境界線の向こうに眠る

 わたしの周りにいた大人たちは皆、東風は悪の集まりだと言って、みんなひとくくりにして切り捨てる。見ようともしない。知ろうともしない。ただ“東風”というだけで、悪だと決めつけて排除していく。あの橋を正義と悪の境界線のように言って。

 毎日学校に行って、毎日働いて、たくさんの人を笑顔にして、たくさんの人の助けになって、慕われて、必要とされて、それに応えて、使い果たした体を休めに家に帰って眠る。そんな楓を――あの境界線の向こうで眠る楓を、誰かが、お前は“悪”だと言って叩き起こしたならば、そんな大人――それがたとえ自分の親であろうと、わたしは絶対に許さない。

 土曜日の今日、楓は加賀美モータースにいる。電車に乗り、流れる景色を見ながら楓のことを考える。やっと会えるというのに、心の中は不安でいっぱいになっている。もう二度と会わないというメッセージを受け取った楓。すでにわたしから心が離れていてもおかしくはない。目まぐるしく変化する楓の毎日。その中からわたしが消えてしまうには、十分すぎる時間があった。

 電車を降り、加賀美モータースを目指して歩き始める。スマホがない為、記憶だけを頼りに進んだ。途中何度も迷いながらやっと見つけた加賀美モータースの錆びた看板に喜んだのも束の間、突然の訪問を楓が迷惑に感じるのではないかと不安になる。

 怖気づきそうになりながら、一歩、また一歩と足を踏み出す。前にもこんなことがあった。毎日会っていた楓と何日も会わなくなったあの時も、今みたいな気持ちになっていた。もう、楓の中にわたしの存在なんかないと思って、でも、楓はわたしを見つけてくれた。あの時の楓の笑顔を思い出す――心のもやもやを吹き飛ばす明るい笑顔が目に飛び込んできて、わたしはその笑顔に圧倒されて動けなくなって――いつだってそうだ、そんなわたしの元へと楓の方が駆け寄ってきてくれるんだ。だから、今日もきっと――。

 整備場の前に着くと、中からは金属同士がぶつかる音が聞こえ、油の匂いが漂ってくる。中を覗き、楓を探していると作業中のヒロさんと目が合った。軽く会釈をすると、ヒロさんは持っていた工具を放り投げるように床に置いた。整備場の中に甲高い金属音が響き、作業をしていた他の人たちの視線が一気にヒロさんへと向かい、そしてわたしに流れて来る。ヒロさんはわたしの目の前に立つと「こっちに来な」そう言って事務所へと入って行った。

 整備場の中に、楓の姿は見当たらなかった。

 事務所に入ると、ヒロさんは机の上に帽子を投げ、髪をかき上げ鋭い目を向けると「楓となにがあった?」と訊いてきた。その質問は同時に、楓になにかがあったことを告げている。

「楓は?どこにいるんですか?」

ヒロさんはあからさまに怪訝な表情を浮かべた。

「質問に答えな」
「あっ…すみません」

わたしはこれまでのことをヒロさんに話した。楓と会っているのが両親に知れスマホを取られたこと、父がわたしに代わって楓にメッセージを送ったこと、その内容。話を聞いたヒロさんはため息をついてその場にしゃがむと、力なく壁に寄り掛かった。

「ずっと様子は変だったんだけど、昨日から連絡が取れなくなった。家に行っても出てきてくれないし、何回電話しても完全に無視。仲間全員、連絡が取れないでいる。おとといは一緒にいたんだけど、うちら、輩に絡まれてさ。いつもの楓は、向こうが手を出してきたら仕方なくやるって感じなんだけど、おとといはいきなりそいつら殴って⋯⋯。しかも、普段は手加減するのに相手がうずくまってもかかっていこうとしてさ⋯⋯中学の時以来そんなこと一度も無かったんだけど」
「えっ!相手に怪我は?」

ヒロさんは下を向いたまま「その前にうちらが楓を止めたから大丈夫だった。でも、昨日から連絡取れなくなって。あいつ、なにかあると一人になろうとするんだよ。中学の時もそうだった。仲間巻き込まないように一人になって。そんで暴れまくって⋯⋯。このままだと楓は中学の頃の楓に戻っちまう」そう言って髪の毛を鷲掴みすると膝に顔を埋めた。その姿を見るだけで、中学生の頃の楓がどれだけ荒れていたかが想像できた。やっぱり、アヤセという人の言っていることは嘘ではなかったんだ。

 ヒロさんは髪の毛を掴んだままわずかに顔を上げると、唇の隙間から息を漏らすように話した。

「あんたにこんなこと頼みたくないけど、お願い、楓を助けてやって。あいつ……あんたに心底惚れてるみたいだから」

言ってすぐに立ち上がると、机の上から乱暴に帽子を取り、ドアノブに手を掛けると背を向けたまま「ハイツ青葉二〇一。そこが楓のアパート」そう言い残し事務所を出て行った。髪の毛の隙間から見えたその目には、涙が溢れていた。

 楓の為に一番辛い選択をしたヒロさん。楓に対するヒロさんの思いを痛いくらいに知ってしまった。