境界線の向こうに眠る

 気持ちに整理がつかないまま金曜日になり、部活が終わると本屋で数冊本を購入した。楓に会うか会わないかは、まだ決まっていない。けれど、もし、会わない選択をした時、なにか気が紛れるものが必要だった。

 本屋を出ると、一台の車が道路の向こう側に停まり、窓から顔を出したのは従妹の理沙ちゃんだった。

「久しぶり美月!」

理沙ちゃんは満面の笑みで「送っていくからおいで」と手招きをする。わたしは、左右を確認すると理沙ちゃんの元へと走った。

「久しぶり理沙ちゃん。なんか凄く大人になったね、車運転しているところ初めて見たよ」
「美月の方こそ大人になったよ。髪の毛長くしたんだね、似合ってる!」

小学校の頃からずっと運動部だったわたしは、高校生になって初めて髪を肩まで伸ばした。

 理沙ちゃんはわたしより七つ年上で、今年から教員として働いている。

「理沙ちゃんってさ、西華女子で先生してるの?前にお父さんがそう言ってたけど」

理沙ちゃんは急に気まずそうに顔をしかめると「実はね」と言って車を走らせた。

「どうかした?」
「うん…」

交差点で信号が赤になり、理沙ちゃんが重い口を開く。

「東風学園で先生してるんだ」

理沙ちゃんがお父さんに正直に話さなかった理由は、訊かなくてもわかる。

「そうなんだ、大丈夫お父さんたちには言わないから」
「ごめんね、東風の先生してるなんて聞きたくなかったよね」
「ううん。じゃあ、五十川琉依とは話したことあるの?」
「赴任してすぐだったから……あの事故が起きたのは。だから、話したことはないの」
「そっか。ねぇ、大変なんじゃない?東風で先生とか」
「よく言えば新鮮、悪く言えば――ふざけんなクソガキども!女教師だからってなめんなよ!て感じかな」

わたしたちは顔を見合わせると笑った。

 信号が青になり、交差点を曲がると、うちが見えてくる。理沙ちゃんに楓のことを訊いてみようか迷った。

 この前葵くんが言っていた。楓の作った集団が東風で一番大きくて力があると。ならば、理沙ちゃんが楓を知らない筈がない。

「やっぱり、大変なんだね東風。あのね理沙ちゃん……」

家の前で車が停まり、喉元まで出ていた言葉を飲み込んだ。

「あ、ありがとうね。先生頑張って」

車から降りようとするわたしの手を理沙ちゃんが掴んだ。

「どうした美月」

 懐かしい空気に包まれた。子供の頃からそうだった。理沙ちゃんの目には揺るぎない正義感が宿っていて、だからわたしは理沙ちゃんの“どうした美月”が好きだった。どんなことでも解決してくれる、そんな心強さがあった。そしてそれは、今も変わらない。

「理沙ちゃん……楓って知ってる?東風の三年生なんだけど」
「知ってるよ」

理沙ちゃんは「とりあえず適当に走るね」と言って車を発進させた。

 時間はもうすぐ十九時になる。手短に話す必要があった。

「楓ってどんな生徒?やっぱり問題児?」
「ぜーんぜん。むしろその逆。毎日学校に来るし、遅刻もしない」

前に楓が言っていたことは本当だった。

「それに」と理沙ちゃんは話を続ける。

「友達もいっぱいいて、後輩からも慕われてるよ」

わたしの知っている楓が次々と戻ってくる。

「あと、成績も一番だし」

楓が頭いいのはわかる。青果店での暗算は見事だった。でも、まさか一番とは。

「理沙ちゃんから見て、楓っていい生徒?」
「もちろん」
「でもね、楓には二つの顔があるみたいで。中学の頃はバイク盗んだり、車いっぱい壊したり、傷害事件起こして警察連れて行かれたりしてたって。もっと酷い話いっぱいあるんだけど」
「美月と楓はどういう関係なの?」
「それは……」
「答えにくかったら答えなくていいよ」
「楓はわたしのこといっぱい助けてくれて、でも、東風の生徒だからこれ以上関わる訳にはいかなくて。お父さんたちに知れたら大変なことになるし、家族裏切ってるみたいで嫌で、でも、楓と一緒にいると楽しくて……」

