境界線の向こうに眠る

 朝から酷い雨が降っている。それでも、学校まで送ってもらえることをありがたいとは思わなかった。車に乗ると、父に背を向けるようにして窓の外を見ていた。昨日から両親とは一言も口を利いていない。母は、昨日の朝も今日の朝も起きてはこなかった。そんな母をなんとかしなきゃなんて気持ちは一切おこらなかった。金曜日の夜、楓がどのくらい待っていて、わたしが来なかったことをどう思っているのか、そのことだけで頭の中がいっぱいだった。

***

 完全に自由を奪われたまま数日が経過し、それでも、楓への思いだけは胸に居座り続けた。会うことのできない人を思い続ける、苦しいだけの日々をこれ以上続けることはできそうにもない。

 夕食が終わり、部屋に戻るとわたしは出掛ける準備を始めた。アヤセという人が言っていた『&loop』という古着屋に行けば楓のヤバい動画があると。わたしの知らない楓を見て、この苦しい気持ちも、楽しかった思い出も、全部そこに置いてきて、それでもう――終わりにするんだ。

 音を立てないように階段を降り、玄関に靴を取りに行くと座敷の戸を静かに開けた。息をひそめ、音を立てないように歩き、障子戸に手を掛けた瞬間、突然部屋の電気が付いた。

「どこに行こうとしているの!」

その声に振り向くとそこには、母の姿があった。こんな顔だっただろうかと思う程、目は神経質に吊り上がっている。

 母の声を聞きつけ父がやってきた。父は、わたしが手にした靴に目をやると、なにも言わずこちらに向かってきた。そして、目の前に立った瞬間――部屋に乾いた音が響いた。頬に衝撃が走り、じわじわと熱を帯びていく。

 親に叩かれたのは初めてのことだった。わたしは叩かれるような子ではなかったから。父は鼻息を荒くし「いい加減にしろ!」と怒鳴りつけた。わたしはとっさに言い返した。

「だからだよ!いい加減にしたいから確かめに行くの!」

父を突き飛ばし玄関へと走った。

「いい加減にしなさい!」

父はすぐさまわたしの腕を掴み、もう一度手を振り上げた。すると、母が泣き叫びその場にしゃがみ込んだ。父は振り上げた手を降ろすと、すでに準備してあったかのようにあっさりと、最後の切り札を投げつけてきた。

「今月いっぱいでこの町を離れるから準備しなさい」

わたしは驚いて母を見た。けれど、母は驚く様子もなく、ただうつむいていた。

「なんで引っ越すの?わたしのせい?」
「もう、お父さんもお母さんもお前を心配し続けるのに疲れたんだよ。もっと早く決断するべきだった。お姉ちゃんがあんなことになった時点でこの町を離れるべきだったんだ。そうしたら、お前もこんな辛い思いをしないで済んだのにな」

わたしは玄関に靴を投げつけると走って部屋に戻った。

 なにがなんだかわからなかった。わたしは今までに一度だって親に迷惑を掛けていないし、わがままだって言ったことはない。それどころかいろんなことを我慢して、前みたいに仲のいい家族に戻そうと頑張ってきた。それなのに、まるでわたしが苦しめてきたみたいに二人とも、憔悴しきった顔をしていた。

 椅子に座ると机の上の教科書を床に放り投げ、突っ伏した。好きになった人が東風学園の男子だった、それだけのことなのにどうして――。

 ベッドの上で何度寝返りを打っても長い夜は終わらなかった。明け方、この前理沙ちゃんが言っていた言葉を思い出した。

“貫きたかったら、両親を大切にしな。そうすれば、必ずわかってもらえる日が来るから”

大切にするってどうやるんだろう――。

 ベッドから起き上がるとベランダに出た。空は薄く白んでいる。ひんやりとした空気が熱に侵されたわたしの心を少しずつ冷やしていく。楓の顔が浮かぶ。わたしの大切な人だ。今、楓に会ったらどうしたいかを考えた。伝えたいことがたくさんある。知って欲しい気持ちがたくさんある。大切な人だから、ちゃんと会って自分の口で伝えたい。そう思った瞬間、自分が両親を大切にしていなかったことに気が付いた。両親の気持ちを知っているのにわたしは、二人を敵と見なし、口を利くのをやめた。自分の気持ちを伝えることも、わかってもらう為の努力もせずにただ、拒絶した。どうせわかってもらえないと勝手に決めつけていた。全然、大切にしていなかった。

 太陽が顔を出し、服を着替えると下に行った。まだ、誰も起きてきてはいない。顔を洗って歯を磨くと静かに朝食の準備を始めた。

 朝食の準備が終わり、ダイニングテーブルでスマホを見ているといつのまにか眠っていた。それからどのくらい経ったのだろう。父の声で目が覚めた。

目を開けると、母が温めた味噌汁を、父が運んでいた。

 土曜日の今日、父はわたしを学校まで送ったあと、部活が終わるまで駐車場で待つ。そして、わたしを家に送り届けてから会社に行き、帰ってくるのはきっと十八時頃。

「お父さん、部活が終わってわたしを家に送った後、会社に行く前に少しだけ時間ある?二人に話したいことがあるの」

父はなにも言わず黙ったままだった。