境界線の向こうに眠る

「お母さん、コーヒー淹れるね」

返事がなくても気にせずコーヒーを淹れると、ダイニングテーブルに座る母の前に出した。昨日から、少しずつ母と一緒にいる時間を増やしている。急にだと変に思われそうだから、少しずつ増やしていこうと思っている。

 日曜日の今日は、楓のバイトを手伝う約束をしている。先週と同じように「今日は、図書館で勉強してくるね」そう話すと、母はうつむいたまま口を開いた。

「勉強は家でできるでしょ?」

“読みたい本がある”なんて言ったらまた、“お姉ちゃんにはそれができないんだよ”と言われるのではないかと考えて言葉を詰まらせてしまう。それでも、言ってみることにした。

「読みたい本があるの」

母はコーヒーを一口飲むと熱そうに顔をしかめ、消え入る声で話した。

「お姉ちゃんも本が好きだったのに……」

いつもならここで話をやめていた。でも、ゆっくりと独り言のように話してみた。

「小さい頃、お姉ちゃんがわたしを寝かしつけるとか言って絵本読んでくれてさ、でも、途中から勝手に物語り作っていくから、それが可笑しくてまったく眠れなかったな」

ちらっと母の顔を見ると、なにか考えているような表情を浮かべている。母がなにか話すかもしれないと思い、ダイニングテーブルに座った。

すると母は、小さな声で話し始めた。

「お姉ちゃんは発想が豊かだったもんね」
「うん。夏休みの日記もほぼ想像で書いていたしね」
「夏休みに入って一週間で書き終わって」
「そう。嘘にならないようにお父さんが海とか動物園とかに連れて行ってくれたよね」

表情こそ乏しいけれど、母の心は落ち着いているように見えた。

 久しぶりに母と“会話”をした。それが少し嬉しくて、でもなんだか照れ臭かった。

***

 楓と合流し電気屋さんに行くと、晴れているのに涼しいからか、散歩をしているお年寄りや、庭に出て草をむしっているお年寄りがちらほらと見受けられる。バイクを降り、ヘルメットを脱ぐと紫色の派手な服を着た恰幅のいいおばあさんが声を掛けてきた。

「おはよう」

楓と一緒に挨拶を返すとおばあさんは足を止める。

「昨日テレビに楓くんそっくりの子が出てたよ。なんて言ったかな、髪の毛の色も同じで、えーっと……楓くんに会ったら話そうと思って覚えておいたつもりだったのに、嫌だね歳を取るとこれだから」
「じゃあ、思い出したら教えてよ」
「うん、楓くんみたいなイケメンなんだけどね⋯⋯」

“イケメン”という言葉を自然に使っているのが面白かった。

おばあさんは突然「あっ!」と思い出したかのように大きな声を出すと、声高々にその名前を口にするけれど、四十代の俳優さんだったからさすがの楓も返答に困っていた。

「言われたことあるかも」
「でしょう」

おばあさんは満足そうに言うと歩いて行った。

 今日、最初に向かったのは、障子の張替えを頼まれている家だった。

 家に着くとまさかの家主が留守で、玄関には置き手紙があった。それは楓に向けて書いたものだった。

「障子の張替えお願いしますだって。入ろう」
「う、うん」

楓の後を追って二階に行くと、三部屋すべての障子紙がボロボロになって剝がれていた。廊下には障子の張替えに必要な道具が準備されている。バイクでは荷物を運ぶことができないため、前日に電気屋の社長さんが準備してくれたらしい。

 障子戸を外すと廊下に並べていく。わたしは楓から教えてもらった通り、障子紙のはがし剤を塗っていった。はがし剤が染み込むのを待ってからゆっくりと剝がしていくと、思いの外綺麗に剥がれる。作業スペースを確保する為、剥がし終わったものは壁に立て掛けていった。

 作業はスムーズに行われたものの、障子戸が十二枚もあった為、すべて剥がし終わるのに結構な時間が掛かった。

「枠が乾くまでの間、エアコンのフィルター掃除に行こう」
「すぐに貼れないんだね」
「前にそれやって、ちゃんとくっつかなくて倍時間掛かって最悪だったことがある」

楓は「もう途中でやめたくなったよ」と顔をしかめると笑う。これだけたくさんのことができるようになった裏には、きっと数々の失敗があったのだろう。それでも投げ出さずにできることを増やしていった。そして、今の楓があるのだと知ると、なんだか前の楓にも会ってみたいなんて、叶いもしないことを思った。

