境界線の向こうに眠る

「ただいま…」

“おかえり”よりも先に「スマホ出しなさい」と父に言われた。

異様な雰囲気に一歩下がると「早く出しなさい」と父がソファーから立ち上がった。わたしは怖くなってスマホが入った鞄を胸に抱くと、父はそれを無理やり奪い取り、鞄を開くと中身をフローリングの上に落とした。

「なにするの!」
「お前が東風学園の男子と一緒にいるところを見た人がいる」

心臓が大きく脈を打つ。父はスマホを手に取ると「どういうつもりか説明しなさい」と言って席についた。嘘をつこうにもスマホの中にはさっき楓に“二十時半くらいになるけど必ず行くから”と送ったメッセージが残っている。ロック解除の番号は父も母も知っている。それがスマホを持たせてもらえる条件だった。

「誰から聞いたの?」
「夏休みにうちに遊びに来た玲香ちゃんだったか?お前が東風の男と一緒にいるって心配してたぞ」

内緒にしていたことに腹を立てたのだと思う。もしかしたら本当に心配して――いや、それなら直接わたしに言う筈。そういえば最近、玲香ちゃんから頻繁に「好きな人できた?」なんて聞かれていた。

「助けてもらったの」そう言うと、母が声を震わせながらわたしを怒鳴りつけた。

「東風の男子と関わるなんてどういう神経してるの!お姉ちゃんの命を奪ったんだよ東風の生徒が!」
「でも、彼がお姉ちゃんの命を奪った訳じゃない」
「そういう問題じゃないの!」

母のすすり泣く声が部屋に響く。わたしは言い返すことをやめた。

「わかってるよ、そういう問題じゃないって。わたしも同じだったもん。お姉ちゃんを死なせた人が東風学園の人だったから、東風学園に通っている全員が憎かったし、悪い人しかいないと思っていた。でも、違ったんだよ。わたしが出会ったその人は――」

話している途中、父の手に握られたスマホが鳴った。父は画面を見ると眉をひそめ、わたしに見せた。

“何時まででも待ってるから大丈夫。気を付けて”

「どういうことだ」

わたしは画面から目を逸らすと下を向いた。

「今日、会う約束してたの……」
「親に隠れて家を出て行くつもりだったのか!」

 楓に会いたかった。会って謝りたかった。そして、これからも一緒にいたいと伝えたかった。

「断るから……スマホ貸して」
「もう、連絡を取る必要はない!」
「お願いお父さん一言“行けない”ってだけメッセージ送らせて。じゃないとわたしのことずっと待ってしまうから」
「スマホは明日解約する」
「なに言ってるの?」

父は黙ったままわたしを見ている。スマホを解約すると言ったのは脅しではないようだ。

「解約してもいいから一言だけメッセージ送らせてお願いだから!」
「駄目だ」

胸の中でなにかが切れた。

 わたしは玄関に向かって走った。もう、こうするしかなかった。もしも今日、わたしがそこに行かなかったら、楓がどんな気持ちになるかを想像するだけで涙が出た。

「待ちなさい!」

わたしを追いかけてくる父の足音が聞こえ、あっという間に腕を掴まれた。

「離して!」

必死に振りほどこうとしてもぴくりともしない。

「お願いだから離して!離してって言ってるでしょ!」

初めてだと思う。こんなに大きな声を出したのは。すると、リビングから母の悲鳴が聞こえてきた。耳をつんざくような悲鳴の後に「もういい加減にして!わたしからなにも奪わないで!」そう叫ぶ声が聞こえ、わたしは抵抗することをやめた。

 わたしの心も壊れたらいいのに――そんなことを思った。