事務所から出ると駅へと向かった。駅に着くと、改札に向かう人の流れに押されるようにホームに出た。電光掲示板を確認し、電車が来るのを待った。
電車が到着すると、急に緊張が襲ってくる。橋の向こうの駅までは、おそらく二十分もあれば着くのに、とんでもなく遠くに行くような気分になっている。席に座ると、景色はゆっくりと流れ始める。夕日に染まる町と楓の笑顔が重なり、二人で過ごした日々を思い出す。
わたしのことを放っておけなかったと言った楓。その笑顔は優しくて、こんなにも自分を想ってくれる人がいたことに、心が震えた。予想できない答えが返ってくるのが楽しくて、でも、たまにドキドキさせるようなことを言って。夜の世界に連れ出してくれて、知らない景色をたくさん見せてくれた。わたしの知っている楓は、いつだってキラキラ輝いていて眩しくて、その周りには笑顔が溢れていて。だからわたしは、眩しさに惹かれる羽虫のように、楓から離れることができなかったんだ。
電車が速度を落とし始めると、車内にアナウンスが流れる。
「まもなく青葉野、青葉野です」
奈落街の正式名称は青葉野町。町の雰囲気にまったく合わない爽やかな名前をしているから可笑しい。
電車の扉が開き、ホームに足を下ろした瞬間、緊迫した空気を肌に感じた。改札を出ると早速煙草と排ガスの匂い、それと遠くからはけたたましいバイクのエンジン音が鳴り響いている。コンビニの前では柄の悪い若者たちが輪になって地べたに座り、酒を飲み、煙草の煙を上げ、大声でしゃべっている。さすがのお出迎えに開いた口が塞がらない。
辺りを見渡し、サラリーマン風の男性に橋のある方角を教えてもらった。ここから歩くと、三十分は掛かるらしい。しかも、橋の方に行くにはあのコンビニの前を通らなければならないから冷や汗が出る。今更引き返す訳にもいかない。覚悟を決め足を踏み出す。彼らの脇を、夜の仕事をしていそうな恰好をした女性が通るのが見え、様子を窺っていると「ふぅ~!」と冷やかすような声が上がった。女性はそれを完全に無視し、通り過ぎて行った。自分もあれをくらうのかと思うと足がすくみ、辺りを見渡すと別の道へと入った。遠回りにはなってしまうけれど、あのコンビニの前を通るよりはマシだ。
いつの間にか日は沈み、辺りは暗くなっている。コンビニを避けて入った小道はさっきまでとは一変、薄暗い街灯に照らされ陰気な空気が漂っている。左右には廃墟と化したコンクリートのビルが建っており、その壁にはこれでもかと落書きがされている。スプレーで書いた大きな豚の絵の吹き出しには『落書き禁止だブー』と書かれてあり、その隣には“殺”の文字があった。外灯の下に放置されたサドルのないボロボロの自転車の前には『ご自由にどうぞ』と段ボールで作った看板が設置されていた。向こうに見える街灯の下では中年男性が暗闇に向かって支離滅裂な暴言を吐いていて、その手前ではおじいさんがお酒を片手に自動販売機と喧嘩をしていた。わたしが住む町では絶対に見ない光景が視界に収まる範囲だけでいくつもあった。この通りを進むわけにはいかず、正規のルートへ戻ると覚悟を決めて、コンビニに向かって進んだ。
彼らの前まで行くと、会話のボリュームが下がる。視線が集まっているのを感じながらも、彼らに気が付いていないかのように真っすぐと前を見据えその脇を通り過ぎた。
上手くいった――そう思った瞬間足になにかが当たり、金属が転がる音が響いた。
