楓がバイトする加賀美モータースは古く、決して綺麗とは言えない建物だった。看板やシャッターは錆び、外壁には応急処置のような補修の跡が残っていた。整備場の前にバイクを停めると、それぞれの持ち場で作業をしていた人たちが一斉にこちらを振り返った。
そして、その中の一人が不機嫌な声を上げた。
「楓、誰そいつ」
そいつとは明らかにわたしのことで、それを言ったのは女の子だった。
刺すような視線に緊張感が走った。わたしを好意的に思っていないことは、その目を見ればわかる。顔立ちは人形のように美しく、でも人を寄せ付けない孤高で冷たい雰囲気が漂っている。
「友達」
楓がそう答えると、彼女は楓の足元に向かって工具を滑らせる。
「奥のバイクのオイル交換よろしく」
「オイル交換に使わない道具よこすな」
楓は、工場の中に入るようわたしに手招きをした。
中に入ると、油と金属が入り混じった匂いが漂っている。
「お疲れ様です」
わたしがみんなに挨拶をすると、楓は仕事仲間を紹介してくれた。
そこにいたのは、加賀美モータースの社長さんと、渡辺さんという三十代くらいの男性、そして、綺麗な顔をした女の子はヒロさんと言って、楓の幼なじみだった。
楓は床から工具を拾うと彼女の前に置いた。
「ヒロ、お前手袋しろよ、怪我すんだろ?」
「その時は、全部楓にやってもらうから大丈夫」
「そういうセリフすぐに思い付くの本当、感心するわ」
「どういたしまして」
「いいえ、こちらこそ」
真顔で見つめ合うと、同時に吹き出す楓とヒロさん。二人の間には、自然な空気が流れていて、わたしと話す時と違う、楓のちょっと荒っぽい口調から、気の置けない仲であることが伝わってくる。長い時間を共に過ごした信頼関係がそこにはあった。
社長さんと渡辺さんは二人のやり取りに“また始まった”と言いたげに、笑いながら作業を続けている。それに比べて、わたしの胸には小さな痛みが広がっていた。
楓の作業の様子を、少し離れたところで見ていた。慣れた手つきで作業を行う楓の真剣で、少し緊張感を纏った姿はとても魅力的に目に映った。
オイルで汚れた手袋を拭くと、抜き取ったオイルを片付け、新しいオイルを慎重に注いでいく。バイクを汚さないよう細心の注意を払っているのがわかる。それと同時に、バイクが好きなことも伝わってくる。
周囲からは、工具を無造作に置く金属音が鳴り響いている。それとは対照的に楓は床に寝かせるように静かに置く。バイクに目を向けながらでも、工具を置く手は常に丁寧さを欠かない。もっと大雑把で細かいことを気にしないタイプだと思っていたけれど、それとは真逆と言っていい程、繊細で几帳面な性格が垣間見えた。
工場の中にエンジン音が轟き、楓の表情が緩む。
「はい、完了」
すると、スクーターを修理していたヒロさんの方からもエンジン音が聞こえてきた。二人は目を合わせると、お互いが持っていた工具を同時に手の中で回し、笑顔を見せ合った。言葉のないやり取りは二人だけの合図。完了したことと、お互いを讃える二つの意味が込められているように見える。
わたしの胸にはまた、小さな痛みが走った。
時間は十五時を回り、楓が直したバイクを取りにお客さんが来ると、わたしは事務所で待っているように言われた。
ドリンクコーナーで、楓からもらった紙コップにコーヒーを注ぐと椅子に座った。するとそこに、ヒロさんが入って来た。彼女は冷蔵庫から飲み物を出すと、それを一気に喉に流し込む。そして、わたしに声を掛けてきた。
「あんたどこの高校?」
「北翠です」
ヒロさんは帽子を脱ぐと投げるようにテーブルに置き、髪をかき上げると冷たい目を向けた。
「北翠の女が東風の男に関わってんなよ」
きつく放たれた言葉に驚いて固まっていると、更にきつい言葉が飛んでくる。
「うぜんだよお前みたいな女。楓の周りをちょろちょろしあがって。北翠の女は北翠の男とでも仲良くしてろよ。わざわざ東風の男と関わる必要ねぇだろ」
孤高な雰囲気から勝手に無口だと決めつけていた。ヒロさんは「あのね!」と語気を強めた。
「楓とわたしはずっと一緒だったの。楓がひとりで孤独な時も、わたしがずっと傍にいた。わたしたちはお互いを知り尽くしたうえで誰よりも深く繋がっている。心も、体も」
心も――体も。
その言葉はわたしの胸を貫いた。
「わかったらもう、楓に関わんな」
胸が痛くて、それでも恐る恐る訊いてみた。
「ヒロさんと楓はその……恋人同士なんですか?」
ヒロさんはわたしから目を逸らすとテーブルの上から帽子を取り、深くかぶる。そして、出て行く寸前に「下らない」と声を漏らし振り返ると「それ以上の関係」そう言葉を残し出て行った。
母親が亡くなってから一人で暮らしていると楓は言っていた。母親が亡くなって部屋で一人、いくつもの夜をどう乗り越えてきたんだろうと考えた。どうしてそんなに強いのだろうと思った。でも、楓は一人じゃなかった。ヒロさんがずっと傍にいて、だから楓は乗り越えることができたんだ。だとすれば、ヒロさんの言う通り、わたしの入る隙間なんてない。心も体もつながっている恋人以上の関係。本当に二人がそういう関係なら、楓はどういうつもりでわたしにあの言葉を言ったのだろう。楓という人がわからなくなった。
