境界線の向こうに眠る

 放課後の教室、帰り支度や部活に向かう生徒達で辺りが騒がしくなる中、パチンという音に振り向くと、そこには、ぎゅっと目を閉じ顔の前で手を合わせる玲香ちゃんの姿があった。

「お願い美月お金貸して」

人にお金を貸さない方がいいことくらいわかっている。けれど、玲香ちゃんが不安そうな目をするから、結局五千円札を差し出した。優しさとかじゃない。そっちの方が平和だと思っただけ。

「ありがとう美月!一週間以内、いや二週間以内には絶対に返すから」

鞄から財布を取り出すと「いいよ、ゆっくりで」そんな言葉と一緒に五千円札を差し出した。その時、大きな声が聞こえてきた。

「はぁ?楓?それって東風学園のトップだろ?お前何で生きてんの?」

その話に興味を持ったのか、玲香ちゃんはお金を受け取らずに、ロッカーの前で話す男子たちのところへと行ってしまった。

「なにがあったの?」

質問に答えたのはうちの学校で唯一の問題児、篠原くんだった。

「昨日、中学の同級生と話しながら町ふらついてたら人とぶつかって、文句つけてやろうかと思ったら東風の楓でさ」
「えっ、やっぱ楓くんって噂通りのイケメン?」
「まぁ」
「それで?ぶつかってどうなったの?」
「大丈夫?て心配された。まぁ、俺にビビって⋯」
篠原くんの言葉は途中で遮られてしまった。
「えっかっこいい!」

篠原くんは少し不服そうな顔をしているけど、その回答に周りの男子も興奮気味だ。

「そんなくらいじゃキレないんじゃない?東風のトップは」
「言えてる!」
「俺も一回でいいから実物見てみたい、遠くから」

笑い声が湧く。そしてまた、質問が飛び交う。

「やっぱ、オーラ凄いの?」
「まぁ」
「身長は?」
「高めかな」
「どんな見た目してんの?怖い?」
「全然」

玲香ちゃんは終始、両手で口を覆い「きゃっ」と声を上げながら、その場で跳ねていた。どうやら有名な人らしい。それなのに、実物を見た人はほとんどいない。学校もかなり離れているから、東風の生徒と顔を合わせる機会はほとんどない。ただ、噂話だけはどこからともなく入ってくる。
 
 玲香ちゃんはわたしのところに戻ってくると、「わたしも会ってみたいな楓くんに。だってあの東風のトップでしかもイケメンだよ。美月は?興味ない?」と質問された。胸の中がざわついた。“東風”その名前を聞くだけで心が乱れそうになる。玲香ちゃんは悪くない。なにも知らないのだから。「全然興味ないかな」そう答えるとまだ渡していなかった五千円札を差し出した。

 玲香ちゃんは手を振る代わりに、受け取った五千円札をひらひらさせて「ありがとう」と言い、教室を出て行った。
 
 辺りを見渡した。ロッカーの前では男子たちが盛り上がり、窓際には人気の先輩を待つ女子が集まっている。いつもと変わらない放課後の光景だった。長谷部くんは今日も土井くんに嫌がらせをしていて、玲香ちゃんは今日も衣織ちゃんがいないところで陰口を言っていた。

 なにも変わらない日常。わたしがクラスメイトの東条くんに片思いしていることも、東条くんに年上の彼女がいることも。こんな毎日でいい。いや、こんな毎日がいい。なにもない平坦で平和な毎日が続いてほしい。