驚いて振り返ると、複数の目がわたしを睨みつけている。そして、一人の男が立ち上がると「俺の酒蹴ってんじゃねぇ」とわたしを怒鳴りつけ、地面に転がった缶を車が走る道路に向かって蹴り飛ばした。ちょうど通り掛かった車が急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らすと、後ろを走っていた車も急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らす。辺りが一気に騒がしくなる中、缶を蹴った男の仲間たちが無言で立ち上がり、クラクションを鳴らした車の方へと歩き出す。大声でしゃべり、女性に冷やかすように声を上げていたさっきまでとは一変、不気味な程の威圧感を漂わせ、彼らは車へと近づいていく。車は走り去り、辺りには異様な不穏さだけが残る。肩がすくみ、足が震える。誰かがわたしの足元に缶を転がしたのは事実だけど、そんなこと言える筈がない。
「人の酒蹴ってんじゃねぇよ」
男はわたしに近づいてくる。到着して十分もしないうちに奈落街の洗礼を受けることになるとは。因縁をつけているのは明白で、だから捕まった以上、ただでは帰してはもらえない。
「すみませんでした。弁償します」
震える声でそう話すわたしを男は真顔で見ている。その間が怖くて仕方がない。さっさと買って渡してここから立ち去りたい――そう思っているわたしに男が放った言葉に背筋が凍り付いた。
この町の非情さは想像を軽く超えた。
「弁償?当たり前だろそんなもん。まさかそれだけで済むと思ってねぇよな?仲間との楽しい時間を台無しにされた俺の怒りが缶酎ハイ一本で収まると思ってんの?」
男は静かな声でそう話すと暗闇を指差す。
「向こうに山があんだろ?今からお前をそこに捨てに行く」
これが奈落街。絶対に行ってはいけないとあれほど両親に言われていた町。男はポケットから鍵を取り出すと仲間の一人に渡す。
「こいつ山に捨てに行くから、俺のバイク取ってきて」
「了解」
あっさりとしたやり取りはこれが初めてじゃないことを物語っている。到底、人の心を宿していないような無機質な目がこちらに向けられる。
「スマホ出して。どうせ山の上だから電波ないと思うけど、スマホがない方が簡単に帰ってこれなくて面白いから」
男の口からは怖い言葉しか出てこない。
バイクのエンジン音が聞こえてくる。わたしを山へ捨てるための道具が、そろそろ到着する。その到着を待つ必要なんてないのにどうしても足が動かない。
「早くスマホ出せよ」
バイクの音はすぐそこまで来ている。
逃げなきゃ――。
ようやく足が動いた。淀んだ空気が肌に纏わりつく。自分の足音さえも拒絶してしまう程、この町に響き渡る音も灯りも匂いもすべてが不快で仕方がない。馴染みのあるコンビニもファミレスもここではまるで違う顔をしている。
自分の足音に他の足音が重なる。足には自信がある、小学校の頃からずっと運動部だったし、リレーにも選ばれてきた。こんな酒を飲んで煙草を吸っている人たちに負ける筈がない。なのに――「逃げんな馬鹿」そんな言葉と共に腕を掴まれた。
「やめて」大きな声を出し、必死になって振り払うも気が付けば地面に倒され、顔がアスファルトに押し付けられていた。
「逃げると罪が重くなるって知ってる?」
右腕が、本来なら曲がらない方向へとねじ曲げられた。
「痛いっ!!離して!!」
ここは吐き気がするほど恐ろしい町だ。声を上げても誰も助けてはくれない。横目に過ぎていく人々の靴を見ながら、「誰か助けて!」と悲鳴のような声を上げても、その情けない叫びは地面に染み込んで消えていく。誰も足を止めることなく、わたしの顔を踏まないようにだけ気を付けて通り過ぎていく。父が履いているものと同じような茶色の革靴が目に入り手を伸ばすけれど、あっという間に通り過ぎ、絶望だけが積み重なる。
「はぁ?もしかして誰かが助けてくれると思ってた?」その言葉が聞こえてきた瞬間、アスファルトに掌をつけた。降参だ。抵抗をしないと知った彼はその場に立ち上がると、わたしの頭を足で踏みつけた。痛くはない。ただ、少しでも動けばこの足がなにをするかは考えるまでもない。