 外に出ると、電球の交換を依頼していたおばあさんと会った。

「今日、電球交換に来てくれるのよね?」
「三十分くらいしたら行けるよ」

楓が答えると、おばあさんは続けて尋ねてきた。

「ついでに庭の草むしりもお願いしたいんだけど時間ある?」

今日はこの後、フィルター掃除と玄関ドアの修理、そしてなにより障子の張り替えが十二枚もある。楓は少し悩むとわたしを見た。

「美月、草むしりやっていてくれない?俺、その間に他のところ終わらせてくるから」

わたしができることは草むしりしかない。断る理由などどこにもなく、すぐに了承すると一旦楓と別れ、おばあさんに付いて行った。

 おばあさんの家は、ここら辺で一番と言っていい程、手入れの行き届いた、綺麗な家だった。庭には飛び石の道があって、花壇には色とりどりの花が咲き誇り、日当たりがいい場所では野菜が育てられていた。

 おばあさんは物置小屋から草むしりに必要なものを出してくると「お願いね」と言って家に入って行った。わたしはこの前の情けない結果を挽回すべく、気合を入れて草むしりを始めた。

 楓のように両手を器用に使いながら作業を進めていくと、雑草で青々としていた地面が土の色へと変わっていく。気が付けば積み重なった雑草の山がいくつも出来ていた。一旦ゴミ袋に回収すると結構な量だった。

 徐々に楽しく感じるようになり、夢中になって作業を進めていると、おばあさんが声を掛けてきた。

「随分と綺麗になったね。ちょっと休憩にしましょう」

おばあさんは縁側に座るように合図をすると、ペットボトルのジュースを差し出した。

「ありがとうございます」

飲み物を受け取り縁側に座ると、おばあさんはもう一度、庭を見渡した。

「随分綺麗になったね、この歳になると草むしりは大変でね。若いっていうのは素晴らしいことだよ。こんなことを言ってもわからないかもしれないけど、若いってのはそれだけで素晴らしい。歳を取ると体は痛くなるし病気はするし本当、面倒なことばかりが起こる。夜中に何度もトイレに起きるしね。もううんざりしてたんだけど、楓くんと会ってからはね、少しずつ生きていることを楽しめるようになってきてね」
「楓と会ってから?」
「ほら、あの子見た目が派手でしょ、なんか見ているだけで元気になるんだよ。それにお願いしてないことまでやってくれて本当に助かる。庭があると雑草が生えて大変だから去年、ここを全部コンクリートにしちゃおうと思っていたんだけど、楓くんが、雑草は自分が取るから野菜作りは続けた方がいいって言ってくれてね。この歳になるとやりたくてもやれないことが出てきてしまう。でも、楓くんのおかげでやりたいことができているのよ」

楓のやっていることはただのアルバイトではなかった。楽しく過ごせる為の手助け。わたしが考える以上に、楓は誰かの役に立っている。ああして町のみんなと会話をすることもそう。みんなを元気にしている。

「楓って凄いんですね」
「そうね、あんな子は珍しいね。まだ高校生だっていうのに随分と苦労してきたんだろうね。なにも聞きはしないけど、あの子にはどこか影がある。あんなに派手にしていても、いくら明るく振る舞おうと、年寄りにはそれがわかってしまうのよ」

影――そんなの感じたことなかった。確かに楓は中学三年生の時に母親を亡くしてからは一人暮らしで、でも、影があるようにはどうしても見えない。いつも元気で明るくて、なんなら人が抱える影を吹き飛ばす力がある。そんな楓に影なんて――。

おばあさんは話を続けた。

「なにがあったかわからないけど、きっと、とても悲しいことがあったんでしょうね。そういった経験が傷になって変にすれてしまうことがあるけど、あの子には全くそういうところがない。苦労してきた分、人に優しい。ちゃんと捕まえてなよ、楓くんのこと。あんないい子他にいないよ。この年寄りが言うんだから間違いない」

おばあさんの言うことには説得力があって、だからわたしは不安になっていた。急にふっと、目の前から楓がいなくなってしまうような、そんな不安に襲われた。