楓は、わたしを山の麓にある広い公園に連れてきた。石積みの壁に囲まれた趣のある公園の大きな池では鯉が優雅に泳いでいた。
「あっ楓、鯉が泳いでるよ」
今から楓が話すことが、わたしにとっていい話ではないことはわかっている。それでもなんでもない顔をして必死に空気を軽くしようとしていた。それは、この怯えを悟られたくないからなのか、楓が話しやすい環境を作っているのか、自分でもよくわからない。
「ねぇ楓、なんか鯉寄って来たよ!」
「本当だ」
池にはたくさんの鯉がいて、赤や黒の背中が水を押し分け集まってくる。幾重にも重なり、水面から口を出すとパクパクと空気を食む。池全体が生き物の鼓動で満たされ、その勢いに圧されて一歩下がった。
「な、なんか……怖い」
わたしを見て、ずっと固かった楓の表情がわずかに緩む。
「うわっ向こうから大きいの来たよ楓!」
「本当だ」
大きな鯉は目の前に来ると他の鯉を踏みつけ上へ上へと顔を出す。
「鯉にも性格ってあるのかな」
「これを見る限りありそうだね」
「うん…」
池から少し離れたところに設置されたベンチに座った。
楓はなにかを話そうとしては、静かに深く息をするを繰り返している。なにから話そうか考えているのか、それとも話すことを躊躇しているのか、それは楓にしかわからない。ただ、その時間がわたしの想像力を加速させ、胸を締め付けていることは確かだった。早くこの時間から解放されたくて、でも、聞くのが怖くて仕方がなかった。
遠くから子供の声が聞こえてくる。この場の空気とはまるで違う明るくて元気な声。暫しその声に耳を傾けていた。
そして、ようやく楓の声が耳に届く。
「琉依は俺の仲間だったんだ」
その声は風にさらわれ、辺りはまた静まり返った。
ずっと憎んできた相手が楓の仲間だったと知り、胸の奥でなにかが蠢く。お姉ちゃんを失ったあの日から一度も忘れたことのない、何度も何度も繰り返し憎んできたその人が楓の仲間だったなんて――。
わたしが小学六年の時、父は会社を辞めて自分で事業を始めた。安定を望む母は反対したけれど、父は一度決めたら突き進む人だった。正反対の性格をしている二人だけど、とても仲が良かった。お姉ちゃんの死は、そんな二人の仲までも切り裂いた。
なんとか立て直そうと必死になればなるほど、家族は少しずつ、でも、あっという間に崩れていった。毎日が辛かった。辛ければ辛いほど、お姉ちゃんを死なせた五十川琉依を恨んだ。
ずっと憎んできたその人が、楓の仲間だった。
事故を起こしたのは楓ではない。楓はなにも悪くない。頭ではわかっている。それでも、名前を聞くだけで吐き気がするほど憎んできた相手と仲良くしていた楓を、今までと同じように見つめることができるのか、わからなかった。
「五十川琉依とお姉ちゃんは――どういう関係だったの」
「静花は琉依の彼女だった」
「えっ…」
足元から世界が崩れていくようだった。わたしたち家族の心をひとつにし支えてきた唯一の柱が今、砕け散った。
「お姉ちゃんと五十川琉依が付き合っていた……そんなの嘘だよ」
「琉依は集まりに静花を連れてきて、彼女だと俺たちに紹介して。それからは、静花も一緒に遊ぶようになったんだ」
今になってお姉ちゃんのことがまったくわからなくなった。いいことも悪いことも、失敗したことさえ家族に話すような人だった。嘘や隠しごとのない真っすぐな性格のお姉ちゃんが、家族に内緒で東風の男子と付き合っていたなんて信じられない。
――お姉ちゃんは、どんな顔で楓たちと一緒にいたのだろう。
「二人はどうして付き合うことになったの?」
「それは聞いていないからわからない」
長い沈黙が流れた。心の整理がつかなくて、今、この場所ですべてを納得することは不可能だった。
「楓から見たお姉ちゃんってどんな人だった?」
なんとなく零した質問を楓はすぐに拾った。
「明るくて元気な、誰からも好かれる、そんな人。大きな声で笑って、大きな声で叱ってた。琉依はキレやすい性格で、よく人と争いごとを起こすから、その度に静花は琉依を叱って、その度に琉依は子供みたいにしょんぼりしてたよ」
楓の記憶の中にいるお姉ちゃんは、わたしの記憶にあるお姉ちゃんと一緒だった。でも、わたしの知っているお姉ちゃんは、家族に内緒で東風の男子と付き合ったりしない。それでも、お姉ちゃんが五十川琉依と付き合って、そしてあのバイク事故で死んだのは事実。