バイクのエンジン音と共に、地面しか見えない狭い視界の中に黒いタイヤが滑り込んでくる。その振動が頬に伝わり、意図せず流れる涙は無情なこの町のアスファルトをほんの少し濡らすだけ。もう逃げ場はなく、諦める以外の選択肢は残されていない。細やかな希望も持てない今、絶望を深くするだけのわずかな視界を腕で覆ってしまおうとした瞬間、耳に届いた声は知っている声なのに、知らない空気を宿していた。
「その足どかせ」
こちらに向かってくる黒色のスニーカーが視界に入る。
「お前に関係ねぇだろ?」
「見てて気分わりんだよ、さっさとその足どかせ」
「命令してんじゃねぇ」
「三…二…」
カウントする声はとても静かで、それなのに町の喧騒を掻き消してしまう程、重く響き渡る。
わたしの頭を踏みつける足に力が込められた瞬間、最後の数字がカウントされた。
足の力がふっと消える。直後、重いものがアスファルトを転がる音が聞こえ、音の方を見るとわたしを踏みつけていた男が地面に転がっている。周囲が一気にどよめき、粗暴な言葉が飛び交う中、「立てる?」その声に顔を上げるとそこにいたのは楓だった。
「楓……」
「美月!なんで?」
楓はわたしを立たせると地面に転がる男の元へと走る。むしり取るように男の服を掴むと力任せに起こし、体を自分の方へと引き寄せた。
普段の面影が一切ない、底の見えない目。圧倒的な威圧感にその人が楓であることすらわからなくなる。初めて見たもう一つの楓は、息が止まるほど恐ろしい空気を纏っていた。
暗闇を裂くように拳が上がる。わたしの知っている楓に戻ってきてほしくて叫んだ。
「やめて楓!!」
今の楓にわたしの声が届くとは到底思えなかった。でも――楓の拳はぴたりと止まった。胸が震え、全身が熱くなる。わたしの声は――楓に届いた。ところが、その瞬間を男は見逃さなかった。
「はい、もらい」
そんな言葉と共に楓の腹に男の拳が深くめり込む。
「楓っ!!」
楓の体がくの字に折れ苦しそうな声が漏れる。わたしが止めたせいで楓が殴られた。男は苦しむ楓の体を起こすように両肩を押すと拳を振り上げた。
「やめてお願い!!」
足を一歩踏み出した瞬間「ごめん、美月の言うこと聞いてやれなくて」そう言って楓は飛んできた拳を避けると、空中を切ったその腕を掴んだ。
「はい、終わり」
その言葉と共に男の足が宙に浮き、体が回転し、気が付けばまた、地面に転がっていた。
男が立ち上がる。その体は多分どこも痛くはない。楓は男の体を支えるようにして、ゆっくりと地面に倒した。まるで子供を扱うように。それは、力の差が圧倒的であることを証明していた。
期待外れの喧嘩に野次馬たちは勝手な言葉を吐き捨ててその場から散っていく。
「つまんねぇ」
「時間の無駄」
男は屈辱に顔を歪め、仲間の方を見ると「行くぞ」そう言って夜の街へと消えていく。わたしは楓のところへと走った。
「ごめん楓、わたしのせいでこんなことになって……」
楓はわたしに怪我がないか確かめるように体を見渡す。
「痛いところある?」
「ううん」
理不尽こそが正解のようなこの町で、楓はどうやって今の楓になったのだろう。今、目の前にいるその人は、わたしの知っている優しい楓。
「楓、わたしね」
声が震えてうまく出せない。楓はゆっくり頷くと言葉を待ってくれている。
「楓に会いにきた。あのね、楓、わたしね」
ずっと言えなかった言葉を言おうとした瞬間――一台の車がわたしたちの脇に停車した。
「美月!!」
怒気のこもった声が聞こえ、運転席から人が降りて来る。
「お父さん……」
父は「帰るぞ」そう言って腕を物凄い力で掴むと楓に「娘とは二度と関わるな」そう言って無理やりわたしを車に乗せた。後部座席には母が乗っていて、母はわたしが逃げ出さないように必死になって体にしがみ付いた。
