境界線の向こうに眠る

***


「ねぇ楓、あれ本当?前に言っていた、ほぼ皆勤賞ってやつ」
「本当。なに?まかさ嘘だと思ってたの?」

楓はライターの火を花火の先に近づける。

「うん」

薄い紙がじりじりと燃え、刹那静寂の後、赤色の光が闇に飛び出す。楓はわたしに花火を差し出すと「マジかぁ、じゃあ先生に電話して聞いてみる?」と真顔で言うから思わず笑ってしまう。やっぱり楓は面白いなと思った。

「楓はなんでそんなに楓なの?」

とりとめのない質問への答えは、楓がもう一本の花火に火を付けた後に届いた。

「他の人になる練習してこなかったからじゃない?」

楓の発言を笑うように金色の光の粒が四方に飛び散る。花火の弾ける音とわたしたちの笑い声、そして虫たちの明るい鳴き声が重なった。

「変なこと言わないでよ」
「美月が変な質問するから」

ますます可笑しくて笑うわたしとは正反対に、楓は薄い笑顔を見せる。

 花火が二本とも消え、楓は新しい花火に火を付けるとそれをわたしに差し出し「今日、家出る前になにかあった?」と軽い口調で言うと自分の花火に火を付けた。

 母の言葉を思い出す。すると芋づる式にいろんな思いが溢れてくる。会えなかった五日間も、今、こうして一緒にいることも、ヒロさんに言われたことも“なにかあった?”の中に入っている。

「ちょっとね、お母さんの気分損ねちゃって」
「俺には話せないこと?」

 花火が消え、辺りが暗くなる。橋の街灯が川面を照らし、細長い光がゆらゆらと揺れている。大きな川の向こうからは、バイクのエンジン音が聞こえている。

「わたしにはお姉ちゃんがね、いたんだ。もう少しで一年半になる。お姉ちゃんが死んでから」

沈黙が夜に染み込んでいく。楓は次の花火に火を付けることはなかった。

「悲しい思いをしてきたんだね」

心を撫でるような優しい声が耳に届く。その声が、言葉が、誰にも話せなかった、いや、話そうとも思わなかったわたしの中での出来事を外へと導く。

「お姉ちゃんが死んでから、お母さんは精神的に病んでしまって、前みたいに普通の会話ができなくなったの。わたしが明るく振舞ったり、楽しそうにすると、お姉ちゃんのこと忘れたのって言って。なにか新しいことを始めようとすると、なにもできないお姉ちゃんの気持ちを考えなさいって。お母さんを刺激しないように最適解を探して、それでも不正解を出してしまえば、自分の存在意義がわからなくなるような言葉が返ってくる。まるでわたしが生きていることを忘れてるみたいに、お母さんはお姉ちゃんが死んだことを悲しんでる」

また、深い沈黙が訪れる。こんな話をされては返答に困るに決まっている。だからそろそろ話題を切り替えることだって、花火に火を付けてもらうことだってできるのに、わたしは黙ったまま揺れる川面を見ていた。それは、今が居心地悪くないからなんだ。言葉なんかなくていい。わたしのことを少し知ってくれただけで十分――だったのに、楓はパンクしてしまいそうなわたしの心に隙間を作ってくれた。

「一緒にいるのが辛い?」
「うん……でも、早く元気になって欲しいとは思う。だから、いろいろやってはみたんだけど失敗だった」
「どんなことしたの?」
「お姉ちゃんはわたしたち家族を明るく照らす太陽みたいな人で、だから、お姉ちゃんみたいに振舞えば元気になってくれるかと思ったんだけど、駄目だった」
「辛いのに、家族の為に頑張ったんだね美月は」

痛んだ心をそっと包み込むような楓の言葉に、思わず涙がこみ上げてくる。きっと、誰かからこんな風に言って欲しかったのだと思う。

「でも、もうどうしていいかわからない。なにもしないで、お母さんと一緒にずっと、お姉ちゃんのことを悲しんで生きて行けばいいのかな。あの日から、一歩も前に進まないで」

楓は首を横に振ると、夜空を見上げた。空には半分の月が浮かんでいる。

「美月のお母さんが、美月に辛く当たってしまうのは、前に進もうとして頑張っているからだよ。乗り越えようとするのって、動かないでいるよりもずっときついから、どうしてもね、心が荒れてしまうんだ」
「じゃあ、今は、なにを言われても我慢していればいいの?」
「日常のことを合わせてみたら、少しずつ変わっていくかもしれない。食べるスピードとか話すスピードとか。会話がなくても、ただ、傍にいたり。何気ないことだけど、毎日のことだから。積み重なっていくものだから大切にしなきゃいけない」

毎日のことだから、積み重なっていくものだから――楓の言葉が胸に重くのしかかる。少しずつ、でも確実にわたしはお母さんの心に穴を空けていたんだ。

 母が食事を終えるまで一緒にいたことなんてずっとなかった。わたしも父も食事が終わるとすぐにその場から離れた。会話だってそうだ。連絡事項と質問に答えるだけで、それが終わればまた、すぐにその場から離れた。憂鬱な顔で食事をする姿を見ているのが辛かったし、会話をすれば不正解を出してしまいそうで怖かった。そうやってわたしは母を避けて、孤独にさせていたんだ。

「わたし、お母さんのこと独りぼっちにしていた」

急に涙が溢れ出した。お姉ちゃんが死んで悲しいのは当然のことだし、悲しむのは悪いことじゃないのに、いつまでもあの状態でいる母を疎ましく感じてしまっていた。心も行動も母から離れていた。でも、わたしも辛かったんだ。自分を保つのに必死だった。