両親との約束を破って東風の男子なんかと関わるからだとお姉ちゃんを責めて、それが見事に全部自分へと返ってくる。そしてまた、楓が東風じゃなかったらと、振り出しに戻る。いや、五十川琉依と友人だったと知った今、振り出しとは言えない。
「ごめん楓、わたし――」“帰る”そう言おうとしたわたしの言葉を遮るように楓は「あの」と声を上げる。視線がぶつかり、楓はじっとわたしを見つめる。なにかを言いだそうとして、けれど言えないでいるのが嫌なくらい伝わってくる。
「美月……」
わたしの名前を呼ぶ楓の声は、悲しさに溢れていた。
おばあさんが言っていた、楓には影があると。今、その影がわたしにもはっきりと見えている。どんな闇も一瞬で吹き飛ばしてしまう楓を深く重い影が覆っている。楓の口が薄く開く。その黒い影の正体が告げられる。
「俺のせいなんだ……琉依が事故を起こしてしまったのは」
「どういうこと……」
楓は眉をひそめると地面のどこかをじっと見つめ、まるで言葉が重さを持ったかのように、ゆっくりと話し始めた。
「あの日、琉依が静花と会うってわかっていたのに、琉依と喧嘩になってしまったんだ。琉依の性格はわかっていたのに、俺はあいつの気持ちを落ち着かせることをしないまま、静花のところに向かわせてしまったんだ。それで、あの事故が起きた」
頭の中で簡潔な文章が完成する。
――楓と五十川琉依が喧嘩をしなかったらお姉ちゃんは死ななかった。
それは次第に簡単な文字へと変化する。
――楓のせい。
「わたし、帰る……」
その場に立ち上がると楓は「わかった」そう一言だけ言うと立ち上がった。
力のない足が地面を削りザッと音を立てる。砂埃なんて舞っていないのに喉の奥がざらついて咳き込んでしまいそうになる。頭の中では“楓のせい”という文字がぐるぐると回っているのに、心の中はまるで空洞にでもなったかのように静まり返っている。悲しみも苛立ちもない。今、楓の口から聞いた事実がそこにあるだけ。
家の近くのコンビニでバイクから降りると、すぐさま背を向けた。
「美月……」
背を向けたまま足を止めると楓は「ごめん」と謝った。それは、お姉ちゃんを事故に遭わせたことに対する謝罪でないことはわかった。なにが?そう訊く前に楓の切ない声が届く。
「俺、どうしても美月の前から消えることができない。次の金曜、二十時、ここで待ってる」返事をする前にバイクの音は遠ざかっていった。
「あっ楓、鯉が泳いでるよ」
今から楓が話すことが、わたしにとっていい話ではないことはわかっている。それでもなんでもない顔をして必死に空気を軽くしようとしていた。それは、この怯えを悟られたくないからなのか、楓が話しやすい環境を作っているのか、自分でもよくわからない。
「ねぇ楓、なんか鯉寄って来たよ!」
「本当だ」
池にはたくさんの鯉がいて、赤や黒の背中が水を押し分け集まってくる。幾重にも重なり、水面から口を出すとパクパクと空気を食む。池全体が生き物の鼓動で満たされ、その勢いに圧されて一歩下がった。
「な、なんか……怖い」
わたしを見て、ずっと固かった楓の表情がわずかに緩む。
「うわっ向こうから大きいの来たよ楓!」
「本当だ」
大きな鯉は目の前に来ると他の鯉を踏みつけ上へ上へと顔を出す。
「鯉にも性格ってあるのかな」
「これを見る限りありそうだね」
「うん…」
池から少し離れたところに設置されたベンチに座った。
楓はなにかを話そうとしては、静かに深く息をするを繰り返している。なにから話そうか考えているのか、それとも話すことを躊躇しているのか、それは楓にしかわからない。ただ、その時間がわたしの想像力を加速させ、胸を締め付けていることは確かだった。早くこの時間から解放されたくて、でも、聞くのが怖くて仕方がなかった。
遠くから子供の声が聞こえてくる。この場の空気とはまるで違う明るくて元気な声。暫しその声に耳を傾けていた。
そして、ようやく楓の声が耳に届く。
「琉依は俺の仲間だったんだ」
その声は風にさらわれ、辺りはまた静まり返った。
ずっと憎んできた相手が楓の仲間だったと知り、胸の奥でなにかが蠢く。お姉ちゃんを失ったあの日から一度も忘れたことのない、何度も何度も繰り返し憎んできたその人が楓の仲間だったなんて――。
わたしが小学六年の時、父は会社を辞めて自分で事業を始めた。安定を望む母は反対したけれど、父は一度決めたら突き進む人だった。正反対の性格をしている二人だけど、とても仲が良かった。お姉ちゃんの死は、そんな二人の仲までも切り裂いた。
