたしを見ると「引くよね、だからあんまり言いたくなかったんだよ」そう言って水を一気に喉に流し込む。

「誰もいないと思ってた……」

唐突に零した言葉の意味を楓はすぐに理解してしまう。

「そんな顔してたよ美月は。俺がいたんだけどね」
「一年前から楓はわたしを知っていたんだよね。その一年がもったいないよ。もっと早く出会いたかった」
「まぁ拒否られるところから始まる訳だけど」

楓は顔をしかめるとわたしの名前を呼ぶ。

「美月」
「ん?」

空気が重くなったのを感じた。沈黙が訪れ、オルゴール時計が十九時を告げる。外はさっきにも増して激しい雨が降っている。楓は窓の外からわたしに目線を移すと、謝罪の言葉を口にする。

「ごめん美月。俺、約束破った」
「なに?約束って?」
「絶対に美月を危険な目に遭わせないって言ったのに、だから俺と関わっていた方がいいって言ったのに、俺のせいで美月を危険な目に遭わせた」

ようやく理解した。橋の向こうに行った日の出来事を楓は話している。

「でも、楓は助けてくれたよ」
「あれは、たまたまあの場所を通ったからで」
「その、たまたまが凄いんだよ」

自分で言っていて“その通りだ”と思った。あの日、楓がたまたまあの場所を通ってわたしを助けるなんて、奇跡としか言いようがない。

 楓があまりに悲しい顔で首を横に振るから、そんな顔やめて欲しくて思っていることをたくさん話した。

「ピンチの時に好きな人から助けてもらえるなんて奇跡だよ。楓だけだったよ、わたしを助けてくれたのは。あとはみんな見て見ぬふりして通り過ぎて行った。もう終わった~って絶望してるところに楓が現れて。でも、わたしが知ってる楓とは違ってちょっと怖くて。だから、いつもの楓に戻ってほしくて止めたの。そのせいで楓、お腹殴られちゃって……ごめんね、痛かったよね」

「全然、久々にいいのもらって驚いたけど」

楓は柔らかい笑顔を見せる。わたしの知っている楓だ。

「あの時、わたしが『やめて』って言ったら、楓の手がぴたって止まって。多分わたし、あの瞬間のこと一生忘れないと思う」
「どうして?」
「わたしの声が楓に届いたのが、なんかね、凄く嬉しかったから」

楓は“当然だよ”というように目を細めると「じゃあ、二つ目の質問」そう言って両手を使って頬杖をつく。なにか企んだような目を気にしていると、その口が開いた。

「解禁したの?たった今、俺のことが好きだってバラしてたけど?」

確かに話の流れでそんなことを言った。けれど、ずっと伝えたかった思いだからちゃんと言いたい――。

「楓、好きだよ。ずっとずっと前から」

意外だったのか、楓は呆然としている。そして、無表情のまま口を開いた。

「ヤバい、泣きそうかも」

楓はテーブルに突っ伏すと動かなくなってしまう。

「えっ!本当に泣いてるの?」
「ごめん、十秒だけ待って」

こんな嬉しい十秒があるなんて知らなかった。