わたしは理沙ちゃんに今までのことをすべて話した。

楓がいくつものバイトをしていること、お年寄りたちに慕われていること、夜、家を抜け出して楓といろんなところに行ったこと。思い出したことは全部話した。

「美月は楓のことが大好きなんだね」
「だったと思う」
「どうして過去形?」
「楓のことがわからなくなって。わたしの知ってる楓と違う楓がいて、それに……お姉ちゃんが死んだのは楓のせいだって……」
「どういうこと?」

葵くんから聞いたことを理沙ちゃんに話した。わたしの話を聞いた理沙ちゃんは「どうして葵くんに琉依くんが自殺したってわかるの?」と首を傾げた。

その言葉にはっとした。遺書が見つかったわけでもないのに、自殺かどうかなんてわかる筈がない。そんなことにも気付けないくらい余裕がなかった。

「本当だ……」
「どれだけ人望があったって、全員に好かれるなんて無理よ。楓みたいに仲間が多ければなおさら。人が集まれば、その中には楓をよく思わない人だって出てくる。そういうやつらが外で悪口を言ったり、ありもしない話を吹聴したりするのよ」
「楓を信じてもいいのかな……」
「美月は、美月が見てきた楓を信じたらいいんじゃない?」
「でも、楓がいい人なのはわたしの前だけで…」

理沙ちゃんは「そうだね、他では悪い奴かもしれない」そう言ってわたしの顔を一瞥すると「でも」と話を続けた。

「美月にとっていいやつだったらそれでいいんじゃないかな?過去に酷いことをしたかもしれないし、もう一つの顔があるのかもしれない、それでも、美月にとっていいやつだったらそれでいい」

 楓と過ごした日々の思い出が一つまた一つと浮かび上がる。

「ねぇ理沙ちゃん……わたし……楓と一緒にいてもいいのかな」
「正直、おじさんたちのことを思うと、どう答えていいか難しい。静花があんなことになって、それなのに美月が東風の男子と付き合ったなんて知ったら、おじさんはともかくおばさんの精神状態が心配。だから美月」

理沙ちゃんは真剣な顔でわたしを見つめると、おおよそ大人が、しかも教師が言うとは思えない言葉を口にした。

「とにかく、二人にバレないようにしな。どうせ来年には東風卒業するわけだし、卒業すれば東風の生徒じゃなくなるわけだから、それまでは絶対にバレないように気を付けること」

まさかのアドバイスに驚くけれど、そういえば理沙ちゃんはこういう人だ。

「それにしても楓には驚いたよ。バイトをいくつも掛け持ちしながら一人で暮らしているなんて。それでいて毎日遅刻せずに学校に来て、しかも成績はトップって、欠点を探す方が難しいじゃん。おじさんたちからすれば、東風っていう欠点が一つあるだけで十分なんだろうけど」

理沙ちゃんは突然、真剣な表情で遠くを見つめる。

「美月の人生は美月のものなんだよ。だから、それを貫きたかったら、両親を大切にしな。そうすれば、必ずわかってもらえる日が来るから。わたしはね、二人のこと応援しているし、なにか困ったことがあったらなんでも言って。できることは全部やるから」

理沙ちゃんはこういう人でもあった。

「あと最後に、静花が美月のお姉ちゃんだって知って、楓も美月と同じように辛い気持ちでいるんじゃないかな」

理沙ちゃんの言葉にはっとした。

 理沙ちゃんに言われるまで楓の気持ちを考えていなかった。いっぱいいっぱいになって、自分だけが苦しんでいる気になっていた。でも、楓だって辛いに決まっている。どうしてそんなことにも気付けなかったのだろう。楓はいつだってわたしの心の痛みに気が付いてくれたのに。傍にいて、温めてくれたのに――。

「理沙ちゃん!わたし帰る!」

 時間は十九時半になろうとしている。理沙ちゃんは「急だね」と笑うと車を走らせた。

 玄関に入ると家の中は静まり返っていた。テレビの音一つしない家の中に違和感を覚えつつリビングに入ると、テーブルの前に座っていた父と母が、軽蔑するような目でわたしを見た。