楓はずっと、見えなくなるまでわたしを見ていた。わたしは心の中で楓の姿が見えなくなるまで何度も好きだと叫んだ。
電車が到着すると、急に緊張が襲ってくる。橋の向こうの駅までは、おそらく二十分もあれば着くのに、とんでもなく遠くに行くような気分になっている。席に座ると、景色はゆっくりと流れ始める。夕日に染まる町と楓の笑顔が重なり、二人で過ごした日々を思い出す。
わたしのことを放っておけなかったと言った楓。その笑顔は優しくて、こんなにも自分を想ってくれる人がいたことに、心が震えた。予想できない答えが返ってくるのが楽しくて、でも、たまにドキドキさせるようなことを言って。夜の世界に連れ出してくれて、知らない景色をたくさん見せてくれた。わたしの知っている楓は、いつだってキラキラ輝いていて眩しくて、その周りには笑顔が溢れていて。だからわたしは、眩しさに惹かれる羽虫のように、楓から離れることができなかったんだ。
電車が速度を落とし始めると、車内にアナウンスが流れる。
「まもなく青葉野、青葉野です」
奈落街の正式名称は青葉野町。町の雰囲気にまったく合わない爽やかな名前をしているから可笑しい。
電車の扉が開き、ホームに足を下ろした瞬間、緊迫した空気を肌に感じた。改札を出ると早速煙草と排ガスの匂い、それと遠くからはけたたましいバイクのエンジン音が鳴り響いている。コンビニの前では柄の悪い若者たちが輪になって地べたに座り、酒を飲み、煙草の煙を上げ、大声でしゃべっている。さすがのお出迎えに開いた口が塞がらない。
辺りを見渡し、サラリーマン風の男性に橋のある方角を教えてもらった。ここから歩くと、三十分は掛かるらしい。しかも、橋の方に行くにはあのコンビニの前を通らなければならないから冷や汗が出る。今更引き返す訳にもいかない。覚悟を決め足を踏み出す。彼らの脇を、夜の仕事をしていそうな恰好をした女性が通るのが見え、様子を窺っていると「ふぅ~!」と冷やかすような声が上がった。女性はそれを完全に無視し、通り過ぎて行った。自分もあれをくらうのかと思うと足がすくみ、辺りを見渡すと別の道へと入った。遠回りにはなってしまうけれど、あのコンビニの前を通るよりはマシだ。
いつの間にか日は沈み、辺りは暗くなっている。コンビニを避けて入った小道はさっきまでとは一変、薄暗い街灯に照らされ陰気な空気が漂っている。左右には廃墟と化したコンクリートのビルが建っており、その壁にはこれでもかと落書きがされている。スプレーで書いた大きな豚の絵の吹き出しには『落書き禁止だブー』と書かれてあり、その隣には“殺”の文字があった。外灯の下に放置されたサドルのないボロボロの自転車の前には『ご自由にどうぞ』と段ボールで作った看板が設置されていた。向こうに見える街灯の下では中年男性が暗闇に向かって支離滅裂な暴言を吐いていて、その手前ではおじいさんがお酒を片手に自動販売機と喧嘩をしていた。わたしが住む町では絶対に見ない光景が視界に収まる範囲だけでいくつもあった。この通りを進むわけにはいかず、正規のルートへ戻ると覚悟を決めて、コンビニに向かって進んだ。
彼らの前まで行くと、会話のボリュームが下がる。視線が集まっているのを感じながらも、彼らに気が付いていないかのように真っすぐと前を見据えその脇を通り過ぎた。
上手くいった――そう思った瞬間足になにかが当たり、金属が転がる音が響いた。