 心の叫びが聞こえたかのような言葉が降りてくる。

「大変だったら俺にぶつければいい。美月の世話は俺がするから」

月明かりに照らされた楓の優しい笑顔。こんなことを言われてしまえば、楓への思いが溢れ出しそうになる。

「どうしてそんな風に言ってくれるの?」
「美月のことが好きだから」

らしくなくストレートな言葉が返ってくるから心臓が驚いている。楓はなにも言わず黙っているわたしに花火を差し出すと「俺、返答間違えた。“知ったら後悔するよ”だったわ」なんて言うから笑ってしまう。

「そっちの方が楓っぽい」

楓は笑顔になったわたしを嬉しそうな顔で見ると、自分の花火に火を付けた。

 風が徐々に冷たくなり、橋を通る車の音もまばらになっていく。楓は最後の花火に火を付けるとわたしにくれる。奔放に散る光を見ながら、この前からずっと気になって頭から離れないそれを口に出そうか迷っている。

――わたしたちはお互いを知り尽くしたうえで誰よりも深く繋がっている。心も、体も。

 ヒロさんと同じ答えが返ってきた時、自分がどうなってしまうのかがわからなくて不安で、でも、訊かないわけにはいかなかった。

「楓とヒロさんはどういう関係なの?」

楓がなんでもないことのように「幼なじみ」そう答えてからすぐに「あれ?この前言わなかったっけ?」と首を傾げる。そろそろ消える花火を見ながら「ヒロさんは楓のことが好きなんだよ」そう言った瞬間花火は消え、辺りが暗くなる。

 虫の鳴き声に混じって楓の声が聞こえてくる。

「美月にヒロがなにか言ったの?」

わたしはその質問には答えなかった。

「気付いてるんでしょ、ヒロさんの気持ちに。楓が気付かないわけないよ」

まるで色で見えているみたいに人の気持ちを読み取る楓が、ヒロさんの気持ちに気付かない筈がない。楓が答えるまでに少しの間があった。

「あいつの気持ちに応えることができないから、気付いていないふりしてる」

ヒロさんの話が全部本当なら、楓はヒロさんを都合のいい女として扱っていることになる。

「ヒロさん言ってたよ、楓がひとりで孤独な時ずっと自分が傍にいたって、誰よりも深く繋がってるんだって心も……体も」

わたしの発言に楓は、あからさまに焦る。

「ちょっと待て待て、なんて?俺が孤独な時ずっと傍にいた?」
「お母さんが亡くなった時のことかな?」

楓は「あぁ」と短く声を漏らすとガクッと首を下げ、すぐに顔を上げると当時のことを話し始めた。

「あいつあの頃親とうまくいってなくて、家出して友達の家を転々としていたんだよ。けど、みんなに迷惑がられて行く場所がなくなって。そんな時、俺が一人暮らしを始めたもんだからすかさず転がり込んで来てさ。あれ、マジで迷惑だったわ。冷蔵庫の中のもの勝手に食べるし、なぜか俺が床で寝る羽目になるし、部屋散らかすし。正直、誰とも話したくなくて、頼むから一人にしてくれって感じだったしね。多分、あの頃からヒロは俺に気があって、もしかしたら俺を心配して一緒にいたのかもしれないけど、俺は昔からあいつのことを女として見たことは一度もないし、だから体が繋がるとかそんなのは絶対にあり得ないんだよ」
「あんなに綺麗な人なのに、女の人として見たことないの?」
「よくあいつのこと、そうやって言うやついるけど、近すぎてあいつが綺麗だとかそういうの全然わかんないんだよね」
「楓と恋人以上の関係だって言ってたよ、ヒロさん……」
「それってどんな関係だよ、腐れ縁の最終形態みたいな関係ってこと?」
「多分、家族みたいな関係ってことだと思う」
「いや、無理だろ?あんなに部屋散らかすやつ」

呆れたように話す楓の口調には親しみが込められていて、二人の関係の深さを感じてしまう。もう、自分の気持ちを隠しきれなくなりそうだった。

「わたし、帰る」
「だからそれ、びっくりするんだって。急に帰るってなるやつ。美月、ごめんねヒロが変なこといろいろ言ったみたいで。でもあいつ悪い奴じゃないから嫌わないでやって」

楓の言葉がわたしの胸を苦しめたのは初めてのことだった。鼓動が一拍遅れ、今度は取り戻すように胸を叩く。目頭が熱くなり、鼓動が涙を押し出そうとするのを必死に堪えた。

「ヒロさんのことでわたしに謝ったりしないで」

冷静な口調だったと思う。だから次に楓が口にするのは謝罪の言葉だと思った。燃え尽きた花火を拾い、ビニール袋に入れると楓の静かな声が降ってきた。

「美月、それ、俺のことが好きだってバラしてるけど大丈夫?」
「えっ…」

虫たちの鳴き声が一斉に止み、夜の静けさの中に楓の大人しい声が響く。

「ごめん、美月の気持ち知りたくて、わざとヒロを(かば)うようなことを言った」

怒ることなんてできる筈もなく、わたしは膝に顔を埋めた。

「大丈夫じゃないよ。バレたらまずい……」

少しすると楓の声が聞こえてくる。

「わかった。じゃあ、そのこと俺には内緒にしておくよ」

なんで楓はこんなにも楓なんだろうと、また、思う。

「なにそれ……そんなことできるの……」
「美月の為ならなんでも」

虫たちの声が戻ってきて、膝から顔を上げると楓を見た。穏やかな優しい笑顔がそこにはあって、この笑顔を忘れることは一生ないと思った。