「やっぱり悪い奴だったな」
橋の前の信号で停まると、父がそんな言葉を吐き捨てた。
「楓は悪い人じゃない」
わたしは窓の外を見ながら抑揚のない声で返した。もう、なにを言われても心のどこも反応はしない。言葉が全て右から左へと流れていくだけ。だからこんなやり取りは、流れ作業のような感覚でしかない。
「髪の毛染めてバイクに乗って、あんなのただの不良じゃないか」
「髪の毛染めてバイク乗っている人はみんな不良なの?知らなかった。お父さんも髪の毛染めて車運転してるけど不良?」
「バカなことを言うんじゃない。あいつの影響か?もう一週間でこの町を出るからな」
「どこに行くの?」
「今はまだ知る必要ない。明日は部活が終わったら引っ越しの準備をしなさい」
楓に知らせることを警戒している両親は、一向に引っ越し先を教えてはくれない。「あっそ」と冷めた口調で言いながら、楓が住むこの町から離れることを思うと溢れる涙を抑えることができなかった。
橋を渡り、見慣れた景色が通り過ぎていく。楓との思い出があちらこちらに散りばめられている。
どんなに足掻いたところで所詮、未成年のわたしは親の言いなりになるしかない。無力でちっぽけな存在だ。自分の人生なのに、全部コントロールされてしまう。早く、大人になりたい。
***
――次の日。
昨日、父に言われた通り、部活が終わって家に帰ると引っ越しの準備を始めた。今すぐには使わないものをどんどん箱に詰めていく。これからこの町を出て、知らない町に行き、知らない学校に通い、知らない人たちと過ごす。漠然と思い描いてみても、まるで実感がわかない。部屋の隅に箱がいくつ積み上がっても、すべてが他人事のようにしか思えなかった。
毎日、ベランダに出た。遠くからバイクのエンジン音が聞こえるたび、耳をそばだてた。楓のバイクの音ではないとわかっていても、ベランダに出た。でも、楓がわたしのところに来ることはなかった。
あの日、父が楓に放った言葉を思い出す。
「娘とは二度と関わるな」
もし、楓がその言葉を守って、会いに来ないのだとすれば、わたしへの思いはそんな程度だったということになる。それとも、わたしが会いに行くのを待っているのだろうか。
楓に会えないまま、とうとう引っ越しの前日となった金曜日。部活が終わると迎えに来ていた父の車に乗り込み、シートを倒すと目を閉じた。何日もまともに眠れず、心はどこまでも疲弊していた。無理やり引き離され、このまま楓に会えないまま一生を終えるのなら、すでにわたしの未来なんて色褪せている。
車が走り出し、大通りへと出る。車の流れに乗ってどんどんスピードが上がる中、ドアを開けて飛び降りてしまおうかと考えるけど、そんな怖いことはできなかった。
信号が赤になり、車が停車する。カチカチと規則正しく響くウインカー。その音を聞いていると、無性に苛立ってくる。なぜ、こんなにも親の言いなりにならなきゃいけないのだろう。自分の気持ちすら自由にできないことに憤りを感じる。絶対に行かせないと言わんばかりに強い光を放つ信号の赤を見つめ、これが青になった瞬間車から降りようと決めた。
椅子を起こしその時を待つ。歩行者信号が点滅し、赤に変わる。目の前の信号が青に変わる寸前、父の足がブレーキから離れた音が聞こえたと同時に信号は青に変わり、わたしは車から飛び出した。そして、走った。すぐに、恐怖心が襲って来る。自分がやってしまった行動に足が震えている。それでも無我夢中になって走った。今、父がどんな顔で、どんな気持ちでいるのかを想像すると、怖くて仕方がなかった。
わたしは小さい頃から臆病で、悪いことはなに一つできなかった。お姉ちゃんはいたずらをしてよく親に怒られていた。わたしはいたずらなんて一切したいとも思わなかった。だから、真っ白な壁に平気でお絵描きをしてしまうお姉ちゃんのことを不思議に思っていた。絶対に怒られるとわかっているのに、壁に動物の絵を描いている時のお姉ちゃんは、その瞬間を心から楽しんでいた。きっと、五十川琉依や楓たちと一緒にいる時も、バレたら怒られると知りながら、お姉ちゃんはその瞬間を楽しんでいたのだと思う。
建物の裏に隠れ、上がった息を整える。手と足がガタガタと震えている。自分がやってしまったことに怯えている。やっぱりお姉ちゃんのようにはなれない。怖くて怖くて、このまま父に見つかってしまいたいとすら思っている。
空は次第に曇りだす。朝の天気予報で、今日は夜から雨が降り出し、もしかすると記録的な豪雨になると言っていた。
生ぬるい風が流れ、匂いが変わる。その変化がまた、わたしを不安にさせる。息はいつまで経っても落ち着くことはなく、手足の震えも収まらない。これまでか――そう思った途端、楓の顔が浮かんだ。まだ、自分の口でこの思いをちゃんと伝えていない。ここで諦めてしまえば、もう二度と会えないかもしれない。その方がずっと怖い。
震える足を一歩踏み出し、地面をしっかりと踏むと、一気に走り出した。悪いことなんてしていない。家族を裏切っている訳でもない。だって楓だよ?なにか問題があるとすれば、東風ってだけで楓を侮辱する両親の方だ。
辺りはすっかり暗くなり、商店街に着く頃には十八時を過ぎていた。息を整え、青果店の前に行くと楓の後ろ姿を見つけた。
「楓……」
とても小さな声だったと思う。それでも楓はすぐに振り返った。