驚いて振り返ると、複数の目がわたしを睨みつけている。そして、一人の男が立ち上がると「俺の酒蹴ってんじゃねぇ」とわたしを怒鳴りつけ、地面に転がった缶を車が走る道路に向かって蹴り飛ばした。ちょうど通り掛かった車が急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らすと、後ろを走っていた車も急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らす。辺りが一気に騒がしくなる中、缶を蹴った男の仲間たちが無言で立ち上がり、クラクションを鳴らした車の方へと歩き出す。大声でしゃべり、女性に冷やかすように声を上げていたさっきまでとは一変、不気味な程の威圧感を漂わせ、彼らは車へと近づいていく。車は走り去り、辺りには異様な不穏さだけが残る。肩がすくみ、足が震える。誰かがわたしの足元に缶を転がしたのは事実だけど、そんなこと言える筈がない。
「人の酒蹴ってんじゃねぇよ」
男はわたしに近づいてくる。到着して十分もしないうちに奈落街の洗礼を受けることになるとは。因縁をつけているのは明白で、だから捕まった以上、ただでは帰してはもらえない。
「すみませんでした。弁償します」
震える声でそう話すわたしを男は真顔で見ている。その間が怖くて仕方がない。さっさと買って渡してここから立ち去りたい――そう思っているわたしに男が放った言葉に背筋が凍り付いた。
この町の非情さは想像を軽く超えた。
「弁償?当たり前だろそんなもん。まさかそれだけで済むと思ってねぇよな?仲間との楽しい時間を台無しにされた俺の怒りが缶酎ハイ一本で収まると思ってんの?」
男は静かな声でそう話すと暗闇を指差す。
「向こうに山があんだろ?今からお前をそこに捨てに行く」
これが奈落街。絶対に行ってはいけないとあれほど両親に言われていた町。男はポケットから鍵を取り出すと仲間の一人に渡す。
「こいつ山に捨てに行くから、俺のバイク取ってきて」
「了解」
あっさりとしたやり取りはこれが初めてじゃないことを物語っている。到底、人の心を宿していないような無機質な目がこちらに向けられる。
「スマホ出して。どうせ山の上だから電波ないと思うけど、スマホがない方が簡単に帰ってこれなくて面白いから」
男の口からは怖い言葉しか出てこない。
バイクのエンジン音が聞こえてくる。わたしを山へ捨てるための道具が、そろそろ到着する。その到着を待つ必要なんてないのにどうしても足が動かない。
「早くスマホ出せよ」
バイクの音はすぐそこまで来ている。
逃げなきゃ――。
ようやく足が動いた。淀んだ空気が肌に纏わりつく。自分の足音さえも拒絶してしまう程、この町に響き渡る音も灯りも匂いもすべてが不快で仕方がない。馴染みのあるコンビニもファミレスもここではまるで違う顔をしている。
自分の足音に他の足音が重なる。足には自信がある、小学校の頃からずっと運動部だったし、リレーにも選ばれてきた。こんな酒を飲んで煙草を吸っている人たちに負ける筈がない。なのに――「逃げんな馬鹿」そんな言葉と共に腕を掴まれた。
「やめて」大きな声を出し、必死になって振り払うも気が付けば地面に倒され、顔がアスファルトに押し付けられていた。
「逃げると罪が重くなるって知ってる?」
右腕が、本来なら曲がらない方向へとねじ曲げられた。
「痛いっ!!離して!!」
ここは吐き気がするほど恐ろしい町だ。声を上げても誰も助けてはくれない。横目に過ぎていく人々の靴を見ながら、「誰か助けて!」と悲鳴のような声を上げても、その情けない叫びは地面に染み込んで消えていく。誰も足を止めることなく、わたしの顔を踏まないようにだけ気を付けて通り過ぎていく。父が履いているものと同じような茶色の革靴が目に入り手を伸ばすけれど、あっという間に通り過ぎ、絶望だけが積み重なる。
「はぁ?もしかして誰かが助けてくれると思ってた?」その言葉が聞こえてきた瞬間、アスファルトに掌をつけた。降参だ。抵抗をしないと知った彼はその場に立ち上がると、わたしの頭を足で踏みつけた。痛くはない。ただ、少しでも動けばこの足がなにをするかは考えるまでもない。