なんとか立て直そうと必死になればなるほど、家族は少しずつ、でも、あっという間に崩れていった。毎日が辛かった。辛ければ辛いほど、お姉ちゃんを死なせた五十川琉依を恨んだ。
ずっと憎んできたその人が、楓の仲間だった。
事故を起こしたのは楓ではない。楓はなにも悪くない。頭ではわかっている。それでも、名前を聞くだけで吐き気がするほど憎んできた相手と仲良くしていた楓を、今までと同じように見つめることができるのか、わからなかった。
「五十川琉依とお姉ちゃんは――どういう関係だったの」
「静花は琉依の彼女だった」
「えっ…」
足元から世界が崩れていくようだった。わたしたち家族の心をひとつにし支えてきた唯一の柱が今、砕け散った。
「お姉ちゃんと五十川琉依が付き合っていた……そんなの嘘だよ」
「琉依は集まりに静花を連れてきて、彼女だと俺たちに紹介して。それからは、静花も一緒に遊ぶようになったんだ」
今になってお姉ちゃんのことがまったくわからなくなった。いいことも悪いことも、失敗したことさえ家族に話すような人だった。嘘や隠しごとのない真っすぐな性格のお姉ちゃんが、家族に内緒で東風の男子と付き合っていたなんて信じられない。
――お姉ちゃんは、どんな顔で楓たちと一緒にいたのだろう。
「二人はどうして付き合うことになったの?」
「それは聞いていないからわからない」
長い沈黙が流れた。心の整理がつかなくて、今、この場所ですべてを納得することは不可能だった。
「楓から見たお姉ちゃんってどんな人だった?」
なんとなく零した質問を楓はすぐに拾った。
「明るくて元気な、誰からも好かれる、そんな人。大きな声で笑って、大きな声で叱ってた。琉依はキレやすい性格で、よく人と争いごとを起こすから、その度に静花は琉依を叱って、その度に琉依は子供みたいにしょんぼりしてたよ」
楓の記憶の中にいるお姉ちゃんは、わたしの記憶にあるお姉ちゃんと一緒だった。でも、わたしの知っているお姉ちゃんは、家族に内緒で東風の男子と付き合ったりしない。それでも、お姉ちゃんが五十川琉依と付き合って、そしてあのバイク事故で死んだのは事実。
両親との約束を破って東風の男子なんかと関わるからだとお姉ちゃんを責めて、それが見事に全部自分へと返ってくる。そしてまた、楓が東風じゃなかったらと、振り出しに戻る。いや、五十川琉依と友人だったと知った今、振り出しとは言えない。
「ごめん楓、わたし――」“帰る”そう言おうとしたわたしの言葉を遮るように楓は「あの」と声を上げる。視線がぶつかり、楓はじっとわたしを見つめる。なにかを言いだそうとして、けれど言えないでいるのが嫌なくらい伝わってくる。
「美月……」
わたしの名前を呼ぶ楓の声は、悲しさに溢れていた。
おばあさんが言っていた、楓には影があると。今、その影がわたしにもはっきりと見えている。どんな闇も一瞬で吹き飛ばしてしまう楓を深く重い影が覆っている。楓の口が薄く開く。その黒い影の正体が告げられる。
「俺のせいなんだ……琉依が事故を起こしてしまったのは」
「どういうこと……」
楓は眉をひそめると地面のどこかをじっと見つめ、まるで言葉が重さを持ったかのように、ゆっくりと話し始めた。
「あの日、琉依が静花と会うってわかっていたのに、琉依と喧嘩になってしまったんだ。琉依の性格はわかっていたのに、俺はあいつの気持ちを落ち着かせることをしないまま、静花のところに向かわせてしまったんだ。それで、あの事故が起きた」
頭の中で簡潔な文章が完成する。
――楓と五十川琉依が喧嘩をしなかったらお姉ちゃんは死ななかった。
それは次第に簡単な文字へと変化する。
――楓のせい。
「わたし、帰る……」
その場に立ち上がると楓は「わかった」そう一言だけ言うと立ち上がった。
力のない足が地面を削りザッと音を立てる。砂埃なんて舞っていないのに喉の奥がざらついて咳き込んでしまいそうになる。頭の中では“楓のせい”という文字がぐるぐると回っているのに、心の中はまるで空洞にでもなったかのように静まり返っている。悲しみも苛立ちもない。今、楓の口から聞いた事実がそこにあるだけ。
家の近くのコンビニでバイクから降りると、すぐさま背を向けた。
「美月……」
背を向けたまま足を止めると楓は「ごめん」と謝った。それは、お姉ちゃんを事故に遭わせたことに対する謝罪でないことはわかった。なにが?そう訊く前に楓の切ない声が届く。
「俺、どうしても美月の前から消えることができない。次の金曜、二十時、ここで待ってる」返事をする前にバイクの音は遠ざかっていった。

