境界線の向こうに眠る

 わたしの周りにいる人はみんな“東風”と聞けば顔をしかめる。橋の向こうを“奈落街”などと呼んで、忌み嫌い蔑んだ。でも、ここでは楓は必要とされ、そして愛されている。金髪もピアスも悪じゃない。そういえば、青果店でもそうだった。楓と関わる人々は皆、笑顔だった。

 おじいさんが直して欲しいのは玄関ドアだった。そして、楓の見立て通り、ドアクローザーを交換すれば万事解決するらしい。料金は部品と工賃を入れて一万五千円とのことで、おじいさんも「それくらいなら」とほっとした様子だった。

 時間は十三時半になろうとしている。楓は近くの古びた商店に入ると「協力してやんないと潰れると悪いからさ」そう言ってパンと飲み物を買うとバイクを少し走らせ、公園の駐車場に入った。

 公園の隣には鄙びた神社があって、鬱蒼と生い茂る木々が公園に大きな影を落としている。その古木の根が、公園の乾いた地面を持ち上げている。

「つまずかないように気を付けなよ」

まるで大きな生物の背骨が埋まっているかのように盛り上がったでこぼこの地面を慎重に歩き、ベンチに腰を下ろした。

「お疲れ。はい、バイト代」

ほとんど役に立っていないのに、もらうわけにはいかない。

「もらえないよ。役に立ててないもん」
「受け取ってくんないと、来週手伝ってもらいにくくなるでしょ?」
「来週?」

楓は“早く取れ”というように顎を突き上げる。しぶしぶ封筒を受け取ると、来週のバイトの内容が告げられた。

「来週は、電球の交換とドアクローザーの交換、あと、エアコンのフィルター掃除に、障子の張替え」
「えっ!そんなにあるの?楓、障子の張替えなんてできるの?」
「楽勝」

ドアを直せるだけでも凄いと思っていたのに、障子の張替えまでできてしまうなんて驚いてしまう。

「なんでそんなことができるようになったの?」
「やってるうちに?まぁでも、障子の張替えなんて最初は酷い出来だったけどね」

楓は、その頃の自分を思い出すように遠くを見つめると、懐かしそうに目を細める。

 同級生に比べて、自分は家の手伝いをしている方だと思っていた。それでも楓に比べれば、何もしてこなかったに等しい。歳は一つしか違わないのに、時間は平等に与えられているのに、積み重ねてきたものが、まるで違った。

「もしかして楓って毎日バイトしてるの?」
「そうだね。月曜から金曜までが青果店で、土曜日はバイク屋、日曜日はなんでも屋って感じ」
「バイク屋?」
「加賀美モータースってところでバイトしてる。今はまだ、資格がないから大したことはできないんだけどね。帰り、少しそこに寄ってもいい?十五時に、バイク取りに来るお客さんがいて、ちょっと説明したいことがあって」
「うん、わかった」

 わたしは昔から変化が苦手だった。昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日が来る。そんな、なにもない穏やかな日々が続いていくことを望んでいた。自分が我慢することで、波風が立たず平和に暮らせるのならそれでいいと思っていた。新しい出会いも、新しい出来事も望んではいなかった。それなのに、わたしは楓に出会ってしまったんだ。平坦で穏やかな日々を望むわたしが、家族に知れたら大変なことになるとわかっていながら、楓と一緒にいることを選び続けてしまう。初めてのアルバイトも、こうしてここでパンを食べることさえも、楓が一緒ならなんでも楽しいと感じる。その唇が動くたびに、どんな言葉が飛び出すか楽しみで、バイクに乗れば、見たことのない景色に感動する。楓はわたしの知らない世界をたくさん見てきて、これから自分の世界をどんどん広げていくのだと思う。そこに、わたしも連れて行ってほしいなんて思ってしまっている。