そして、その中の一人が不機嫌な声を上げた。
「楓、誰そいつ」
そいつとは明らかにわたしのことで、それを言ったのは女の子だった。
刺すような視線に緊張感が走った。わたしを好意的に思っていないことは、その目を見ればわかる。顔立ちは人形のように美しく、でも人を寄せ付けない孤高で冷たい雰囲気が漂っている。
「友達」
楓がそう答えると、彼女は楓の足元に向かって工具を滑らせる。
「奥のバイクのオイル交換よろしく」
「オイル交換に使わない道具よこすな」
楓は、工場の中に入るようわたしに手招きをした。
中に入ると、油と金属が入り混じった匂いが漂っている。
「お疲れ様です」
わたしがみんなに挨拶をすると、楓は仕事仲間を紹介してくれた。
そこにいたのは、加賀美モータースの社長さんと、渡辺さんという三十代くらいの男性、そして、綺麗な顔をした女の子はヒロさんと言って、楓の幼なじみだった。
楓は床から工具を拾うと彼女の前に置いた。
「ヒロ、お前手袋しろよ、怪我すんだろ?」
「その時は、全部楓にやってもらうから大丈夫」
「そういうセリフすぐに思い付くの本当、感心するわ」
「どういたしまして」
「いいえ、こちらこそ」
真顔で見つめ合うと、同時に吹き出す楓とヒロさん。二人の間には、自然な空気が流れていて、わたしと話す時と違う、楓のちょっと荒っぽい口調から、気の置けない仲であることが伝わってくる。長い時間を共に過ごした信頼関係がそこにはあった。
社長さんと渡辺さんは二人のやり取りに“また始まった”と言いたげに、笑いながら作業を続けている。それに比べて、わたしの胸には小さな痛みが広がっていた。
楓の作業の様子を、少し離れたところで見ていた。慣れた手つきで作業を行う楓の真剣で、少し緊張感を纏った姿はとても魅力的に目に映った。
オイルで汚れた手袋を拭くと、抜き取ったオイルを片付け、新しいオイルを慎重に注いでいく。バイクを汚さないよう細心の注意を払っているのがわかる。それと同時に、バイクが好きなことも伝わってくる。
周囲からは、工具を無造作に置く金属音が鳴り響いている。それとは対照的に楓は床に寝かせるように静かに置く。バイクに目を向けながらでも、工具を置く手は常に丁寧さを欠かない。もっと大雑把で細かいことを気にしないタイプだと思っていたけれど、それとは真逆と言っていい程、繊細で几帳面な性格が垣間見えた。
工場の中にエンジン音が轟き、楓の表情が緩む。
「はい、完了」
すると、スクーターを修理していたヒロさんの方からもエンジン音が聞こえてきた。二人は目を合わせると、お互いが持っていた工具を同時に手の中で回し、笑顔を見せ合った。言葉のないやり取りは二人だけの合図。完了したことと、お互いを讃える二つの意味が込められているように見える。
わたしの胸にはまた、小さな痛みが走った。
時間は十五時を回り、楓が直したバイクを取りにお客さんが来ると、わたしは事務所で待っているように言われた。
ドリンクコーナーで、楓からもらった紙コップにコーヒーを注ぐと椅子に座った。するとそこに、ヒロさんが入って来た。彼女は冷蔵庫から飲み物を出すと、それを一気に喉に流し込む。そして、わたしに声を掛けてきた。
「あんたどこの高校?」
「北翠です」
ヒロさんは帽子を脱ぐと投げるようにテーブルに置き、髪をかき上げると冷たい目を向けた。
「北翠の女が東風の男に関わってんなよ」
きつく放たれた言葉に驚いて固まっていると、更にきつい言葉が飛んでくる。
「うぜんだよお前みたいな女。楓の周りをちょろちょろしあがって。北翠の女は北翠の男とでも仲良くしてろよ。わざわざ東風の男と関わる必要ねぇだろ」
孤高な雰囲気から勝手に無口だと決めつけていた。ヒロさんは「あのね!」と語気を強めた。
「楓とわたしはずっと一緒だったの。楓がひとりで孤独な時も、わたしがずっと傍にいた。わたしたちはお互いを知り尽くしたうえで誰よりも深く繋がっている。心も、体も」
心も――体も。
その言葉はわたしの胸を貫いた。
「わかったらもう、楓に関わんな」
胸が痛くて、それでも恐る恐る訊いてみた。
「ヒロさんと楓はその……恋人同士なんですか?」
ヒロさんはわたしから目を逸らすとテーブルの上から帽子を取り、深くかぶる。そして、出て行く寸前に「下らない」と声を漏らし振り返ると「それ以上の関係」そう言葉を残し出て行った。
母親が亡くなってから一人で暮らしていると楓は言っていた。母親が亡くなって部屋で一人、いくつもの夜をどう乗り越えてきたんだろうと考えた。どうしてそんなに強いのだろうと思った。でも、楓は一人じゃなかった。ヒロさんがずっと傍にいて、だから楓は乗り越えることができたんだ。だとすれば、ヒロさんの言う通り、わたしの入る隙間なんてない。心も体もつながっている恋人以上の関係。本当に二人がそういう関係なら、楓はどういうつもりでわたしにあの言葉を言ったのだろう。楓という人がわからなくなった。