バイクのエンジン音と共に、地面しか見えない狭い視界の中に黒いタイヤが滑り込んでくる。その振動が頬に伝わり、意図せず流れる涙は無情なこの町のアスファルトをほんの少し濡らすだけ。もう逃げ場はなく、諦める以外の選択肢は残されていない。細やかな希望も持てない今、絶望を深くするだけのわずかな視界を腕で覆ってしまおうとした瞬間、耳に届いた声は知っている声なのに、知らない空気を宿していた。
「その足どかせ」
こちらに向かってくる黒色のスニーカーが視界に入る。
「お前に関係ねぇだろ?」
「見てて気分わりんだよ、さっさとその足どかせ」
「命令してんじゃねぇ」
「三…二…」
カウントする声はとても静かで、それなのに町の喧騒を掻き消してしまう程、重く響き渡る。
わたしの頭を踏みつける足に力が込められた瞬間、最後の数字がカウントされた。
足の力がふっと消える。直後、重いものがアスファルトを転がる音が聞こえ、音の方を見るとわたしを踏みつけていた男が地面に転がっている。周囲が一気にどよめき、粗暴な言葉が飛び交う中、「立てる?」その声に顔を上げるとそこにいたのは楓だった。
「楓……」
「美月!なんで?」
楓はわたしを立たせると地面に転がる男の元へと走る。むしり取るように男の服を掴むと力任せに起こし、体を自分の方へと引き寄せた。
普段の面影が一切ない、底の見えない目。圧倒的な威圧感にその人が楓であることすらわからなくなる。初めて見たもう一つの楓は、息が止まるほど恐ろしい空気を纏っていた。
暗闇を裂くように拳が上がる。わたしの知っている楓に戻ってきてほしくて叫んだ。
「やめて楓!!」
今の楓にわたしの声が届くとは到底思えなかった。でも――楓の拳はぴたりと止まった。胸が震え、全身が熱くなる。わたしの声は――楓に届いた。ところが、その瞬間を男は見逃さなかった。
「はい、もらい」
そんな言葉と共に楓の腹に男の拳が深くめり込む。
「楓っ!!」
楓の体がくの字に折れ苦しそうな声が漏れる。わたしが止めたせいで楓が殴られた。男は苦しむ楓の体を起こすように両肩を押すと拳を振り上げた。
「やめてお願い!!」
足を一歩踏み出した瞬間「ごめん、美月の言うこと聞いてやれなくて」そう言って楓は飛んできた拳を避けると、空中を切ったその腕を掴んだ。
「はい、終わり」
その言葉と共に男の足が宙に浮き、体が回転し、気が付けばまた、地面に転がっていた。
男が立ち上がる。その体は多分どこも痛くはない。楓は男の体を支えるようにして、ゆっくりと地面に倒した。まるで子供を扱うように。それは、力の差が圧倒的であることを証明していた。
期待外れの喧嘩に野次馬たちは勝手な言葉を吐き捨ててその場から散っていく。
「つまんねぇ」
「時間の無駄」
男は屈辱に顔を歪め、仲間の方を見ると「行くぞ」そう言って夜の街へと消えていく。わたしは楓のところへと走った。
「ごめん楓、わたしのせいでこんなことになって……」
楓はわたしに怪我がないか確かめるように体を見渡す。
「痛いところある?」
「ううん」
理不尽こそが正解のようなこの町で、楓はどうやって今の楓になったのだろう。今、目の前にいるその人は、わたしの知っている優しい楓。
「楓、わたしね」
声が震えてうまく出せない。楓はゆっくり頷くと言葉を待ってくれている。
「楓に会いにきた。あのね、楓、わたしね」
ずっと言えなかった言葉を言おうとした瞬間――一台の車がわたしたちの脇に停車した。
「美月!!」
怒気のこもった声が聞こえ、運転席から人が降りて来る。
「お父さん……」
父は「帰るぞ」そう言って腕を物凄い力で掴むと楓に「娘とは二度と関わるな」そう言って無理やりわたしを車に乗せた。後部座席には母が乗っていて、母はわたしが逃げ出さないように必死になって体にしがみ付いた。
楓はずっと、見えなくなるまでわたしを見ていた。わたしは心の中で楓の姿が見えなくなるまで何度も好きだと叫んだ。

