境界線の向こうに眠る

 雨は何日も途切れることなく降り続いていた。もう、楓と会わなくなってから五日が経っている。日々はすっかり楓と出会う前に戻り、なにごともなく過ぎていく。

 放課後、連絡がないかスマホをチェックしていると玲香ちゃんが声を掛けてきた。

「美月、この前借りていたお金。利息を付けて五百円プラス」

 机の上に五千円札と百円玉を五枚並べると、玲香ちゃんは「大丈夫美月?」とわたしを気に掛ける。あれからずっとこの調子だ。
 
 月曜日、わたしは玲香ちゃんにすべてを話した。東条くんがわたしに言ったことも、部室から聞こえてきた話も、駅で彼女と一緒に歩いていたことも、わたしが東条くんを好きだったことも全部。話を聞いた玲香ちゃんは、なぜか突然泣き出した。そして、謝罪の言葉を口にしながら、涙の理由を話した。

 玲香ちゃんは、わたしが東条くんを好きなことに気が付いていたという。ところが、いつまで経っても打ち明けてはもらえず、それが不満だったらしい。東条くんのことが好きだと言ったのは、わたしの口から本当のことを聞き出すための、作戦だったという。最後に玲香ちゃんは「親友だと思っているのに、全部話してくれないんだもん」と言った。

 玲香ちゃんはすべてを話すと下を向いたまま静かに泣いていた。わたしは、人付き合いの難しさを思い知らされ、打ちのめされていた。いくら息を吸っても肺が満たされない、そんな息苦しさを感じていた。

 玲香ちゃんがわたしを親友だと思ってくれているのは嬉しかった。でも、自分のことをすべて話さなければならないのなら、わたしにとっては重い存在になってしまう。とはいえ、玲香ちゃんの気持ちを知り、秘めていた自分の思いを伝えたことで、前よりも距離が縮まったような気がした。

 目の前の玲香ちゃんはまだ、わたしの様子を窺っている。

「大丈夫だって何回も言ってるでしょ?」
「ごめん、しつこいねわたし。それにしても、まさか東条くんがそんな人だとは思わなかったよね、人は見かけによらないってこのこと?」
「そうかもね」
「東条くんモテるけど、わたしは全然タイプじゃないんだよなぁ。だから、美月と好きな人が被ることはないから安心して」
「玲香ちゃんのタイプって?」
「わたしはちょっと不良っぽい方が好き。たとえば、東風の楓くんとか?会ったことないけど」

突然、楓の名前が出てきて言葉が喉につかえた。楓とのことは誰にも話したくはない。狭間で揺れているこの気持ちは、自分だけで抱え込んでいたいから。それにしても、早速、隠しごとができてしまった。

「部活に行かなきゃ」
「そうだね、じゃあ」

 玲香ちゃんと別れ部室に行くと、もう一度スマホを開いた。日曜日から一度も楓からの連絡はない。金曜日の今日は、楓は青果店でバイトをしている。そして、五時半から六時半までタイムセールが行われる。たくさんのお客さんに囲まれ笑顔で話す楓の姿が目に浮かぶ。今日は帰りに豆腐を買ってくるように頼まれている。だから青果店の前で足を止めれば、楓はわたしに気が付いて声を掛けてくれる。そして、夜の町にまた誘ってくれるかもしれない。

 床を弾くバスケットボールの音が体育館から聞こえてくる。あれから東条くんとは一度も会話を交わしてはいない。東条くんが返事を聞きに来るまで、なにも言わないと決めた。本気か冗談かわからないけど玲香ちゃんは「拡散しちゃえば?」なんて言っていた。でも、東条くんを困らせてやりたいといった気持ちはまったくない。自分とは別の価値観で生きている人。ただそれだけのことだから。

 体育館に行くと、男子が試合方式で練習をしている。東条くんは相変わらず洗練された見事な動きを見せるけど、胸の中は凪のまま、ぴくりとも反応しなかった。

 部活を終え、商店街へと向かった。今日は夕方から晴れると言っていたのに、未だ雨雲は空一面に居座ったまま細かな雨を降らせている。雨降りの鬱屈した匂いと湿気に包まれながら、頭の中ではヒロさんの言葉を思い出している。

「わたしたちはお互いを知り尽くしたうえで誰よりも深く繋がっている。心も、体も」

心も――体も。

わたしといない間もきっと二人は毎日一緒にいて、そして――楓の部屋で二人だけの深い夜を過ごしていたのかもしれない。想像はどこまでも鮮明にかつ豊かに浮かび上がり、事実と想像の境目を曖昧にしていく。

 目まぐるしく変化していく楓の毎日の中で、わたしとの出会いなんてほんの一瞬の出来事に過ぎなかったのかもしれない。楓にとってわたしはすでに過去の人になってしまっていて、きっと、日曜日にバイトを手伝う約束をしたことも忘れているに違いない。

 商店街に着くと、青果店の前には人だかりができている。威勢のいい楓の声が聞こえ、胸が圧迫される。人混みに身を隠すように商店街を進み、青果店の前に差し掛かると脇を歩く人と歩幅を合わせ、息を呑み気配を消して通り過ぎた。

 立ち止まるなんてできなかった。そういえばこんなやついたな――なんて顔をされるのが怖かった。隣を歩く人に一瞥され、歩幅をずらした。さっさと豆腐を買って帰ろうと、鞄から財布を取り出そうとしたその時――。

「美月!」

まるで肩をぽんと叩くような呼び声だった。振り返るとそこにはいつもの楓がいて、視界にその姿が入って来た瞬間、時間が止まったように足が動かなくなって。でも、いつだってそうだった、楓の方から駆け寄ってきてくれる。

 タイムセールは店長と思われる中年男性が後を継いでいた。楓は目の前に来ると向こうの方を指差し「豆腐屋?」と首を傾げる。わたしが頷くと楓は「なんだ残念、俺に会いに来たんじゃないんだ」なんて無邪気な笑顔で話すから、色褪せていた世界に少しだけ光がともる。

「忙しそうだったから声掛けなかった」
「そっか」
「うん、じゃあね」

五日ぶりの再会があっけなく終わりかけた瞬間、楓がわたしを引き留めた。

「美月!」

屈託のない笑顔が目に飛び込んでくる。

「二十時にコンビニに集合」

 突然、商店街に陽が差し込み、辺りは瞬く間にオレンジ色に染まる。初めて会った時もそうだった。目がくらむ程の強い西日が商店街を照らしていて、でも、その光がかすむ程に楓の笑顔は輝いていた。

「どこに連れて行ってくれるの?」

自然と、そんな言葉を漏らしていた。

「河川敷で花火でもしようか」

遠い昔の夏が蘇る。火薬の匂いが鼻をかすめ、目の前で色鮮やかな光が弾けた。

 子供の頃は夏休みに家族と近所に住む同じ歳くらいの子たちを交えてよく、花火をして遊んだ。その中心にいるのはいつもお姉ちゃんで、花火を使って文字を書き、わたしたちは文字を当てるのに一生懸命だった。線香花火はわたしが得意で、お姉ちゃんは『面倒臭い』と言って束のまま火を付けて、あっという間に地面に落としていた。両親は、『姉妹でどうしてこうも違うんだろう?』と笑っていた。そんな楽しい夏の思い出が、今は切ない思い出にすり替わってしまった。もう、あの夏が戻ってくることはない。

「花火、やりたい」
「よし、じゃあ決まり!」

楓が切ない思い出に違う色を重ねてくれる気がした。