橋の前の信号で停まると、父がそんな言葉を吐き捨てた。
「楓は悪い人じゃない」
わたしは窓の外を見ながら抑揚のない声で返した。もう、なにを言われても心のどこも反応はしない。言葉が全て右から左へと流れていくだけ。だからこんなやり取りは、流れ作業のような感覚でしかない。
「髪の毛染めてバイクに乗って、あんなのただの不良じゃないか」
「髪の毛染めてバイク乗っている人はみんな不良なの?知らなかった。お父さんも髪の毛染めて車運転してるけど不良?」
「バカなことを言うんじゃない。あいつの影響か?もう一週間でこの町を出るからな」
「どこに行くの?」
「今はまだ知る必要ない。明日は部活が終わったら引っ越しの準備をしなさい」
楓に知らせることを警戒している両親は、一向に引っ越し先を教えてはくれない。「あっそ」と冷めた口調で言いながら、楓が住むこの町から離れることを思うと溢れる涙を抑えることができなかった。
橋を渡り、見慣れた景色が通り過ぎていく。楓との思い出があちらこちらに散りばめられている。
どんなに足掻いたところで所詮、未成年のわたしは親の言いなりになるしかない。無力でちっぽけな存在だ。自分の人生なのに、全部コントロールされてしまう。早く、大人になりたい。
***
――次の日。
昨日、父に言われた通り、部活が終わって家に帰ると引っ越しの準備を始めた。今すぐには使わないものをどんどん箱に詰めていく。これからこの町を出て、知らない町に行き、知らない学校に通い、知らない人たちと過ごす。漠然と思い描いてみても、まるで実感がわかない。部屋の隅に箱がいくつ積み上がっても、すべてが他人事のようにしか思えなかった。
毎日、ベランダに出た。遠くからバイクのエンジン音が聞こえるたび、耳をそばだてた。楓のバイクの音ではないとわかっていても、ベランダに出た。でも、楓がわたしのところに来ることはなかった。
あの日、父が楓に放った言葉を思い出す。
「娘とは二度と関わるな」
もし、楓がその言葉を守って、会いに来ないのだとすれば、わたしへの思いはそんな程度だったということになる。それとも、わたしが会いに行くのを待っているのだろうか。
楓に会えないまま、とうとう引っ越しの前日となった金曜日。部活が終わると迎えに来ていた父の車に乗り込み、シートを倒すと目を閉じた。何日もまともに眠れず、心はどこまでも疲弊していた。無理やり引き離され、このまま楓に会えないまま一生を終えるのなら、すでにわたしの未来なんて色褪せている。
車が走り出し、大通りへと出る。車の流れに乗ってどんどんスピードが上がる中、ドアを開けて飛び降りてしまおうかと考えるけど、そんな怖いことはできなかった。
信号が赤になり、車が停車する。カチカチと規則正しく響くウインカー。その音を聞いていると、無性に苛立ってくる。なぜ、こんなにも親の言いなりにならなきゃいけないのだろう。自分の気持ちすら自由にできないことに憤りを感じる。絶対に行かせないと言わんばかりに強い光を放つ信号の赤を見つめ、これが青になった瞬間車から降りようと決めた。
椅子を起こしその時を待つ。歩行者信号が点滅し、赤に変わる。目の前の信号が青に変わる寸前、父の足がブレーキから離れた音が聞こえたと同時に信号は青に変わり、わたしは車から飛び出した。そして、走った。すぐに、恐怖心が襲って来る。自分がやってしまった行動に足が震えている。それでも無我夢中になって走った。今、父がどんな顔で、どんな気持ちでいるのかを想像すると、怖くて仕方がなかった。
わたしは小さい頃から臆病で、悪いことはなに一つできなかった。お姉ちゃんはいたずらをしてよく親に怒られていた。わたしはいたずらなんて一切したいとも思わなかった。だから、真っ白な壁に平気でお絵描きをしてしまうお姉ちゃんのことを不思議に思っていた。絶対に怒られるとわかっているのに、壁に動物の絵を描いている時のお姉ちゃんは、その瞬間を心から楽しんでいた。きっと、五十川琉依や楓たちと一緒にいる時も、バレたら怒られると知りながら、お姉ちゃんはその瞬間を楽しんでいたのだと思う。
建物の裏に隠れ、上がった息を整える。手と足がガタガタと震えている。自分がやってしまったことに怯えている。やっぱりお姉ちゃんのようにはなれない。怖くて怖くて、このまま父に見つかってしまいたいとすら思っている。
空は次第に曇りだす。朝の天気予報で、今日は夜から雨が降り出し、もしかすると記録的な豪雨になると言っていた。
生ぬるい風が流れ、匂いが変わる。その変化がまた、わたしを不安にさせる。息はいつまで経っても落ち着くことはなく、手足の震えも収まらない。これまでか――そう思った途端、楓の顔が浮かんだ。まだ、自分の口でこの思いをちゃんと伝えていない。ここで諦めてしまえば、もう二度と会えないかもしれない。その方がずっと怖い。
震える足を一歩踏み出し、地面をしっかりと踏むと、一気に走り出した。悪いことなんてしていない。家族を裏切っている訳でもない。だって楓だよ?なにか問題があるとすれば、東風ってだけで楓を侮辱する両親の方だ。
辺りはすっかり暗くなり、商店街に着く頃には十八時を過ぎていた。息を整え、青果店の前に行くと楓の後ろ姿を見つけた。
「楓……」
とても小さな声だったと思う。それでも楓はすぐに振り返った。

